彼女は、扇子を静かに開く。
薄暗い部屋の中で、朱の装束だけが、炎のように浮かび上がって見える。
「あなたには、睦月様の番がどれほど重い立場なのか、身をもって知っていただきます」
その言葉に、背筋を冷たいものが伝った。
影の中から踏み出してきた彼女の瞳は、執着と隠しきれない敵意に濁っていた。
正面には、憎悪を隠そうともしない西園寺さん。
背後には、彼女の影に控える取り巻きが四人。
逃げ道を探そうと視線を巡らせるが、窓を開けて飛び出すような隙を与えてくれる相手ではない。
逃げ場のない小部屋の空気は、鉛のように重い。
薄暗い室内で、彼女たちの朱色の装束だけが、妙に鮮やかに浮かび上がっている。
「……簡単なこと。その番装束をここに置いて、今すぐ消えていただければ」
「は?番装束……?」
「……まさか、その服の持つ意味すら知らないなんて」
嘲笑を含んだその言葉で、自分が今纏っている衣服の名を初めて知った。
番装束という、その響きだけで、ただの衣ではないのだと分かる。
けれど、そもそも彼女たちだって、私とは色が違うだけで、似たような朱色の装束を身に着けているというのに。
「……そんなことのために、こんな乱暴な真似をしなくても」
「『そんなこと』、ですって……?」
「あなたたちが着ている朱色だって、とても綺麗な色なのに」
ここへ来るまでの道すがら、私は多くの番を見かけてきた。
灰桜色、勝色、縹色……それぞれ濃淡もあったような気がする。
立場や隊の特色を表しているのか、多種多様な色彩がこの異界を彩っていた。
色にはきっと意味があるのだろうけれど、私にはまだ、それを正しく読み取る術がない。
「朔夜の他にも、鬼狩りの方はたくさんいると聞いています。番になりたいのであれば、別の人でも……」
そこまで言いかけると、バキッ、という乾いた破壊音が部屋に響く。
彼女が手にしていた、優雅なはずの扇子。
それが、見るも無惨な形にへし折られていた。
「私がっ……私たちが!どんな思いで、どれほどの年月を……その濃紅の装束に焦がれてきたと思っているのっ!!」
見開かれた瞳が、剥き出しの狂気を帯びて私に迫る。
そのあまりの気迫に、喉の奥がひゅっと縮んだ。
ここに連れてこられて、まだ数日。
私の発した不用意な一言が、これほどまでに彼女を激昂させるとは思わなかった。
この世界のことに疎い私には、この衣装が意味する『価値』が、まだ理解できていなかったのだ。
「やはり、あなたに睦月様は相応しくないわ。今すぐその番装束を脱ぎなさい!」
知らないことが多すぎて、言葉を間違えてしまったのかもしれない。
けれど、一度口にしてしまった言葉を、なかったことにはできない。
何より、ここで彼女たちに対して引くことも、どうしてもできなかった。
「……嫌です」
「なぜ!その服の意味も、価値すら知らない癖に!」
彼女がこの衣装に執着する、本当の理由はわからない。
私にとっては、ただの美しい衣服の一つでしかない。
けれど——この服が、私が『彼の番』であるという唯一の証明になるのだとしたら。
それは、決して他人に譲ってはいけない、重いもののように思えた。
初めて朔夜が私に着せてくれた服。
朔夜が、私を『番』だと告げた。
ならば、私が勝手に脱ぎ捨てていいものではない。
「私が……朔夜の番だからです。それ以外の理由は、ありません」
「まだ、そんな不遜なことを……っ!!」
「っ!」
勢いよく投げつけられた折れた扇子が、私の頬のすぐ横を掠めていった。
風圧に、髪がわずかに揺れる。
避けられた、と思った——そばから。
バシャッ、という鈍い音と共に、全身を刺すような冷たい衝撃が走った。
息が止まる。
胸元に視線を落とすと、鮮やかな濃紅色の生地に、墨を溶かしたような黒い液体が垂れ、じわじわと広がっていく。
冷たいのに、肌の奥だけが焼けるように熱い。
大切なものを踏みにじられたのだと悟り、視界の端がぼやけるように滲んだ。
「そちらの薄汚れた色の方が、あなたにはお似合いよ」
彼女が手にした器から、最後の一滴まで真っ黒な雫が落ちる。
何を掛けられたのか、理解が追いつかない。
困惑と屈辱を感じながら、私は外からの微かな気配を察して、振り返った。
同時に、扉が凄まじい勢いで開かれた。
「……待っていろと言っただろう」
「……朔夜」
「お前たち。……俺の番に、何をしている」
低く落とされた声に、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
誰も、答えることができない。
蛇に睨まれた蛙のように、彼女たちは震え、立ち尽くす。
私だって、何も言えない。
もしここで私がなにか口にすれば、彼女たちが罰を受けるかもしれない。
それに、声を出した途端、堪えていたものが崩れてしまいそうで。
静まり返った室内で、朔夜の靴の音だけが響く。
一歩、また一歩。
彼は私の前で立ち止まり、黒く汚された番装束を見下ろした。
その瞳の奥で、冷たい怒りが静かに燃えている。
「来い」
短く、拒絶を許さない一言。
腕を強く掴まれ、そのまま部屋の外へと連れ出された。
掴む力は強いのに、擦りむいた掌には触れないようにしている。
そのことに気づいてしまい、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「あのっ……睦月様!私は……!」
「黙れ。口を噤んだ俺の番に感謝しろ。……次はないと思え」
その声は、重く、冷たく。
取り残された彼女たちと共に、いつまでも暗い部屋の隅に澱んでいた。
薄暗い部屋の中で、朱の装束だけが、炎のように浮かび上がって見える。
「あなたには、睦月様の番がどれほど重い立場なのか、身をもって知っていただきます」
その言葉に、背筋を冷たいものが伝った。
影の中から踏み出してきた彼女の瞳は、執着と隠しきれない敵意に濁っていた。
正面には、憎悪を隠そうともしない西園寺さん。
背後には、彼女の影に控える取り巻きが四人。
逃げ道を探そうと視線を巡らせるが、窓を開けて飛び出すような隙を与えてくれる相手ではない。
逃げ場のない小部屋の空気は、鉛のように重い。
薄暗い室内で、彼女たちの朱色の装束だけが、妙に鮮やかに浮かび上がっている。
「……簡単なこと。その番装束をここに置いて、今すぐ消えていただければ」
「は?番装束……?」
「……まさか、その服の持つ意味すら知らないなんて」
嘲笑を含んだその言葉で、自分が今纏っている衣服の名を初めて知った。
番装束という、その響きだけで、ただの衣ではないのだと分かる。
けれど、そもそも彼女たちだって、私とは色が違うだけで、似たような朱色の装束を身に着けているというのに。
「……そんなことのために、こんな乱暴な真似をしなくても」
「『そんなこと』、ですって……?」
「あなたたちが着ている朱色だって、とても綺麗な色なのに」
ここへ来るまでの道すがら、私は多くの番を見かけてきた。
灰桜色、勝色、縹色……それぞれ濃淡もあったような気がする。
立場や隊の特色を表しているのか、多種多様な色彩がこの異界を彩っていた。
色にはきっと意味があるのだろうけれど、私にはまだ、それを正しく読み取る術がない。
「朔夜の他にも、鬼狩りの方はたくさんいると聞いています。番になりたいのであれば、別の人でも……」
そこまで言いかけると、バキッ、という乾いた破壊音が部屋に響く。
彼女が手にしていた、優雅なはずの扇子。
それが、見るも無惨な形にへし折られていた。
「私がっ……私たちが!どんな思いで、どれほどの年月を……その濃紅の装束に焦がれてきたと思っているのっ!!」
見開かれた瞳が、剥き出しの狂気を帯びて私に迫る。
そのあまりの気迫に、喉の奥がひゅっと縮んだ。
ここに連れてこられて、まだ数日。
私の発した不用意な一言が、これほどまでに彼女を激昂させるとは思わなかった。
この世界のことに疎い私には、この衣装が意味する『価値』が、まだ理解できていなかったのだ。
「やはり、あなたに睦月様は相応しくないわ。今すぐその番装束を脱ぎなさい!」
知らないことが多すぎて、言葉を間違えてしまったのかもしれない。
けれど、一度口にしてしまった言葉を、なかったことにはできない。
何より、ここで彼女たちに対して引くことも、どうしてもできなかった。
「……嫌です」
「なぜ!その服の意味も、価値すら知らない癖に!」
彼女がこの衣装に執着する、本当の理由はわからない。
私にとっては、ただの美しい衣服の一つでしかない。
けれど——この服が、私が『彼の番』であるという唯一の証明になるのだとしたら。
それは、決して他人に譲ってはいけない、重いもののように思えた。
初めて朔夜が私に着せてくれた服。
朔夜が、私を『番』だと告げた。
ならば、私が勝手に脱ぎ捨てていいものではない。
「私が……朔夜の番だからです。それ以外の理由は、ありません」
「まだ、そんな不遜なことを……っ!!」
「っ!」
勢いよく投げつけられた折れた扇子が、私の頬のすぐ横を掠めていった。
風圧に、髪がわずかに揺れる。
避けられた、と思った——そばから。
バシャッ、という鈍い音と共に、全身を刺すような冷たい衝撃が走った。
息が止まる。
胸元に視線を落とすと、鮮やかな濃紅色の生地に、墨を溶かしたような黒い液体が垂れ、じわじわと広がっていく。
冷たいのに、肌の奥だけが焼けるように熱い。
大切なものを踏みにじられたのだと悟り、視界の端がぼやけるように滲んだ。
「そちらの薄汚れた色の方が、あなたにはお似合いよ」
彼女が手にした器から、最後の一滴まで真っ黒な雫が落ちる。
何を掛けられたのか、理解が追いつかない。
困惑と屈辱を感じながら、私は外からの微かな気配を察して、振り返った。
同時に、扉が凄まじい勢いで開かれた。
「……待っていろと言っただろう」
「……朔夜」
「お前たち。……俺の番に、何をしている」
低く落とされた声に、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
誰も、答えることができない。
蛇に睨まれた蛙のように、彼女たちは震え、立ち尽くす。
私だって、何も言えない。
もしここで私がなにか口にすれば、彼女たちが罰を受けるかもしれない。
それに、声を出した途端、堪えていたものが崩れてしまいそうで。
静まり返った室内で、朔夜の靴の音だけが響く。
一歩、また一歩。
彼は私の前で立ち止まり、黒く汚された番装束を見下ろした。
その瞳の奥で、冷たい怒りが静かに燃えている。
「来い」
短く、拒絶を許さない一言。
腕を強く掴まれ、そのまま部屋の外へと連れ出された。
掴む力は強いのに、擦りむいた掌には触れないようにしている。
そのことに気づいてしまい、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「あのっ……睦月様!私は……!」
「黙れ。口を噤んだ俺の番に感謝しろ。……次はないと思え」
その声は、重く、冷たく。
取り残された彼女たちと共に、いつまでも暗い部屋の隅に澱んでいた。



