『姉上!!姉上!!!』
……この記憶は、誰のものなのだろう。
『朔夜。忘れなさい。決して、復讐などと考えるな』
幼い少年の、張り裂けんばかりの哀切が、私の内側へ直接流れ込んでくる。
目の前で、掛け替えのない存在を失った。
守りたかった。
けれど、守れなかった。
『どうして……。どうして、忘れられるものか……。姉上……っ!』
抱きしめてあげたいのに、腕が虚空を掻くだけで届かない。
どれほど必死に指先を伸ばしても、その幻影に触れることさえ叶わない。
ただ、幼い少年の胸を焼き尽くすような後悔だけが、私の体の奥へ流れ込んでくる。
『絶対に、許さない。俺が、すべてこの手で殺してやる……!』
その声に宿る憎しみが、あまりにも痛かった。
誰かを憎むというより、何もできなかった自分自身を、血が滲むほど責め続けているようで。
混濁した意識が、ゆるやかに覚めていく。
ふと、自分の目尻を熱い滴が伝い、枕を濡らしていることに気づいた。
あまりにも悲しく、あまりにも切ない。
胸を締め付けるような痛みが、現実の体温を奪っていく。
重い体を起こすと、そこがこれまで見たこともないような、上質な絹の寝具の上であることに気が付く。
肌に触れる布は信じられないほど滑らかで、私の知る薄い布団とはまるで違う。
一瞬、自分がまだ夢の中にいるのかと思った。
「目が覚めたか」
低い声が部屋の奥から聞こえる。
部屋を仕切る御簾を、荒々しい手つきで跳ね除けて入ってきた影。
あの凄絶な夜、私を死の淵から救い上げた男が、どさりと音を立てて寝台の傍らに腰を下ろした。
「お前、名は。なんという」
「え……あ、梓。諏訪、梓です」
二人の間に、張り詰めたような沈黙が降りる。
聞きたいことは、山ほどあった。
ここはどこなのか、集落から逃げ出した人々は無事なのか。
そして何より、残してきた永太と琴のこと。
鬼の正体も、あの番という言葉の意味も。
何から口にすべきか迷い、私はまず、喉の奥に引っかかっていた言葉を絞り出した。
「あの、貴方の、お名前を——」
「お前な!!!何を考えている!!」
私の問いを、怒号が真っ向からねじ伏せた。
思わず肩が跳ねる。
「えっ?」
「いかに非常時であったとはいえ、向こう見ずにも程がある!鬼狩りの伴侶でもないのに。出会ったばかりの素性の知れぬ男に対し、よくも考えなしに……!」
「な……っ」
「まともな説明も聞かないまま、鬼狩りの番を引き受けるなど、正気の沙汰ではない!莫迦なのか?莫迦なのだろう!!」
必死だった。
助けられた恩を返したい、その一心だったのに。
胸の奥が、かっと熱くなる。
叱られていることが悔しいのではない。
あの場で彼を見捨てる選択など、私にはどうしてもできなかっただけ。
「目の前に、今にも死にそうな人がいて……。助けたいと思うのが、当然です!」
「それでも、踏み越えてはならぬ一線というものがあるだろう!」
「でしたら、貴方も同じでしょう!見ず知らずの私を、貴方もあの時、助けてくださったじゃないですか!?」
「……!」
言葉を失った彼を、私はじっと見据えた。
後悔などしていない。
私は、決して間違ったことはしていないはずだ。
もし、あの時に戻ったとしても。
私は、再び迷わず彼の苦しみを受け入れただろう。
「……先ほど、何を言いかけた」
気まずそうな沈黙を破り、彼が声を低めて尋ねてきた。
怒鳴った直後のせいか、その声にはまだ熱が残っている。
けれど、先ほどより少しだけ角が取れていた。
「貴方の、お名前を教えていただきたくて」
「……睦月、朔夜だ」
「朔夜、さん」
「朔夜でいい。睦月は、鬼狩り一番隊隊長としての、いわば称号のようなものだ」
「……鬼狩り。本当に、夢じゃないんだ……」
眠りに落ちる前の光景が、脳裏を掠める。
家族に棄てられ、異形の鬼に襲われた、あの絶望。
助けられ——そして、首筋を。
そっと、噛み痕の残る首筋に指を添えると、そこには微かな、けれど確かな熱が宿っていた。
指先でなぞっただけで、あの時の息遣いが蘇る。
甘美なまでの苦痛。
彼の腕の強さ。
牙が食い込むと同時に流れ込んできた、言葉にならない孤独。
私の体温が、じりじりと上昇していく。
「……痛むか」
伸ばされた彼の手が、私の首筋に添えられた手の上に、重なるように置かれた。
その大きな手は、驚くほど繊細な体温を帯びている。
刀を握る人の手なのに、触れ方は壊れ物に触れるそれだった。
「あ、いえ。痛みは、全く……」
「そうか……」
あまりの勢いで忘れていたけれど。
先ほど、彼は「鬼狩りの伴侶でもないのに」と言わなかっただろうか。
「あの……伴侶以外が番となったら、どうなるんですか?」
「……他の隊員は、便宜上そうしている者が多いというだけの話だ。決して、決まりではない」
「そうなんですね。……もし、朔夜さんに心に決めた御方がいらしたら、申し訳ないと思って」
「ぷっ……。くくっ、お前、まず気にするのはそこか?」
あ、笑った。
初めて出会った時は、鉄の面のような無表情。
次に見たのは、死線を彷徨う苦悶の表情。
そして、今の激昂。
そのどれとも違う、ほんの少しだけ緩んだ口元。
彼が見せた初めての柔らかな表情に、不意に鼓動が跳ねた。
「案ずるな。そのような存在は、俺にはいない」
……この記憶は、誰のものなのだろう。
『朔夜。忘れなさい。決して、復讐などと考えるな』
幼い少年の、張り裂けんばかりの哀切が、私の内側へ直接流れ込んでくる。
目の前で、掛け替えのない存在を失った。
守りたかった。
けれど、守れなかった。
『どうして……。どうして、忘れられるものか……。姉上……っ!』
抱きしめてあげたいのに、腕が虚空を掻くだけで届かない。
どれほど必死に指先を伸ばしても、その幻影に触れることさえ叶わない。
ただ、幼い少年の胸を焼き尽くすような後悔だけが、私の体の奥へ流れ込んでくる。
『絶対に、許さない。俺が、すべてこの手で殺してやる……!』
その声に宿る憎しみが、あまりにも痛かった。
誰かを憎むというより、何もできなかった自分自身を、血が滲むほど責め続けているようで。
混濁した意識が、ゆるやかに覚めていく。
ふと、自分の目尻を熱い滴が伝い、枕を濡らしていることに気づいた。
あまりにも悲しく、あまりにも切ない。
胸を締め付けるような痛みが、現実の体温を奪っていく。
重い体を起こすと、そこがこれまで見たこともないような、上質な絹の寝具の上であることに気が付く。
肌に触れる布は信じられないほど滑らかで、私の知る薄い布団とはまるで違う。
一瞬、自分がまだ夢の中にいるのかと思った。
「目が覚めたか」
低い声が部屋の奥から聞こえる。
部屋を仕切る御簾を、荒々しい手つきで跳ね除けて入ってきた影。
あの凄絶な夜、私を死の淵から救い上げた男が、どさりと音を立てて寝台の傍らに腰を下ろした。
「お前、名は。なんという」
「え……あ、梓。諏訪、梓です」
二人の間に、張り詰めたような沈黙が降りる。
聞きたいことは、山ほどあった。
ここはどこなのか、集落から逃げ出した人々は無事なのか。
そして何より、残してきた永太と琴のこと。
鬼の正体も、あの番という言葉の意味も。
何から口にすべきか迷い、私はまず、喉の奥に引っかかっていた言葉を絞り出した。
「あの、貴方の、お名前を——」
「お前な!!!何を考えている!!」
私の問いを、怒号が真っ向からねじ伏せた。
思わず肩が跳ねる。
「えっ?」
「いかに非常時であったとはいえ、向こう見ずにも程がある!鬼狩りの伴侶でもないのに。出会ったばかりの素性の知れぬ男に対し、よくも考えなしに……!」
「な……っ」
「まともな説明も聞かないまま、鬼狩りの番を引き受けるなど、正気の沙汰ではない!莫迦なのか?莫迦なのだろう!!」
必死だった。
助けられた恩を返したい、その一心だったのに。
胸の奥が、かっと熱くなる。
叱られていることが悔しいのではない。
あの場で彼を見捨てる選択など、私にはどうしてもできなかっただけ。
「目の前に、今にも死にそうな人がいて……。助けたいと思うのが、当然です!」
「それでも、踏み越えてはならぬ一線というものがあるだろう!」
「でしたら、貴方も同じでしょう!見ず知らずの私を、貴方もあの時、助けてくださったじゃないですか!?」
「……!」
言葉を失った彼を、私はじっと見据えた。
後悔などしていない。
私は、決して間違ったことはしていないはずだ。
もし、あの時に戻ったとしても。
私は、再び迷わず彼の苦しみを受け入れただろう。
「……先ほど、何を言いかけた」
気まずそうな沈黙を破り、彼が声を低めて尋ねてきた。
怒鳴った直後のせいか、その声にはまだ熱が残っている。
けれど、先ほどより少しだけ角が取れていた。
「貴方の、お名前を教えていただきたくて」
「……睦月、朔夜だ」
「朔夜、さん」
「朔夜でいい。睦月は、鬼狩り一番隊隊長としての、いわば称号のようなものだ」
「……鬼狩り。本当に、夢じゃないんだ……」
眠りに落ちる前の光景が、脳裏を掠める。
家族に棄てられ、異形の鬼に襲われた、あの絶望。
助けられ——そして、首筋を。
そっと、噛み痕の残る首筋に指を添えると、そこには微かな、けれど確かな熱が宿っていた。
指先でなぞっただけで、あの時の息遣いが蘇る。
甘美なまでの苦痛。
彼の腕の強さ。
牙が食い込むと同時に流れ込んできた、言葉にならない孤独。
私の体温が、じりじりと上昇していく。
「……痛むか」
伸ばされた彼の手が、私の首筋に添えられた手の上に、重なるように置かれた。
その大きな手は、驚くほど繊細な体温を帯びている。
刀を握る人の手なのに、触れ方は壊れ物に触れるそれだった。
「あ、いえ。痛みは、全く……」
「そうか……」
あまりの勢いで忘れていたけれど。
先ほど、彼は「鬼狩りの伴侶でもないのに」と言わなかっただろうか。
「あの……伴侶以外が番となったら、どうなるんですか?」
「……他の隊員は、便宜上そうしている者が多いというだけの話だ。決して、決まりではない」
「そうなんですね。……もし、朔夜さんに心に決めた御方がいらしたら、申し訳ないと思って」
「ぷっ……。くくっ、お前、まず気にするのはそこか?」
あ、笑った。
初めて出会った時は、鉄の面のような無表情。
次に見たのは、死線を彷徨う苦悶の表情。
そして、今の激昂。
そのどれとも違う、ほんの少しだけ緩んだ口元。
彼が見せた初めての柔らかな表情に、不意に鼓動が跳ねた。
「案ずるな。そのような存在は、俺にはいない」



