「そんな、不安そうな顔をするな」
「……はい」
「今回の任務は、そう遠方ではない。明日の夜には必ず戻る。……分かったな」
昨晩、彼の壮絶な過去を聞いてしまったせいだろうか。
前回の討伐戦に同行した数日間を思えば、たった一晩の不在など、なんてことはないはずなのに。
今回も連れて行ってほしい。
置いていかないでほしい。
喉元まで出かかったその言葉を、必死に飲み込む。
朔夜が何も言わないということは、それが一番安全で合理的だからだ。
私を連れていくことが、今の彼にとって守るべき『弱点』を増やすことになるのだと、頭では痛いほど理解している。
余計な言葉で彼を煩わせないように。
聞き分けのよい、従順なふりをして、私はただ、唇を噛み締めた。
「……見送りの言葉は、言ってくれないのか?」
「え?」
意外そうな声に、私は驚いて顔を上げた。
かつての彼は、見送りも出迎えも、そんなものは不要だと言っていたのに。
「……行ってらっしゃい、朔夜」
なるべく、いつもの笑顔で。
「安全な任務」だと彼は言った。
けれど、彼の世界はとてもじゃないけれど安全とは言えない。
この別れが、彼と交わす最後の言葉にならないなんて保証は、どこにもないのだから。
私の言葉を聞いて、朔夜の表情が、ふっと和らいだ。
「……ああ、行ってくる」
不意に顔が近づいたと思う間もなく、吐息とともに、耳元でその約束が告げられた。
静かで、けれど確かに私へ向けられた声。
私の願望なのか、少しだけ甘く感じて、それだけで、胸の奥が痛いほど温かくなる。
次に声をかけるときは、心からの『おかえりなさい』でありたい。
そう強く祈りながら、門の向こうへと消えていく彼の背中をいつまでも、いつまでも見送っていた。
朔夜がいない屋敷は、静かで、広く感じる。
一人になると、何をすればいいのか途端に分からなくなってしまう。
廊下を渡る風の音も、遠くで働く使用人たちの気配も、いつもよりずっと頼りなく聞こえた。
手持ち無沙汰に耐えかねて、朔夜に買い与えられた着物を部屋に広げ整理を始める。
山のように積まれた、まだ一度も袖を通していない美しい服の数々。
指先で布地をなぞるたび、呉服屋で彼に「似合っている」と言われた時の声が蘇る。
明日、この中のどれかを着て出迎えたら、彼は一体どんな顔をするだろう。
少しでも、彼の疲れを癒せるような、華やかなものがいいだろうか。
それとも、落ち着いた色の方がいいのだろうか。
そんな他愛のないことを考えながら、丁寧に折り目に沿って着物を畳んでいく。
考えることがあるだけで、少しだけ不安が紛れた。
「梓様。……急なお客様がお見えですが、いかがいたしましょうか」
「お客様……ですか?」
使用人の言葉に手を止めた。
この屋敷を訪ねてくる心当たりなど、私には一人もいない。
訝しみながらも、お客様が通されたという応接間へと向かった。
そこに座っていたのは、あの——。
「西園寺、さん……」
私の姿を確認すると、彼女の喉が僅かに、緊張したように動く。
いつものように背筋は伸びている。
けれど、目元にはどこか落ち着きがなく、膝の上で握られた指先が強張る。
彼女が私に、何の用事があるというのだろう。
「あの、今日はどういったご用件でしょうか?」
問いかけても、彼女は膝の上で拳を握りしめ、視線を落としたまま何も答えない。
遠征の夜、私の荷物が無残に荒らされていた光景が、ふと脳裏を過る。
あんなにも朔夜の番になることに固執していた彼女が、彼の不在を狙って何かを企んでいると……信じたくはなかった。
けれど、信じたいと思う気持ちだけで、警戒を解くほどお人好しになることもできない。
目の前に出された湯呑みから、お茶の香りが立ち上る。
その匂いに、私は少しだけ逆立った心を落ち着かせようとした。
「——あの、西園寺さん……」
「あ、あの!か、厠をお借りしてもよろしいでしょうか!?」
再度用件を尋ねようとしたのを遮り、彼女は必要以上に大きな声を張り上げた。
あまりに唐突で、私は瞬きをする。
「え、あ……はい。少し構造が複雑ですので、ご案内しますね」
いつもの、自信に満ち溢れた様子とは明らかに違う。
会うたびに投げつけられていた、刃のような言葉は一つも出てこない。
視線は泳ぎ、何かに怯え、焦っているような、その異様な様子に違和感を覚えながらも、私は彼女を案内した。
「……あちらです。ここで待っていますね」
「あの……お、遅くなるかもしれませんので、先に戻っていただいても構いません!」
「いえ、広い屋敷ですから。迷うといけませんし、待っていますよ」
やはり、様子がおかしい。
上手く説明はできないけれど、胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
けれど、彼女はもう戸の向こうへ消えている。
しばらく、廊下には静けさだけが残った。
遠くで庭木が風に揺れる音がする。
私は戸の前に立ったまま、何度も落ち着かない呼吸を繰り返す。
彼女が戸の向こうへ消えて、少し経った時。
「梓様!度々申し訳ありません、あの……梓様の、妹様が……」
「鈴が!?」
「……はい」
「今回の任務は、そう遠方ではない。明日の夜には必ず戻る。……分かったな」
昨晩、彼の壮絶な過去を聞いてしまったせいだろうか。
前回の討伐戦に同行した数日間を思えば、たった一晩の不在など、なんてことはないはずなのに。
今回も連れて行ってほしい。
置いていかないでほしい。
喉元まで出かかったその言葉を、必死に飲み込む。
朔夜が何も言わないということは、それが一番安全で合理的だからだ。
私を連れていくことが、今の彼にとって守るべき『弱点』を増やすことになるのだと、頭では痛いほど理解している。
余計な言葉で彼を煩わせないように。
聞き分けのよい、従順なふりをして、私はただ、唇を噛み締めた。
「……見送りの言葉は、言ってくれないのか?」
「え?」
意外そうな声に、私は驚いて顔を上げた。
かつての彼は、見送りも出迎えも、そんなものは不要だと言っていたのに。
「……行ってらっしゃい、朔夜」
なるべく、いつもの笑顔で。
「安全な任務」だと彼は言った。
けれど、彼の世界はとてもじゃないけれど安全とは言えない。
この別れが、彼と交わす最後の言葉にならないなんて保証は、どこにもないのだから。
私の言葉を聞いて、朔夜の表情が、ふっと和らいだ。
「……ああ、行ってくる」
不意に顔が近づいたと思う間もなく、吐息とともに、耳元でその約束が告げられた。
静かで、けれど確かに私へ向けられた声。
私の願望なのか、少しだけ甘く感じて、それだけで、胸の奥が痛いほど温かくなる。
次に声をかけるときは、心からの『おかえりなさい』でありたい。
そう強く祈りながら、門の向こうへと消えていく彼の背中をいつまでも、いつまでも見送っていた。
朔夜がいない屋敷は、静かで、広く感じる。
一人になると、何をすればいいのか途端に分からなくなってしまう。
廊下を渡る風の音も、遠くで働く使用人たちの気配も、いつもよりずっと頼りなく聞こえた。
手持ち無沙汰に耐えかねて、朔夜に買い与えられた着物を部屋に広げ整理を始める。
山のように積まれた、まだ一度も袖を通していない美しい服の数々。
指先で布地をなぞるたび、呉服屋で彼に「似合っている」と言われた時の声が蘇る。
明日、この中のどれかを着て出迎えたら、彼は一体どんな顔をするだろう。
少しでも、彼の疲れを癒せるような、華やかなものがいいだろうか。
それとも、落ち着いた色の方がいいのだろうか。
そんな他愛のないことを考えながら、丁寧に折り目に沿って着物を畳んでいく。
考えることがあるだけで、少しだけ不安が紛れた。
「梓様。……急なお客様がお見えですが、いかがいたしましょうか」
「お客様……ですか?」
使用人の言葉に手を止めた。
この屋敷を訪ねてくる心当たりなど、私には一人もいない。
訝しみながらも、お客様が通されたという応接間へと向かった。
そこに座っていたのは、あの——。
「西園寺、さん……」
私の姿を確認すると、彼女の喉が僅かに、緊張したように動く。
いつものように背筋は伸びている。
けれど、目元にはどこか落ち着きがなく、膝の上で握られた指先が強張る。
彼女が私に、何の用事があるというのだろう。
「あの、今日はどういったご用件でしょうか?」
問いかけても、彼女は膝の上で拳を握りしめ、視線を落としたまま何も答えない。
遠征の夜、私の荷物が無残に荒らされていた光景が、ふと脳裏を過る。
あんなにも朔夜の番になることに固執していた彼女が、彼の不在を狙って何かを企んでいると……信じたくはなかった。
けれど、信じたいと思う気持ちだけで、警戒を解くほどお人好しになることもできない。
目の前に出された湯呑みから、お茶の香りが立ち上る。
その匂いに、私は少しだけ逆立った心を落ち着かせようとした。
「——あの、西園寺さん……」
「あ、あの!か、厠をお借りしてもよろしいでしょうか!?」
再度用件を尋ねようとしたのを遮り、彼女は必要以上に大きな声を張り上げた。
あまりに唐突で、私は瞬きをする。
「え、あ……はい。少し構造が複雑ですので、ご案内しますね」
いつもの、自信に満ち溢れた様子とは明らかに違う。
会うたびに投げつけられていた、刃のような言葉は一つも出てこない。
視線は泳ぎ、何かに怯え、焦っているような、その異様な様子に違和感を覚えながらも、私は彼女を案内した。
「……あちらです。ここで待っていますね」
「あの……お、遅くなるかもしれませんので、先に戻っていただいても構いません!」
「いえ、広い屋敷ですから。迷うといけませんし、待っていますよ」
やはり、様子がおかしい。
上手く説明はできないけれど、胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
けれど、彼女はもう戸の向こうへ消えている。
しばらく、廊下には静けさだけが残った。
遠くで庭木が風に揺れる音がする。
私は戸の前に立ったまま、何度も落ち着かない呼吸を繰り返す。
彼女が戸の向こうへ消えて、少し経った時。
「梓様!度々申し訳ありません、あの……梓様の、妹様が……」
「鈴が!?」



