「ご無沙汰しておりますわ。加奈さん」
「咲耶様!こちらこそ、ご無沙汰しております……!」
咲耶は優雅に微笑みながら、任務から戻り、隊舎へ向かう途中の加奈に声をかけた。
柔らかな声音。隙のない立ち姿。
傍目には、旧知の令嬢へ親しげに挨拶をしているだけに見える。
対する西園寺加奈は、心酔と緊張が混ざり合った表情で、慌てて深く頭を下げた。
憧れ続けてきた京極家の奥方から、直々に声をかけられた。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
「西園寺家には、正式な謝罪もできぬまま今日に至り、申し訳なく思っておりますわ」
「いえ!とんでもございません。滅相もなきことにございます」
本来、鬼狩りには欠かせぬ存在とされる番。
しかし、朔夜にはそれすら不要とする圧倒的な異能があった。
鬼狩りとなって即座に一番隊隊長として『睦月』の字を継承しながら、この七年間、彼は一度も番を持とうとはしなかった。
いつか彼が番を迎える日が来るならば、家格の釣り合いから見ても、加奈が最有力のはず。
西園寺家も、鬼省庁の者たちも、そして加奈自身も、そう信じて疑わなかった。
それなのに、あの日。
たまたまその場に居合わせただけの平民の女が、その椅子を掠め取った。
「西園寺家との縁もありますし……。あの番の娘、正直に申し上げて、邪魔だとは思いませんこと?」
「それは……」
邪魔——。
朔夜に番が定まったと聞いたあの日から、加奈がその言葉を胸に抱かなかった日などない。
もし相手が、自分を圧倒するような高潔な女性であったなら、まだ諦めもついたかもしれない。
だが、朔夜の隣に現れたのは、番候補ですらない娘だった。
どこぞの集落から拾われてきただけ。
わずかばかり見目がよいだけ。
知識も、覚悟も、家格もない。
それが余計に、加奈の心を黒い嫉妬で曇らせていた。
「あの娘さえいなければ、朔夜さんの隣に立つべき真の番が誰か、誰の目にも明らかになりますのにね」
「っ、……はい」
「わたくしは、あなたのような高潔な女性こそが、あの子には相応しいと思っておりますのよ」
「……!ありがとうございます。私でしたら、私でしたらきっと咲耶様のご期待に……!」
加奈の瞳に、歪んだ希望が宿る。
私だったら、朔夜を吸血が必要なほど消耗させたりしない。
生涯、血の快楽に溺れることなく、人の尊厳を保ったまま鬼を狩る『最強の鬼狩り』であり続けさせたに違いない。
誰よりも気高いあの方を、化け物に近づけたりしない。
それを理解してくれるのは、京極咲耶、ただ一人であった。
「だからね。次に朔夜さんだけが任務に出たら、結界に使用されているしめ縄を切ってしまえばよいと思いません?」
ぽんと手を叩く咲耶の仕草に、童女のような無邪気な言葉。
けれど、口にしている内容は、鬼の恐ろしさを知っていたら、口にすることなどできないほどの恐ろしいこと。
「しめ縄、を……?」
「鬼狩りの屋敷を護る結界など、正しい手順を知る者が触れれば、案外あっけないものですのに」
耳を疑う言葉に、加奈の動きが止まる。
鬼省庁の外に居を構える隊長格の屋敷には、鬼の侵入を阻む強力な結界が施されている。
それを解くということは、即ち、鬼に扉を開くということ。
戦う術を持たぬ人間にとって、それは死の宣告に等しい。
「番候補としての教育を受けてこられているのなら、しめ縄の扱い方くらいご存じでしょう?」
「そ、れは……」
「あら。できませんの?」
「……」
「そう……残念ですわ。その程度のお気持ちでしたのね。わたくしの見込み違いでしたかしら」
咲耶の声色が一変した。
それまでの慈愛に満ちた響きが消え、目の前の羽虫に対するような、冷徹な無関心だけが残る。
加奈の背筋を、氷のような冷や汗が流れた。
これは、ただの問いかけではない。
朔夜の生家である京極家に、誓いを立てられるかどうか。
加奈はその忠誠を試されているのだ。
そう思った途端、息が浅くなる。
拒めば、咲耶はきっと二度と加奈を見ない。
朔夜の番に相応しい者として、名前を呼ぶことさえなくなる。
「ああ、それとも。あの子の服や寝具を荒らした程度で、満足してしまわれたのかしら」
「!……っ、な、なぜ、そのことを……」
「ふふ。……朔夜さんが真実を知ったら、どう思うかしら。次の番候補などと、夢を見ることなどできなくなりますわね」
加奈の顔から血の気が引く。
あれは、誰にも知られていないはずだった。
混乱した野営地で、ほんの少し魔が差しただけ。
番装束を汚した時、その汚れに相反するように自分の心の汚れが濯がれたような気になった。
そのまま寝具に刃を突き立てるのを止められなくなり……
逃げ道が、音もなく塞がれていく。
「っ、や……!やります!やらせてください……!すぐに、睦月隊の予定を確認して、必ず……っ」
加奈が悲鳴に近い声を上げると、咲耶の表情は一転、春の陽光が差したようにぱあっと明るくなった。
「やはり、加奈さんは素晴らしいですわ!」
「い、いえ……!咲耶様のお願いでしたら、私、何でも……!」
「あら?わたくしがなにかお願いしまして?」
そう口にする咲耶の目の奥は、笑ってなどいない。
彼女は震える加奈の両手を、慈しむように優しく握りしめる。
「い、いえ……もちろん、私の判断です……!」
「そうですわよね。期待しておりますわ」
「はいっ!必ず……お応えいたします!」
「ええ。朔夜さんの隣に相応しい方が誰か、わたくしはよく存じておりますから」
そっと握りしめられていた手が離れる。
指先に残った温もりに、加奈は恍惚とした息を吐いた。
京極咲耶の後ろ盾さえあれば、次こそ自分が朔夜の番になれる。
あの、目障りな番さえ消えて無くなれば。
すべては、本来のあるべき場所へ戻る。
加奈は、暗い歓喜に肩を震わせ、その場に平伏した。
その頭上で、咲耶は静かに微笑んでいた。
憐れみ、愛でるように。
そして、もう用済みの駒を眺めるように。
「咲耶様!こちらこそ、ご無沙汰しております……!」
咲耶は優雅に微笑みながら、任務から戻り、隊舎へ向かう途中の加奈に声をかけた。
柔らかな声音。隙のない立ち姿。
傍目には、旧知の令嬢へ親しげに挨拶をしているだけに見える。
対する西園寺加奈は、心酔と緊張が混ざり合った表情で、慌てて深く頭を下げた。
憧れ続けてきた京極家の奥方から、直々に声をかけられた。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
「西園寺家には、正式な謝罪もできぬまま今日に至り、申し訳なく思っておりますわ」
「いえ!とんでもございません。滅相もなきことにございます」
本来、鬼狩りには欠かせぬ存在とされる番。
しかし、朔夜にはそれすら不要とする圧倒的な異能があった。
鬼狩りとなって即座に一番隊隊長として『睦月』の字を継承しながら、この七年間、彼は一度も番を持とうとはしなかった。
いつか彼が番を迎える日が来るならば、家格の釣り合いから見ても、加奈が最有力のはず。
西園寺家も、鬼省庁の者たちも、そして加奈自身も、そう信じて疑わなかった。
それなのに、あの日。
たまたまその場に居合わせただけの平民の女が、その椅子を掠め取った。
「西園寺家との縁もありますし……。あの番の娘、正直に申し上げて、邪魔だとは思いませんこと?」
「それは……」
邪魔——。
朔夜に番が定まったと聞いたあの日から、加奈がその言葉を胸に抱かなかった日などない。
もし相手が、自分を圧倒するような高潔な女性であったなら、まだ諦めもついたかもしれない。
だが、朔夜の隣に現れたのは、番候補ですらない娘だった。
どこぞの集落から拾われてきただけ。
わずかばかり見目がよいだけ。
知識も、覚悟も、家格もない。
それが余計に、加奈の心を黒い嫉妬で曇らせていた。
「あの娘さえいなければ、朔夜さんの隣に立つべき真の番が誰か、誰の目にも明らかになりますのにね」
「っ、……はい」
「わたくしは、あなたのような高潔な女性こそが、あの子には相応しいと思っておりますのよ」
「……!ありがとうございます。私でしたら、私でしたらきっと咲耶様のご期待に……!」
加奈の瞳に、歪んだ希望が宿る。
私だったら、朔夜を吸血が必要なほど消耗させたりしない。
生涯、血の快楽に溺れることなく、人の尊厳を保ったまま鬼を狩る『最強の鬼狩り』であり続けさせたに違いない。
誰よりも気高いあの方を、化け物に近づけたりしない。
それを理解してくれるのは、京極咲耶、ただ一人であった。
「だからね。次に朔夜さんだけが任務に出たら、結界に使用されているしめ縄を切ってしまえばよいと思いません?」
ぽんと手を叩く咲耶の仕草に、童女のような無邪気な言葉。
けれど、口にしている内容は、鬼の恐ろしさを知っていたら、口にすることなどできないほどの恐ろしいこと。
「しめ縄、を……?」
「鬼狩りの屋敷を護る結界など、正しい手順を知る者が触れれば、案外あっけないものですのに」
耳を疑う言葉に、加奈の動きが止まる。
鬼省庁の外に居を構える隊長格の屋敷には、鬼の侵入を阻む強力な結界が施されている。
それを解くということは、即ち、鬼に扉を開くということ。
戦う術を持たぬ人間にとって、それは死の宣告に等しい。
「番候補としての教育を受けてこられているのなら、しめ縄の扱い方くらいご存じでしょう?」
「そ、れは……」
「あら。できませんの?」
「……」
「そう……残念ですわ。その程度のお気持ちでしたのね。わたくしの見込み違いでしたかしら」
咲耶の声色が一変した。
それまでの慈愛に満ちた響きが消え、目の前の羽虫に対するような、冷徹な無関心だけが残る。
加奈の背筋を、氷のような冷や汗が流れた。
これは、ただの問いかけではない。
朔夜の生家である京極家に、誓いを立てられるかどうか。
加奈はその忠誠を試されているのだ。
そう思った途端、息が浅くなる。
拒めば、咲耶はきっと二度と加奈を見ない。
朔夜の番に相応しい者として、名前を呼ぶことさえなくなる。
「ああ、それとも。あの子の服や寝具を荒らした程度で、満足してしまわれたのかしら」
「!……っ、な、なぜ、そのことを……」
「ふふ。……朔夜さんが真実を知ったら、どう思うかしら。次の番候補などと、夢を見ることなどできなくなりますわね」
加奈の顔から血の気が引く。
あれは、誰にも知られていないはずだった。
混乱した野営地で、ほんの少し魔が差しただけ。
番装束を汚した時、その汚れに相反するように自分の心の汚れが濯がれたような気になった。
そのまま寝具に刃を突き立てるのを止められなくなり……
逃げ道が、音もなく塞がれていく。
「っ、や……!やります!やらせてください……!すぐに、睦月隊の予定を確認して、必ず……っ」
加奈が悲鳴に近い声を上げると、咲耶の表情は一転、春の陽光が差したようにぱあっと明るくなった。
「やはり、加奈さんは素晴らしいですわ!」
「い、いえ……!咲耶様のお願いでしたら、私、何でも……!」
「あら?わたくしがなにかお願いしまして?」
そう口にする咲耶の目の奥は、笑ってなどいない。
彼女は震える加奈の両手を、慈しむように優しく握りしめる。
「い、いえ……もちろん、私の判断です……!」
「そうですわよね。期待しておりますわ」
「はいっ!必ず……お応えいたします!」
「ええ。朔夜さんの隣に相応しい方が誰か、わたくしはよく存じておりますから」
そっと握りしめられていた手が離れる。
指先に残った温もりに、加奈は恍惚とした息を吐いた。
京極咲耶の後ろ盾さえあれば、次こそ自分が朔夜の番になれる。
あの、目障りな番さえ消えて無くなれば。
すべては、本来のあるべき場所へ戻る。
加奈は、暗い歓喜に肩を震わせ、その場に平伏した。
その頭上で、咲耶は静かに微笑んでいた。
憐れみ、愛でるように。
そして、もう用済みの駒を眺めるように。



