「こちらなども、本当にお似合いですわ!」
「いえいえ、こちらの色違いも捨てがたいかと……!」
「もし宜しければ、最新の洋装もぜひ!!」
明るい陽光の下で改めて確認すれば、墨汁のような真っ黒な液体は、上着を通り越して肌襦袢まで無惨に汚していた。
到底、染み抜きでどうにかなる程度ではない。
その惨状を無言で見つめていた朔夜に、私は半ば引きずられるようにして、一際格式高い店構えの呉服屋へ連れてこられた。
新しい肌襦袢に着替えさせられ、そこからは着せ替え人形のような時間が始まった。
次々に出される色とりどりの着物、袴、そしてモダンな洋服。
私が戸惑う間にも、卓の上には帯や簪、手袋に鞄、小道具の類まで所狭しと並べられていく。
「睦月様。どのお色が、番様の魅力を引き立てると思われますか?」
「やはり、一番隊の隊色である『紅色』を基調になさいますか?」
「……俺は、なんでも構わない。好きにしろ」
朔夜はぶっきらぼうに、視線をこちらへ向けることなく答える。
けれど、その目がほんの一瞬だけ、試着用の着物の山を見比べたことに、私は気づいてしまった。
「あら。では、どのお色も甲乙つけがたいほどお似合いだ、ということですね?」
「……そんなこと一言も言っていないだろうっ!!」
図星を突かれたのか、朔夜の怒声に近い反論に、店中に明るい笑い声が沸き起こった。
そんな穏やかな空気の中で、先ほどまで胸に残っていたわだかまりが、ほんの少しだけ薄れていく。
「~~~っ!俺は外で待つ。試着したものはすべて、後で屋敷に届けてくれ」
「はい、毎度あり~!」
「えっ、ちょっと待ってください!朔夜!?」
私の引き留める声など耳に貸さず、彼は逃げるようにお店を飛び出して行ってしまった。
店員のお姉さんたちは気にする様子もなく、残された私の帯を締め直し、髪を整え、飾りを差し替え——みるみるうちに私を別人のように塗り替えていく。
「睦月様ですら、番様ができるとあんなに慌てられるのですねぇ」
「普段は違うんですか?」
「ええ。いつもは必要なものを最小限、口頭で命じられるだけですよ。お店に滞在されるのも、ほんの数分程度ですのに」
「今日はずいぶんと、念入りにご覧になっていましたわ」
「ご覧に……なっていました?」
そうなんだ……。
その言葉に、胸の奥が少しだけざわざわとしてくる。
「本当に。どの鬼狩りの方も、番様をそれはそれは大切にされていますけれど」
「これだけの数、迷わずすべてお買い上げになるというのは、かなり珍しいかもしれませんね」
——でも、それは私が彼の番という役割だから。
鬼狩りにとって、番は守るべき急所であり、命を繋ぐ存在。
私個人という存在に対してではない。
もし、これが私を想っての行動だったなら、どんなに嬉しいだろうか。
不意に浮かんだ、身の程知らずな期待に自分自身で驚き、私は慌てて首を振ってその思考を追い払う。
何を期待しているんだろう……そんなことあるわけがないのに。
勝手に勘違いして、勝手に傷つくのは、あまりにも情けない。
「はい、お仕度が整いました。鏡をご覧になってください」
「睦月様も、さぞお喜びになりますよ」
「まさか、そんな……」
謙遜しながら、横の大きな姿見に視線を向ける。
そこには、鮮やかな大輪の花が咲き誇る、燃えるような紅色の着物を纏った私がいた。
髪も丁寧に編み込まれ、結い上げられた毛先で、しゃらんと銀の簪が揺れている。
袖口から覗く白い手首まで、どこか自分のものではないように見えた。
鏡の中の自分は、まるで物語の登場人物のようで、思わず息を呑む。
わずかな緊張と、抑えきれない期待が胸の底から静かに湧き上がってくる。
この姿を見た彼は、一体何と言うだろう。
無言か、それとも——。
『馬子にも衣装だな』
彼なら、そんな風に鼻で笑うのが一番あり得そうだ。
なるべく顔に出さないよう、高鳴る鼓動を抑えて店先で待つ朔夜のもとへと歩み寄った。
「お、お待たせ……しました」
緊張のあまり、声が上ずってしまう。
この人の目に、着飾った私は、一体どんな風に映っているのだろう。
聞くのが怖くて、どうしても目線を上げることができない。
しばらく、何の声も返ってこなかった。
沈黙が長くなるほど、胸の奥で不安が膨らんでいく。
やっぱり似合わなかったのだろうか。
分不相応だと、思われているのだろうか。
ふわりと、耳元に大きな手が伸ばされる。
指先が優しく髪を掬い上げ、乱れた一筋を耳にかけられた。
触れるか触れないかの、その慎重な仕草に、息が止まりそうになる。
「——よく似合っている」
至近距離で囁かれたその声音と、慈しむような仕草。
心臓が激しく跳ね、顔に血が上るのが分かった。
たまらず、片腕で顔を覆って俯いた。
「そんな、こと……っ」
「事実を言っただけだ」
「……事実なわけが」
「何がだ」
「何でもありません……」
私の動揺など、あるいは自分の言動すら、何でもないことのように彼は小さく息を吐く。
けれど、その耳の先がほんのり赤いことに気づいてしまい、私の鼓動はますます落ち着かなくなる。
「昼もだいぶ過ぎたな。何か食べよう」
そう言って、朔夜は先に歩き出す。
私はその後ろ姿を、付いて歩く。
朔夜は、鬼を屠る冷徹な男とは思えないほど、整った顔立ちをしている。
身に纏う服も隙がなく、背が高く、凛とした立ち姿。
歩くだけで人目を引く。
……なるほど。
彼という存在を基準にするならば、あの候補生の子たちが「お前は相応しくない」と断じた気持ちも、少しだけ分かってしまう自分がいた。
けれど、朔夜が選んだ言葉は「似合っている」だった。
その一言だけは、誰にも取り上げられたくない。
「蕎麦は好きか?」
「蕎麦、ですか?」
「ここの店は天ぷらが美味い。もし好き嫌いがないのなら——」
「天ぷら!?そんな……かき揚げくらいしか食べたことがなくて……」
「なら決まりだ。行くぞ」
迷いのない声に、思わず笑ってしまう。
つい先ほどまで、何を言われるかと怖がっていたのが嘘みたいに。
「はい。楽しみです」
そう答えると、朔夜はわずかに歩調を緩めた。
私が隣に追いつくのを、待ってくれているのだと気づき、紅の袖の中で、そっと指先を握りしめた。
「いえいえ、こちらの色違いも捨てがたいかと……!」
「もし宜しければ、最新の洋装もぜひ!!」
明るい陽光の下で改めて確認すれば、墨汁のような真っ黒な液体は、上着を通り越して肌襦袢まで無惨に汚していた。
到底、染み抜きでどうにかなる程度ではない。
その惨状を無言で見つめていた朔夜に、私は半ば引きずられるようにして、一際格式高い店構えの呉服屋へ連れてこられた。
新しい肌襦袢に着替えさせられ、そこからは着せ替え人形のような時間が始まった。
次々に出される色とりどりの着物、袴、そしてモダンな洋服。
私が戸惑う間にも、卓の上には帯や簪、手袋に鞄、小道具の類まで所狭しと並べられていく。
「睦月様。どのお色が、番様の魅力を引き立てると思われますか?」
「やはり、一番隊の隊色である『紅色』を基調になさいますか?」
「……俺は、なんでも構わない。好きにしろ」
朔夜はぶっきらぼうに、視線をこちらへ向けることなく答える。
けれど、その目がほんの一瞬だけ、試着用の着物の山を見比べたことに、私は気づいてしまった。
「あら。では、どのお色も甲乙つけがたいほどお似合いだ、ということですね?」
「……そんなこと一言も言っていないだろうっ!!」
図星を突かれたのか、朔夜の怒声に近い反論に、店中に明るい笑い声が沸き起こった。
そんな穏やかな空気の中で、先ほどまで胸に残っていたわだかまりが、ほんの少しだけ薄れていく。
「~~~っ!俺は外で待つ。試着したものはすべて、後で屋敷に届けてくれ」
「はい、毎度あり~!」
「えっ、ちょっと待ってください!朔夜!?」
私の引き留める声など耳に貸さず、彼は逃げるようにお店を飛び出して行ってしまった。
店員のお姉さんたちは気にする様子もなく、残された私の帯を締め直し、髪を整え、飾りを差し替え——みるみるうちに私を別人のように塗り替えていく。
「睦月様ですら、番様ができるとあんなに慌てられるのですねぇ」
「普段は違うんですか?」
「ええ。いつもは必要なものを最小限、口頭で命じられるだけですよ。お店に滞在されるのも、ほんの数分程度ですのに」
「今日はずいぶんと、念入りにご覧になっていましたわ」
「ご覧に……なっていました?」
そうなんだ……。
その言葉に、胸の奥が少しだけざわざわとしてくる。
「本当に。どの鬼狩りの方も、番様をそれはそれは大切にされていますけれど」
「これだけの数、迷わずすべてお買い上げになるというのは、かなり珍しいかもしれませんね」
——でも、それは私が彼の番という役割だから。
鬼狩りにとって、番は守るべき急所であり、命を繋ぐ存在。
私個人という存在に対してではない。
もし、これが私を想っての行動だったなら、どんなに嬉しいだろうか。
不意に浮かんだ、身の程知らずな期待に自分自身で驚き、私は慌てて首を振ってその思考を追い払う。
何を期待しているんだろう……そんなことあるわけがないのに。
勝手に勘違いして、勝手に傷つくのは、あまりにも情けない。
「はい、お仕度が整いました。鏡をご覧になってください」
「睦月様も、さぞお喜びになりますよ」
「まさか、そんな……」
謙遜しながら、横の大きな姿見に視線を向ける。
そこには、鮮やかな大輪の花が咲き誇る、燃えるような紅色の着物を纏った私がいた。
髪も丁寧に編み込まれ、結い上げられた毛先で、しゃらんと銀の簪が揺れている。
袖口から覗く白い手首まで、どこか自分のものではないように見えた。
鏡の中の自分は、まるで物語の登場人物のようで、思わず息を呑む。
わずかな緊張と、抑えきれない期待が胸の底から静かに湧き上がってくる。
この姿を見た彼は、一体何と言うだろう。
無言か、それとも——。
『馬子にも衣装だな』
彼なら、そんな風に鼻で笑うのが一番あり得そうだ。
なるべく顔に出さないよう、高鳴る鼓動を抑えて店先で待つ朔夜のもとへと歩み寄った。
「お、お待たせ……しました」
緊張のあまり、声が上ずってしまう。
この人の目に、着飾った私は、一体どんな風に映っているのだろう。
聞くのが怖くて、どうしても目線を上げることができない。
しばらく、何の声も返ってこなかった。
沈黙が長くなるほど、胸の奥で不安が膨らんでいく。
やっぱり似合わなかったのだろうか。
分不相応だと、思われているのだろうか。
ふわりと、耳元に大きな手が伸ばされる。
指先が優しく髪を掬い上げ、乱れた一筋を耳にかけられた。
触れるか触れないかの、その慎重な仕草に、息が止まりそうになる。
「——よく似合っている」
至近距離で囁かれたその声音と、慈しむような仕草。
心臓が激しく跳ね、顔に血が上るのが分かった。
たまらず、片腕で顔を覆って俯いた。
「そんな、こと……っ」
「事実を言っただけだ」
「……事実なわけが」
「何がだ」
「何でもありません……」
私の動揺など、あるいは自分の言動すら、何でもないことのように彼は小さく息を吐く。
けれど、その耳の先がほんのり赤いことに気づいてしまい、私の鼓動はますます落ち着かなくなる。
「昼もだいぶ過ぎたな。何か食べよう」
そう言って、朔夜は先に歩き出す。
私はその後ろ姿を、付いて歩く。
朔夜は、鬼を屠る冷徹な男とは思えないほど、整った顔立ちをしている。
身に纏う服も隙がなく、背が高く、凛とした立ち姿。
歩くだけで人目を引く。
……なるほど。
彼という存在を基準にするならば、あの候補生の子たちが「お前は相応しくない」と断じた気持ちも、少しだけ分かってしまう自分がいた。
けれど、朔夜が選んだ言葉は「似合っている」だった。
その一言だけは、誰にも取り上げられたくない。
「蕎麦は好きか?」
「蕎麦、ですか?」
「ここの店は天ぷらが美味い。もし好き嫌いがないのなら——」
「天ぷら!?そんな……かき揚げくらいしか食べたことがなくて……」
「なら決まりだ。行くぞ」
迷いのない声に、思わず笑ってしまう。
つい先ほどまで、何を言われるかと怖がっていたのが嘘みたいに。
「はい。楽しみです」
そう答えると、朔夜はわずかに歩調を緩めた。
私が隣に追いつくのを、待ってくれているのだと気づき、紅の袖の中で、そっと指先を握りしめた。



