鬼狩りの番~置き去りにされた娘は、半人半鬼に血を捧げる~

深く息を吸い込んで、震えそうになる指先で自分の服を整えた。

新調された濃紅の番装束は、まだ肌に馴染まず、少しだけ落ち着かない。
借り物の衣装を纏っているような心細さがある。
けれど、その鮮やかな色彩は、確かに昨日までの自分とは違う場所にいるのだと、改めて実感させられた。

天幕の外へ出ると、山の空気は夜の深い名残を引きずったまま、刺すようにひやりとしていた。
木々の向こう、深く切り立った谷を挟んだ先に、静まり返った大きな村が見える。
人の暮らしがあるはずの場所なのに、煙も、声も、朝餉の匂いもない。
その不自然な静けさが、かえって恐ろしくなる。

その村をぐるりと囲むように、巨大なしめ縄が張り巡らされていた。
村の周囲だけ、空間が薄く揺らぐ膜のようなものに覆われている。
朝日を浴びて虹色に明滅するそれは、ほとんど透明で見えないのに、触れれば弾き返されるような、確かな拒絶の気配を湛えていた。

「梓様!おはようございます」
「あ、おはようございます」

声をかけてきたのは、昨日少しだけ言葉を交わした副官の番の女性。

「あの、あれって……」
「今は鬼を内側に閉じ込めているだけです。一度展開してしまえば、外から干渉することはできなくなります。例え、私たちが助けに入りたくても」
「……そんな、凄い結界なんですね」

あれが昨晩、朔夜が話していた結界。
実際の結界を目にしながら説明を聞くだけで、その異質さに喉が乾く。

結界の前には、すでに多くの鬼狩りたちが整列していた。
隊ごとに刺し色の違う隊服。肩に静かにとまる隊鳥たち。
まだ刀を抜き身にはしていない。
だというのに、誰もが鋭利な刃物のような殺気を帯びてそこに立っているだけで、近寄りがたい畏怖を周囲に振りまいていた。
まるで嵐の訪れを待つ刃の群れのように、静かで、張り詰めていて、恐ろしく美しい。

どこにいても、どんなに遠くからでも、朔夜の姿だけはすぐに見つけてしまう。
先頭に立ち、遠目からでも一目で分かる。
誰よりも静謐に、微動だにせず立っている。
けれど、その存在感は周囲を圧し、誰よりも強烈に私の目を引き寄せた。

あの背中が、これから死地へ入っていくと思うだけで、胸の奥がぎゅっと縮む。
あそこに朔夜が足を踏み入れてしまったら、終わるまでもう会うことができない。

やがて、野を震わせるような低い法螺貝の音が響き渡った。
結界の膜がひときわ強く明滅し、鬼狩りたちが一斉にその向こう側、異界へと踏み込んでいく。
一歩、また一歩。
彼らの姿が膜の向こうでわずかに歪み、やがて戦場の色に呑まれていった。

背後で見守る誰かが短く息を呑み、誰かが祈るように胸の前で手を組む。
私も気づけば、胸元の濃紅の紐を、強くきゅっと握りしめていた。

最初に聞こえてきたのは、遠すぎて現実味を欠いた金属音だった。
高く、乾いた、硬質な音。
それに混じって届くのは、人の喉を裂くような怒号。地を這うような叫び。
結界の膜に遮られているせいか、すべての音はくぐもって聞こえる。
けれど、その歪な響きだけで、向こう側でどれほど凄惨な光景が繰り広げられているのかが、嫌というほど伝わってきた。

「……本当に、大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫ではありません。だからこそ、番である私たちがいるんです」

隣にいた彼女が、自嘲気味に、けれど覚悟の決まった瞳で苦く笑った。
その言葉の真意を、本当の意味で知ることになったのは、それからほどなくしてのこと。

結界の端が一瞬だけ激しく揺らぎ、二人の鬼狩りが誰かを抱き抱えるようにして外へ飛び出してきた。
抱えられていたのは、まだ幼さの残る若い隊士。
腕から先がどす黒い血で真っ赤に染まり、肩口の布はズタズタに裂けている。
顔は青白く、唇だけがかすかに震えていた。

「三番隊一名、負傷!番はどこだ!!」
「はいっ!いきます!!」

呼ばれた勝色の装束の娘が、迷いなく駆け出す。
一瞬の躊躇もない。
まるで、これまでに何十回、何百回と繰り返してきた当然の日常であるかのように。

彼女が苦悶の表情を浮かべる隊士の前へ膝をつくと、男の顔から、死を覚悟したような張り詰めた緊張が、ほんの少しだけ緩むのが見えた。
血を分かち、命を繋ぎ止める。
理屈では分かっていた。
けれど、血の匂いが立ち込める中で、苦しむ人の元へ一歩も引かずに進める彼女たちの強さが、私には眩しい。

次に運ばれてきた者は、自力で歩いていた。
片足を引きずり、深く抉られた脇腹を必死に押さえながら、それでも「まだ戦える、戻らせてくれ」と鬼気迫る顔で食い下がっている。
周囲の隊士が必死になだめても、彼の視線は結界の向こうから離れない。

その次は、二人。
一人は額から鮮血を流し、もう一人は顔色が紙のように白く、今にも事切れそうだった。

番の娘たちが次々に呼ばれていく。
結界の外縁には、いつの間にか咽せるような血の匂いと、鼻を突く薬の匂いが混ざり始めていた。
薬箱を抱えた隊士が走り、包帯がほどかれ、誰かの押し殺した呻き声が足元を這う。
私は、自分の無力さを感じたまま、ただ立ち尽くすことしかできない。

その時だった。
また一人、担ぎ出されるようにして運ばれてくる影が見えた。
けれど、今度は誰も「番を」とは叫ばなかった。

運ばれてきたその人の腕は、力なくだらりと地面へ垂れ下がっていた。
血に濡れた指先は、もう何も掴んではいない。
駆け寄った隊士が必死に何かを話しかけているけれど、返事はなく、彼はそのまま力なくその場に膝を突いた。

誰かが小さく、悲鳴のような息を呑む。
別の誰かが、悼むようにそっと目を伏せる。
濃紅色の番装束を纏った娘が一歩踏み出しかけて、けれど隣の女性に肩を押さえられ、唇を噛んで立ち止まった。

救える命と、もう届かない命。
その境目が、こんなにもあっけなく目の前に引かれるのだと知り、足元が冷たくなっていく。

「これでも……これでも本当に、被害は少ない方なんですか……?」
「ええ。恐らく、睦月隊長が出ていなければ、犠牲は倍では済まなかったはずです」