鬼狩りの番~置き去りにされた娘は、半人半鬼に血を捧げる~

「梓様!」

名を呼ばれ、肩を強く引かれた。

「こちらへ!早く、移動します!」
「で、でも——」
「迷っている暇はありません!急いでください!」

引かれるままに駆け出そうとして、ふと足が止まった。

地面に倒れ込んだまま、誰にも気づかれずに取り残されている隊士が。
先ほど運び出されてきたばかりの人だ。
まだ番も呼ばれず、手当ても満足に受けていない。
片足から先が真っ赤に濡れ、もはや自力では指一本動かせそうになかった。

鬼の影が、木立の間を縫うように、音もなくこちらへ近づいてくる。

「待って、この人が……!まだここに人が残っています!」
「梓様!危険です!!」

引き止める声が背後から飛ぶ。
けれど、考えるより先に身体が動いていた。
隊士の腕を自分の肩に回し、泥にまみれながら必死に彼を引きずる。
重くて、びくともしない。

それでも、なりふり構わず力を込めると、少しずつ、亀の歩みのように身体が動き出した。
濃紅の袖が泥を吸い、裾が足に絡みつく。
呼吸はすぐに乱れ、腕の筋が悲鳴を上げる。
それでも、ここに置いていくことだけはできない。

「立って……お願い、少しだけでいいから動いて……!」
「っ、……下がれ。お前、は……隊長の番、だろう……」

掠れた声はうまく聞き取れない。
相手の呼吸は浅く、顔色は青白さを通り越して土色に沈んでいく。
それでも、この人は私を逃がそうとしている。

その時、目の前にぬうっと、どす黒い影が落ちた。

顔を上げると、ねじくれた木の根元に、一体の鬼が立っていた。
頭の片側からだけ歪な角が伸び、裂けた口の端から長い舌がだらりと垂れている。
人を真似て嘲笑っているようにも見えるのに、その瞳だけは、濁りきった獣の欲望そのもの。

「ぁ……」

声が出ない。
喉が引き攣り、肺が酸素を拒絶する。

鬼は、のたりと首を傾げた。
まるで獲物をじわじわといたぶる愉悦を味わうかのように。

逃げなければ。
頭では狂ったように警鐘が鳴っているのに、足に力が入らず、地面に縫い付けられたように動けない。

その一瞬、朔夜の声が脳裏に蘇った。

『呼ばれたら走れ。俺のもとまで』

でも、喉が塞がったように声が出なく、誰のことも呼べない。

鬼が一歩、こちらへ近づく。
濡れた爪が朝の光を受け、鈍く光った。
それは、あの夜に見た地獄の続きを、もう一度目の前へ差し出されたような光景だった。
喉の奥で、かすれた悲鳴だけが震えている。

白銀の眩い閃光が視界を横切る。
ばりっ、と——世界そのものが引き裂かれたような、凄まじい衝撃音が響いた。
目を焼くほどの光に、思わず息が止まった。

雷——。
そう直感した時には、目の前の鬼が、真横へ木の葉のように吹き飛ぶ。
大樹に叩きつけられた肉の塊から、一呼吸遅れて、どろりとした返り血が垂れる。
焦げた獣臭と、焼けた土の匂いが、冷たい朝の空気を一瞬で塗り替えた。

「隊長だ!」
「睦月隊長が、結界から出てきたぞ!!」

歓喜に満ちた叫び声が、いくつも重なった。

結界の方角から、一条の影が疾風のごとく駆けてくる。
駆けているように見えたのは、ほんの一瞬のこと。
次にはもう、彼は鬼の群れのただ中に、泰然と立ちはだかっていた。

朔夜が刀を振るうと、一本の巨大な雷が地を這ったかのように見えた。

続いて、腹の底を揺さぶるような轟音。
耳の奥まで痺れるような低い残響が、山中を波紋のように駆け抜けていく。

銀の刃を中心に、白銀の光が軌跡を描いて奔る。
まるで、息を呑む間すら許さず、舞台のすべてを一太刀で塗り替えるような圧倒的な一閃。
その光に触れた鬼たちは、抗う術もなく身体を硬直させ、声にならない悲鳴を上げながら次々と崩れ落ちていく。

あまりに速く、あまりに苛烈な一撃。
何が起きたのか、私の目では到底追いきれない。
けれど、ひとつだけはっきりと理解できることがある。
朔夜が立っているその場所だけ、世界を構成する空気そのものが、他とは決定的に違う。

「——下がれ!」

肺の奥まで震わせるような声が響く。
同時に、彼の足元から凄まじい突風が巻き起こる。

爆ぜるように土が舞い、木の葉が狂ったように渦を巻く。
向かってきていた鬼たちの巨躯が、まるで枯れ葉のように無残に宙へと吹き上げられた。
爪を振り上げていたものも、牙を剥いていたものも、すべて等しく風に攫われる。

嵐の中心で、朔夜だけが微動だにせず、ただ静かに刃を構えていた。

振り上げた刀身には、青白い光が幾重にもまとわりついている。
それは雷なのか、風なのか、あるいはその両方なのか。
ただ一つ確かなのは、それが鬼狩り最強と言われる、朔夜の異能だということ。

「……散れ」