湯浴みを終え、水分を含んだ彼女の髪から、一滴の雫が畳へとこぼれ落ちる。
その軌跡を、吸い寄せられるように見つめていた。
雫が彼女の寝間着に染み込むまでの、ほんのわずかな時間。
彼女がそこにいるという事実が、あまりに生々しく、温かい。
触れれば体温がある。
声をかければ、こちらを向く。
そんな当たり前のことが、これから語る過去の寒々しさとあまりにかけ離れていて、胸の奥に鈍く刺さった。
「……どこから、話せばいいんだろうな」
ぽつりと言葉を漏らす。
あの日の光景は、今でも時折、ひどく鮮明な悪夢となって俺を苛む。
口にするだけで、肺の奥にまで冷たい霧が入り込むような憂鬱が広がっていく。
五歳の子どもにとって、それは世界の終わりと同義の衝撃だった。
そのせいか、俺にはそれ以前の記憶が、何一つとして残っていない。
雪の降り積もる、静かな日だった。
その日の朝、母は産気づいて本宅を離れた。
屋敷に残されたのは、姉上と数人の使用人、そして俺だけ。
「朔夜。貴方は弟と妹、どちらがよいかしら?」
「どっちだろうな……。やっぱり、一緒に遊べる弟かな!」
明日か明後日になれば、父上と母上が帰ってくる。
そして、新しい家族が増える。
何も変わらない、幸福な日常が続いていく。
そう信じて疑わなかった。
「私は、弟は朔夜がいるから、妹がよいわ」
そう言って、姉上は微笑んだ。
十五歳という若さながら、数多の名家から縁談が舞い込むほど、姉上は美しかった。
五歳の俺から見ても、彼女はひどく大人びていて、凛としていて、それでいて柔らかな光を湛えたような人だった。
姉上が笑えば、屋敷の空気まで少し明るくなる。
幼い俺は、それが当たり前だと思っていた。
姉上はずっと姉上で、明日も、明後日も、同じように俺の隣で笑ってくれるのだと。
夜が更け、自室へ戻った時のことだ。
風もないのに、行灯の火が不自然に揺らめく。
子ども特有の鋭敏さで何かを察し、辺りを見回す。
しんしんと降り積もる雪の気配に紛れて、鉄の錆びたような、鼻を突く匂いがどこからか流れ込んできた。
なぜだろうか。
五歳の子どもが、それが血の匂いだと知るはずもないのに。
「……だれ?」
呼びかけに返る声はない。
音を立てないように襖を開き、廊下を這うように進む。
先ほどの匂いは、一歩進むごとに濃くなった。
甘ったるく、重く、喉の奥に絡みつく。
肌を刺す寒気とは別に、じっとりとした脂汗が全身から噴き出した。
「姉上っ……!」
得体の知れない何かへの恐怖さえ忘れ、俺は姉上の部屋へ飛び込んだ。
月明かりの差し込む視界に、二つの人影が重なっていた。
一人は項垂れるように身体を折られ、その上に、覆いかぶさるような影が蠢いている。
ドサッ、と力なく投げ出された白い腕。
銀色の月光に照らされたそれが、どす黒い紅に染まっていくのが見えた。
「あね、うえ……っ?」
声が、自分のものではないように震えていた。
気づけば、俺の手には一振りの日本刀が握られていた。
それまで一度も振るったことのない、重く冷たい鉄の塊。
どうしてそこにあったのか、どうやって掴んだのか、今でも思い出せない。
耳の奥では、爆音のような心臓の鼓動しか聞こえなかった。
俺は、夢中で姉上の身体に食らいつく何かの首筋に、持てる限りの力を込めて刀を振り下ろした。
刃が肉に沈む感触。
骨に当たって跳ね返る鈍い衝撃。
飛び散る飛沫が、血なのか、自分の涙なのかも分からない。
俺は何度も、何度も、狂ったように刃を叩きつけた。
すでに物言わぬ肉塊と化した「二体の何か」が動かなくなっても、俺の腕は止まらなかった。
姉上を返せ。
姉上を返せ。
それだけが、頭の中で焼けつくように響いていた。
「こっちから音がするぞ!!」
「急げ……!」
外の空気が白み始めた頃、数人の大人たちが部屋に駆け込んできた。
その怒号に、俺は初めて我に返り、手からするりと刀が落ちる。
「……これ、は……何だ、一体何が起きたのだ!?」
声のした方に目をやる。
そこには、絶句して立ち尽くす大人たちがいた。
「鬼……なのか、これは……?」
鬼?
これが、お伽話に聞く、あの鬼なのか……?
では、この鬼に、姉上は——。
けれど、彼らの恐怖に満ちた視線は、俺が斬り伏せた残骸でも、返り血を浴びた俺自身でもなかった。
その向こう。
部屋の奥へと向けられていた。
「は、やく……にげて……さく、や……」
掠れた、けれど確かに聞き覚えのあるその声に、俺は震えながら振り返った。
そこに立っていたのは、銀色の長い髪を揺らし、血のように真っ赤な瞳から大粒の涙を流す——。
言葉を失うほどに美しく、残酷な鬼だった。
俺の、大好きな姉上の姿形のままで。
「姉上……?」
呼びかけると、その鬼は顔を歪めた。
泣いているのか、笑っているのか、幼い俺には分からなかった。
ただ、その赤い瞳の奥に、どうしようもない苦しみだけが宿っていたことを覚えている。
大人の一人が俺を背後から抱え上げる。
「見るな!」
「離せっ、姉上が……姉上がそこにいるんだ!!」
暴れても、叫んでも、幼い身体ではどうにもならなかった。
遠ざかっていく視界の中で、姉上の姿をした鬼だけが、雪明かりのように白く浮かび上がっていた。
そして、あの声だけが、今も耳に残っている。
『逃げて』と。
俺を守ろうとした、姉上の最後の声だけが。
その軌跡を、吸い寄せられるように見つめていた。
雫が彼女の寝間着に染み込むまでの、ほんのわずかな時間。
彼女がそこにいるという事実が、あまりに生々しく、温かい。
触れれば体温がある。
声をかければ、こちらを向く。
そんな当たり前のことが、これから語る過去の寒々しさとあまりにかけ離れていて、胸の奥に鈍く刺さった。
「……どこから、話せばいいんだろうな」
ぽつりと言葉を漏らす。
あの日の光景は、今でも時折、ひどく鮮明な悪夢となって俺を苛む。
口にするだけで、肺の奥にまで冷たい霧が入り込むような憂鬱が広がっていく。
五歳の子どもにとって、それは世界の終わりと同義の衝撃だった。
そのせいか、俺にはそれ以前の記憶が、何一つとして残っていない。
雪の降り積もる、静かな日だった。
その日の朝、母は産気づいて本宅を離れた。
屋敷に残されたのは、姉上と数人の使用人、そして俺だけ。
「朔夜。貴方は弟と妹、どちらがよいかしら?」
「どっちだろうな……。やっぱり、一緒に遊べる弟かな!」
明日か明後日になれば、父上と母上が帰ってくる。
そして、新しい家族が増える。
何も変わらない、幸福な日常が続いていく。
そう信じて疑わなかった。
「私は、弟は朔夜がいるから、妹がよいわ」
そう言って、姉上は微笑んだ。
十五歳という若さながら、数多の名家から縁談が舞い込むほど、姉上は美しかった。
五歳の俺から見ても、彼女はひどく大人びていて、凛としていて、それでいて柔らかな光を湛えたような人だった。
姉上が笑えば、屋敷の空気まで少し明るくなる。
幼い俺は、それが当たり前だと思っていた。
姉上はずっと姉上で、明日も、明後日も、同じように俺の隣で笑ってくれるのだと。
夜が更け、自室へ戻った時のことだ。
風もないのに、行灯の火が不自然に揺らめく。
子ども特有の鋭敏さで何かを察し、辺りを見回す。
しんしんと降り積もる雪の気配に紛れて、鉄の錆びたような、鼻を突く匂いがどこからか流れ込んできた。
なぜだろうか。
五歳の子どもが、それが血の匂いだと知るはずもないのに。
「……だれ?」
呼びかけに返る声はない。
音を立てないように襖を開き、廊下を這うように進む。
先ほどの匂いは、一歩進むごとに濃くなった。
甘ったるく、重く、喉の奥に絡みつく。
肌を刺す寒気とは別に、じっとりとした脂汗が全身から噴き出した。
「姉上っ……!」
得体の知れない何かへの恐怖さえ忘れ、俺は姉上の部屋へ飛び込んだ。
月明かりの差し込む視界に、二つの人影が重なっていた。
一人は項垂れるように身体を折られ、その上に、覆いかぶさるような影が蠢いている。
ドサッ、と力なく投げ出された白い腕。
銀色の月光に照らされたそれが、どす黒い紅に染まっていくのが見えた。
「あね、うえ……っ?」
声が、自分のものではないように震えていた。
気づけば、俺の手には一振りの日本刀が握られていた。
それまで一度も振るったことのない、重く冷たい鉄の塊。
どうしてそこにあったのか、どうやって掴んだのか、今でも思い出せない。
耳の奥では、爆音のような心臓の鼓動しか聞こえなかった。
俺は、夢中で姉上の身体に食らいつく何かの首筋に、持てる限りの力を込めて刀を振り下ろした。
刃が肉に沈む感触。
骨に当たって跳ね返る鈍い衝撃。
飛び散る飛沫が、血なのか、自分の涙なのかも分からない。
俺は何度も、何度も、狂ったように刃を叩きつけた。
すでに物言わぬ肉塊と化した「二体の何か」が動かなくなっても、俺の腕は止まらなかった。
姉上を返せ。
姉上を返せ。
それだけが、頭の中で焼けつくように響いていた。
「こっちから音がするぞ!!」
「急げ……!」
外の空気が白み始めた頃、数人の大人たちが部屋に駆け込んできた。
その怒号に、俺は初めて我に返り、手からするりと刀が落ちる。
「……これ、は……何だ、一体何が起きたのだ!?」
声のした方に目をやる。
そこには、絶句して立ち尽くす大人たちがいた。
「鬼……なのか、これは……?」
鬼?
これが、お伽話に聞く、あの鬼なのか……?
では、この鬼に、姉上は——。
けれど、彼らの恐怖に満ちた視線は、俺が斬り伏せた残骸でも、返り血を浴びた俺自身でもなかった。
その向こう。
部屋の奥へと向けられていた。
「は、やく……にげて……さく、や……」
掠れた、けれど確かに聞き覚えのあるその声に、俺は震えながら振り返った。
そこに立っていたのは、銀色の長い髪を揺らし、血のように真っ赤な瞳から大粒の涙を流す——。
言葉を失うほどに美しく、残酷な鬼だった。
俺の、大好きな姉上の姿形のままで。
「姉上……?」
呼びかけると、その鬼は顔を歪めた。
泣いているのか、笑っているのか、幼い俺には分からなかった。
ただ、その赤い瞳の奥に、どうしようもない苦しみだけが宿っていたことを覚えている。
大人の一人が俺を背後から抱え上げる。
「見るな!」
「離せっ、姉上が……姉上がそこにいるんだ!!」
暴れても、叫んでも、幼い身体ではどうにもならなかった。
遠ざかっていく視界の中で、姉上の姿をした鬼だけが、雪明かりのように白く浮かび上がっていた。
そして、あの声だけが、今も耳に残っている。
『逃げて』と。
俺を守ろうとした、姉上の最後の声だけが。



