後始末がようやくひと段落し、疲れ果てた身体を引きずるようにして天幕へ戻る。
足元は泥を吸って重く、指先にはまだ、血と土の感触がこびりついているよう。
天幕に入ってすぐ、目の前の惨状に、唖然とする。
「……え?何、これ……」
視界に飛び込んできたのは、無残に変貌した私たちの寝所。
朝、丁寧に畳んで部屋の端へ寄せておいたはずの布団が、鋭利な刃物のようなもので真ん中から大きく引き裂かれている。
中の白い綿は引きずり出されて、泥に塗れ床一面に散乱していた。
さらに、脇に置いてあったはずの私の着替えにも、嫌がらせのような黒い染みがべったりと広がっている。
布地の奥まで染み込み、修復不可能なほどに汚されていた。
しばらくの間、目の前の光景の意味が理解できない。
ただ、心臓の鼓動だけが早まっていく。
遅れて胸の奥に、どろりとした冷たい塊が落ちた。
「……こんなことをする余裕があった人がいるんですね」
ぽつりと零れた自分の声は、思った以上に乾いていた。
さっきまで、たくさんの人が傷つきながら鬼と戦っていた。
その間にここに忍び込み、こんなことをする人がいるだなんて考えたくもない。
考えたくないのに目の前に起きている事実が、鬼に襲われた時とは違う種類の恐ろしさを連れてくる。
「……誰か入ったな」
後ろから入ってきた朔夜は、荒らされた布団を無言で見下ろす。
その目が、鬼を斬っていた時より冷たく見えて、息が詰まる。
「副官を呼べ。今すぐにだ」
「は、はいっ!」
外にいた隊士が、彼の殺気に圧されるようにして慌てて駆けていく。
けれど、今の野営地は負傷者の手当てや犠牲者の埋葬、そして残党への警戒で、誰も彼もが限界を超えて走り回っている。
こんな混乱の中で犯人を探し出すにはあまりに遅すぎたし、今はそれどころではない事態なのだということは、私にだって分かっていた。
「ごめんなさい……。私の管理が甘かったせいで、天幕まで汚してしまって……」
「お前のせいなものか。余計なことを考えるな」
そう言われてしまうと、私は口を噤むことしかできない。
やがて副官が、ひどく困惑した表情を浮かべて戻ってきた。
「申し訳ありません、睦月隊長……。予備の寝具は、重傷者用の幕舎へほとんど回してしまっております。女物の着替えも、今夜すぐに新品を整えるのは物理的に不可能でして……」
そこまで言って、副官は申し訳なさそうに言い淀み、慌てて首を振った。
「わ、私は大丈夫です!他の番の方たちの天幕で、一晩だけ片隅に置いていただければ……」
「駄目だ。許可できない」
「でも、布団も一組しかありませんし、ご迷惑を……」
「駄目だと言っている。聞こえなかったか」
朔夜は私と目を合わせることもしないまま、副官へ淡々と命じる。
「替えの寝間着だけ用意しろ。女物がないのなら、俺の予備で構わん。それと、今夜はこの天幕に誰も近づけるな」
「……承知いたしました」
そこで初めて、朔夜が私をまっすぐに見た。
「お前を、こんな状況で独りにする気はない。いいな」
乱暴で、有無を言わさない物言い。
なのに、その一言だけで、胸の奥で暴れていたざわつきが、違う何かに変わるのを感じた。
けれど、手渡された寝間着を広げてみて、今度は別の意味で身体が固まってしまう。
どこをどう見ても、がっしりとした体躯の彼に合わせた男物だ。
袖も裾も、私にはあまりに長すぎる。
「え……これを、私が着るのですか?」
「不服か」
「い、いえ。不服ではないですけれど……」
「なら、さっさと着替えろ」
結局、衝立の向こうでそれに袖を通す。
ぶかぶかで、袖を二度、三度と折り返してもまだ指先が隠れてしまう。
裾も長く、少しでも気を抜けば足元に絡みつきそうなほど。
けれど、かすかに朔夜と同じ、清潔な香の匂いがふわりと鼻先を掠める。
昼間の血の匂いも、焦げた肉の臭いも、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
それが余計に恥ずかしくて、顔が熱くなる。
恐る恐る衝立の外へ出ると、朔夜は荒らされずに済んだ方の布団を、手際よく整えていた。
「あの……本当に、よいのでしょうか……」
「要らぬ心配をするなと言ったはずだ」
「でも、布団は一つしか残っていませんし……」
「だからどうした。敵襲が予測される戦地だぞ」
「どうしたって、その……」
「俺は端を使う。お前は奥で大人しくしていろ。朝までそこを動くな」
まるで何の問題もないと言わんばかりの平然とした顔で言い切られ、私の方が言葉に詰まってしまう。
「しっかり休むのもお前の仕事だ。……眠れ。明日も早い」
それ以上は何も言われず、天幕の灯りが少しだけ落とされる。
足元は泥を吸って重く、指先にはまだ、血と土の感触がこびりついているよう。
天幕に入ってすぐ、目の前の惨状に、唖然とする。
「……え?何、これ……」
視界に飛び込んできたのは、無残に変貌した私たちの寝所。
朝、丁寧に畳んで部屋の端へ寄せておいたはずの布団が、鋭利な刃物のようなもので真ん中から大きく引き裂かれている。
中の白い綿は引きずり出されて、泥に塗れ床一面に散乱していた。
さらに、脇に置いてあったはずの私の着替えにも、嫌がらせのような黒い染みがべったりと広がっている。
布地の奥まで染み込み、修復不可能なほどに汚されていた。
しばらくの間、目の前の光景の意味が理解できない。
ただ、心臓の鼓動だけが早まっていく。
遅れて胸の奥に、どろりとした冷たい塊が落ちた。
「……こんなことをする余裕があった人がいるんですね」
ぽつりと零れた自分の声は、思った以上に乾いていた。
さっきまで、たくさんの人が傷つきながら鬼と戦っていた。
その間にここに忍び込み、こんなことをする人がいるだなんて考えたくもない。
考えたくないのに目の前に起きている事実が、鬼に襲われた時とは違う種類の恐ろしさを連れてくる。
「……誰か入ったな」
後ろから入ってきた朔夜は、荒らされた布団を無言で見下ろす。
その目が、鬼を斬っていた時より冷たく見えて、息が詰まる。
「副官を呼べ。今すぐにだ」
「は、はいっ!」
外にいた隊士が、彼の殺気に圧されるようにして慌てて駆けていく。
けれど、今の野営地は負傷者の手当てや犠牲者の埋葬、そして残党への警戒で、誰も彼もが限界を超えて走り回っている。
こんな混乱の中で犯人を探し出すにはあまりに遅すぎたし、今はそれどころではない事態なのだということは、私にだって分かっていた。
「ごめんなさい……。私の管理が甘かったせいで、天幕まで汚してしまって……」
「お前のせいなものか。余計なことを考えるな」
そう言われてしまうと、私は口を噤むことしかできない。
やがて副官が、ひどく困惑した表情を浮かべて戻ってきた。
「申し訳ありません、睦月隊長……。予備の寝具は、重傷者用の幕舎へほとんど回してしまっております。女物の着替えも、今夜すぐに新品を整えるのは物理的に不可能でして……」
そこまで言って、副官は申し訳なさそうに言い淀み、慌てて首を振った。
「わ、私は大丈夫です!他の番の方たちの天幕で、一晩だけ片隅に置いていただければ……」
「駄目だ。許可できない」
「でも、布団も一組しかありませんし、ご迷惑を……」
「駄目だと言っている。聞こえなかったか」
朔夜は私と目を合わせることもしないまま、副官へ淡々と命じる。
「替えの寝間着だけ用意しろ。女物がないのなら、俺の予備で構わん。それと、今夜はこの天幕に誰も近づけるな」
「……承知いたしました」
そこで初めて、朔夜が私をまっすぐに見た。
「お前を、こんな状況で独りにする気はない。いいな」
乱暴で、有無を言わさない物言い。
なのに、その一言だけで、胸の奥で暴れていたざわつきが、違う何かに変わるのを感じた。
けれど、手渡された寝間着を広げてみて、今度は別の意味で身体が固まってしまう。
どこをどう見ても、がっしりとした体躯の彼に合わせた男物だ。
袖も裾も、私にはあまりに長すぎる。
「え……これを、私が着るのですか?」
「不服か」
「い、いえ。不服ではないですけれど……」
「なら、さっさと着替えろ」
結局、衝立の向こうでそれに袖を通す。
ぶかぶかで、袖を二度、三度と折り返してもまだ指先が隠れてしまう。
裾も長く、少しでも気を抜けば足元に絡みつきそうなほど。
けれど、かすかに朔夜と同じ、清潔な香の匂いがふわりと鼻先を掠める。
昼間の血の匂いも、焦げた肉の臭いも、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
それが余計に恥ずかしくて、顔が熱くなる。
恐る恐る衝立の外へ出ると、朔夜は荒らされずに済んだ方の布団を、手際よく整えていた。
「あの……本当に、よいのでしょうか……」
「要らぬ心配をするなと言ったはずだ」
「でも、布団は一つしか残っていませんし……」
「だからどうした。敵襲が予測される戦地だぞ」
「どうしたって、その……」
「俺は端を使う。お前は奥で大人しくしていろ。朝までそこを動くな」
まるで何の問題もないと言わんばかりの平然とした顔で言い切られ、私の方が言葉に詰まってしまう。
「しっかり休むのもお前の仕事だ。……眠れ。明日も早い」
それ以上は何も言われず、天幕の灯りが少しだけ落とされる。



