鬼狩りの番~置き去りにされた娘は、半人半鬼に血を捧げる~

「くしゅんっ!」

暦の上では夏も間近だというのに、深い山中で迎える夜明けが、これほどまでに肌寒いものだとは思わなかった。
湿り気を帯びた空気と、夜の残滓のような冷気が、薄い天幕を容赦なく通り抜けてくる。
鼻の奥がつんと冷えて、思わず肩をすくめた。

「……大丈夫か?」
「お、おはようございます!大丈夫です、全然平気ですから!」

衝立の向こう側から聞こえた声に慌てて答え、肩まで引き上げていた夜着を大急ぎで整える。
寝起きの乱れた姿を見られたわけでもないのに、なぜだか頬が熱くなった。

天幕の外では、すでに準備が着々と進んでいるようだった。
押し殺したような話し声。
絶え間なく土を踏みしめる軍靴の足音。
時折、金具が触れ合う硬い音が混じり、布一枚越しに地響きのように伝わってくる。
まるで、嵐の前触れを察するような、誰もが声を潜めながら、それぞれの持ち場へ向かっていた。

「朝餉も届いている。着替えが済んだら食べよう」

今朝の朔夜は、いつも通りの峻厳な無愛想を貫き、いつも通りの静かな声音をしていた。
これから命懸けの戦地へ赴くというのに、その横顔には微塵の揺らぎもない。
私だけが、行き場のない不安で胸の奥をそわそわとかき回されているよう。

着替えを済ませて衝立の外へ出ると、小さな簡易卓の上には質素ながらも温かな朝餉が並べられていた。
いつもと同じ、一対の席。
私たちは無言で向かい合う。

用意されていたのは、普通のお握り。
集落では滅多に口にできなかった、上質な焼き鮭や昆布が具材として詰められた、握りたての三角形。
湯気を立てるお味噌汁に、ほんの少しの漬物。
決して豪勢なわけではない。
けれど、冷え切った身体には、それは十分すぎるほどに温かく感じる食事。

「いただきます」

向かいに座る朔夜も、短く同じ言葉を口にする。

無骨な物言いをするくせに、箸の取り方も、汁椀の持ち上げ方も、やはり驚くほど静かで洗練されている。
あんなにも恐ろしい鬼と戦い、血と土にまみれて刀を振るう人と同じとは思えない。
こうした些細な仕草の端々に、この人が名家の生まれなのだという事実を、否応なく思い知らされる。

それでも、今はその整った所作が、少しだけ私を落ち着かせてくれた。
この人がいつも通りでいてくれる。
それだけで、私も呼吸の仕方を思い出せる気がした。

「……見すぎだ」
「えっ、あ、すみません……」
「飯が冷める。さっさと口に運べ」

むっとしたように視線を外して言われたけれど、その口元がほんのわずかに、氷が解けるように緩んだように見えたのは、私の気のせいだったのだろうか。
確かめる勇気はなくて、私は慌ててお握りを口にした。

「今日の掃討は、長引けば昼を過ぎる。日没までには片を付ける」
「……はい」
「お前は他の番たちと共に、結界の外縁で待機していろ。……いいか、呼ばれるまで、絶対に勝手に動くな」
「呼ばれたら……どうすればよいですか?」
「走れ。俺のもとまで」
「わ、かりやすいですね……」

朔夜は答えず、握り飯を一口食べた。
私はお味噌汁の湯気越しに、彼の端正な顔をそっと盗み見る。

『勝手に動くな』と言われるたびに、また足手まといになってしまうのではないかと、足元が竦むような恐怖を感じる。
けれど同時に、そう命じられること自体が、彼に守られている証のようにも思えてしまう自分がいた。
戦場に立つ覚悟も知識も足りない私に、今できること。
それは、彼の言葉を信じて待つことだけなのかもしれない。

食事を終えると、朔夜は迷いのない動作で刀を取った。
鞘を帯に差し、鯉口を確かめる一連の動き。
静かで、研ぎ澄まされていて——それだけで天幕の中の空気が、ピンと張り詰めたように変わる。
一挙手一投足が無駄なく研ぎ澄まされていく様は、刃が鞘の内で静かに澄んでいくようで、思わず息を呑んだ。

「……行ってくる」
「はい。……いってらっしゃい。気をつけて」
「気をつけるのはお前の方だ。番となったお前に、俺が最初に言った言葉は覚えているか?」

最初に言われた言葉。

『お前の命は俺のものだ。俺の知らぬところで、傷つくことも、死ぬことも断じて許さん』

もちろん、忘れたことはない。
あの時は乱暴で傲慢な言葉だと思った。
けれど今は、私を必ず守るという、彼なりの誓いだったのだと分かる。

「それだけ覚えていればいい」

短くそう言い捨てて、朔夜は天幕の外へと消えていく。
入口の布の揺れが収まり、静寂が戻る。

空間に残されたのは、お味噌汁の湯気と、彼が纏っていたお香のかすかな残り香だけだった。
そして、胸の奥に残る、重くて温かな言葉。

その場に立ち尽くし、彼が消えた幕の向こうを見つめ続ける。
待つ。
それが今の私にできる、たった一つの役目なら。

ちゃんと待っていよう。
彼が帰ってくる、その時まで。