いつもとなんら変わらないはずの、平穏な一日だった。
言いつけ通りに家事を済ませ、泥にまみれて畑を耕し、陽が傾けば井戸から水を汲み、夕餉の支度に取り掛かる。
まだ幼い弟と妹にご飯を食べさせ、汚れた手足を拭い、寝かしつける。
そうして、ようやく自分も眠りに落ちる。
母が身罷り、あの継母がこの家に上がり込んでから、幾年も繰り返してきた日常。
息をするように、いつの間にか覚えてしまった日々。
「梓さん」
「……新八さん」
「これ、町へ行った折の土産なんだ。受け取って」
差し出されたのは、小さな硝子瓶に詰められた金平糖。
夕刻の残り香を吸い込んで、星の欠片のようにキラキラと輝いて見える。
瓶の中で触れ合う小さな音まで、甘く聞こえた。
綺麗。
……ああ、本当に綺麗。けれど。
「あの……これは、鈴には?」
「鈴には内緒です。君に、食べてほしかったから」
はにかむような笑みを残して去っていく、彼の後ろ姿を見送る。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
それが彼なりの、優しさであることは痛いほど解っていた。
けれど、彼に思いを寄せている異母妹の鈴がこのことを知れば、一体どうなるか。
継母と一緒になって、嫌みの礫を夜通し投げつけられる光景が、容易に目に浮かんでしまう。
私が罵倒されるだけなら、いくらでも耐えられる。
言葉で打たれることには、もう慣れている。
けれど、何より胸が締め付けられるのは、鈴よりもずっと幼い異母弟妹たちのことだ。
部屋の隅で肩を寄せ合い、震えながら嵐が過ぎ去るのを待つ二人の瞳。
その怯えた色を見るのが、私には一番辛かった。
手の中にある金平糖の瓶。
封を切ろうとして、やはり躊躇いが勝って指を止める。
私一人の楽しみにしてしまうには、この輝きはあまりにも眩しすぎた。
「……永太と琴への、お土産にしようかな」
数百人ほどがひっそりと暮らす、山に囲まれた小さな集落。
清らかな小川がせせらぎ、四季が静かに巡るこの長閑な風景は、決して嫌いではない。
春には山桜が薄く霞み、夏には蛍が水辺に浮かぶ。
この場所にも、美しいものはちゃんとある。
それでも、いっそどこか遠く……鳥のように、どこまでも遠くへ行けたなら。
そんな、叶いもしない空想が不意に胸を過る。
考えたところで、この山を下りて何ができるわけでもない。
行く宛も、頼れる人も、お金もない。
浮ついた夢物語に耽る暇があるなら、今日を凌ぎ、明日を繋ぐことだけを考えなければ。
そうして私の日々は、砂が零れるように過ぎていく。
「姉さん。昼間に、新八さんと睦まじくお話しされていたんですって?」
鈴が放ったその一言で、夕餉の空気は一変し、逃げ場のない檻へと変わる。
箸の触れる音も、味噌汁の湯気も、急に遠ざかった。
誰かの目に触れていたのか。
……あるいは、初めから。
「全く。容姿ばかりあの女に似て、いやらしい。男を誘惑する術だけは一人前だこと」
「新八さんから、永太と琴にと、お土産の品をいただいた。それだけです」
「あらぁ、本当にそれだけかしらぁ?」
鈴が口元に手を添え、わざとらしく目を細める。
母の面影を色濃く残すこの顔をなじられるのは、もはや日常の儀式のようなもの。
父も、亡き母も、そして継母も。皆、この集落で生まれ育った者たち。
父が婿入りしてまで母を娶ったこと。
その母が亡くなった直後、後妻の座に収まった継母は、十六年経った今も、母への暗い執念を根に持っているのだ。
「そうだわ!姉さん。せっかくその顔があるのなら、隣町の大店の主とでも縁組すればいいのに!」
「あら、名案ね!そうなれば、我が家も安泰だわ!」
隣町の主といえば、五十を優に超えた男。
それも、過去に四人もの妻が、数日も持たずに逃げ出したという、不吉な噂の絶えない人物。
二人は楽しげに、ありもしない妄想を事実のように塗り固めていく。
まるで、それがもう決まった縁談であるかのように。
父が二人を諌める気配は、微塵もない。
ただ黙々と箸を動かすその背中は、この光景を当たり前の景色として受け入れている。
一度でいい。
こちらを見てほしかった。
けれど、その願いも、とっくに口にするには遅すぎた。
ふと、隣に座る永太と琴に目を向ける。
二人は怯えに瞳を揺らしながら、小さな手で懸命に茶碗を握りしめ、口を動かしていた。
こぼさないように。
叱られないように。
ただそれだけを考えている子どもの顔。
実の母と姉が醜く嘲笑う姿を、この子たちに見せ続けなければならない。
申し訳なさに、胸の奥がぎりりと軋んだ。
鉛を飲み込むような心地で進む夕餉。
味など微塵も感じないまま、ただ胃に流し込み、逃げるようにその場を後にする。
言い返せば、火に油を注ぐだけ。
こうして沈黙を守り、気配を消して立ち去ることだけが、私に許された唯一の抵抗。
背中にまだ鈴の笑い声が刺さっている。
零れた溜息は、夜の寒さに白く溶けて消えた。
「おねえちゃん……およめに、いっちゃうの?」
隣の布団から、琴が縋るように小さな手を伸ばしてくる。
その柔らかな熱を持った指先を、私は壊れ物を扱うようにそっと握り返した。
小さな爪の先が、私の掌に不安ごと食い込んでいる。
「行かないよ。……永太と琴が大人になるまで、お姉ちゃんはずっと、二人のそばにいるから」
「ほんとう?」
「本当」
「……ことも、ずっといっしょ!」
もぞもぞと幼い体が同じ布団に潜り込んでくる。
細い腕が、私の袖をぎゅっと掴んだ。
安堵したのか、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえ始める。
明日になれば、また新しい傷を付けられるのかもしれない。
それでも、今はこれでいい。
私の腕の中で眠る、この二人の温もりがある。
頼りないくらい小さくて、けれど、私をこの家に繋ぎ止める温もり。
それだけで、私はまだ、明日を望むことができるのだから。
言いつけ通りに家事を済ませ、泥にまみれて畑を耕し、陽が傾けば井戸から水を汲み、夕餉の支度に取り掛かる。
まだ幼い弟と妹にご飯を食べさせ、汚れた手足を拭い、寝かしつける。
そうして、ようやく自分も眠りに落ちる。
母が身罷り、あの継母がこの家に上がり込んでから、幾年も繰り返してきた日常。
息をするように、いつの間にか覚えてしまった日々。
「梓さん」
「……新八さん」
「これ、町へ行った折の土産なんだ。受け取って」
差し出されたのは、小さな硝子瓶に詰められた金平糖。
夕刻の残り香を吸い込んで、星の欠片のようにキラキラと輝いて見える。
瓶の中で触れ合う小さな音まで、甘く聞こえた。
綺麗。
……ああ、本当に綺麗。けれど。
「あの……これは、鈴には?」
「鈴には内緒です。君に、食べてほしかったから」
はにかむような笑みを残して去っていく、彼の後ろ姿を見送る。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
それが彼なりの、優しさであることは痛いほど解っていた。
けれど、彼に思いを寄せている異母妹の鈴がこのことを知れば、一体どうなるか。
継母と一緒になって、嫌みの礫を夜通し投げつけられる光景が、容易に目に浮かんでしまう。
私が罵倒されるだけなら、いくらでも耐えられる。
言葉で打たれることには、もう慣れている。
けれど、何より胸が締め付けられるのは、鈴よりもずっと幼い異母弟妹たちのことだ。
部屋の隅で肩を寄せ合い、震えながら嵐が過ぎ去るのを待つ二人の瞳。
その怯えた色を見るのが、私には一番辛かった。
手の中にある金平糖の瓶。
封を切ろうとして、やはり躊躇いが勝って指を止める。
私一人の楽しみにしてしまうには、この輝きはあまりにも眩しすぎた。
「……永太と琴への、お土産にしようかな」
数百人ほどがひっそりと暮らす、山に囲まれた小さな集落。
清らかな小川がせせらぎ、四季が静かに巡るこの長閑な風景は、決して嫌いではない。
春には山桜が薄く霞み、夏には蛍が水辺に浮かぶ。
この場所にも、美しいものはちゃんとある。
それでも、いっそどこか遠く……鳥のように、どこまでも遠くへ行けたなら。
そんな、叶いもしない空想が不意に胸を過る。
考えたところで、この山を下りて何ができるわけでもない。
行く宛も、頼れる人も、お金もない。
浮ついた夢物語に耽る暇があるなら、今日を凌ぎ、明日を繋ぐことだけを考えなければ。
そうして私の日々は、砂が零れるように過ぎていく。
「姉さん。昼間に、新八さんと睦まじくお話しされていたんですって?」
鈴が放ったその一言で、夕餉の空気は一変し、逃げ場のない檻へと変わる。
箸の触れる音も、味噌汁の湯気も、急に遠ざかった。
誰かの目に触れていたのか。
……あるいは、初めから。
「全く。容姿ばかりあの女に似て、いやらしい。男を誘惑する術だけは一人前だこと」
「新八さんから、永太と琴にと、お土産の品をいただいた。それだけです」
「あらぁ、本当にそれだけかしらぁ?」
鈴が口元に手を添え、わざとらしく目を細める。
母の面影を色濃く残すこの顔をなじられるのは、もはや日常の儀式のようなもの。
父も、亡き母も、そして継母も。皆、この集落で生まれ育った者たち。
父が婿入りしてまで母を娶ったこと。
その母が亡くなった直後、後妻の座に収まった継母は、十六年経った今も、母への暗い執念を根に持っているのだ。
「そうだわ!姉さん。せっかくその顔があるのなら、隣町の大店の主とでも縁組すればいいのに!」
「あら、名案ね!そうなれば、我が家も安泰だわ!」
隣町の主といえば、五十を優に超えた男。
それも、過去に四人もの妻が、数日も持たずに逃げ出したという、不吉な噂の絶えない人物。
二人は楽しげに、ありもしない妄想を事実のように塗り固めていく。
まるで、それがもう決まった縁談であるかのように。
父が二人を諌める気配は、微塵もない。
ただ黙々と箸を動かすその背中は、この光景を当たり前の景色として受け入れている。
一度でいい。
こちらを見てほしかった。
けれど、その願いも、とっくに口にするには遅すぎた。
ふと、隣に座る永太と琴に目を向ける。
二人は怯えに瞳を揺らしながら、小さな手で懸命に茶碗を握りしめ、口を動かしていた。
こぼさないように。
叱られないように。
ただそれだけを考えている子どもの顔。
実の母と姉が醜く嘲笑う姿を、この子たちに見せ続けなければならない。
申し訳なさに、胸の奥がぎりりと軋んだ。
鉛を飲み込むような心地で進む夕餉。
味など微塵も感じないまま、ただ胃に流し込み、逃げるようにその場を後にする。
言い返せば、火に油を注ぐだけ。
こうして沈黙を守り、気配を消して立ち去ることだけが、私に許された唯一の抵抗。
背中にまだ鈴の笑い声が刺さっている。
零れた溜息は、夜の寒さに白く溶けて消えた。
「おねえちゃん……およめに、いっちゃうの?」
隣の布団から、琴が縋るように小さな手を伸ばしてくる。
その柔らかな熱を持った指先を、私は壊れ物を扱うようにそっと握り返した。
小さな爪の先が、私の掌に不安ごと食い込んでいる。
「行かないよ。……永太と琴が大人になるまで、お姉ちゃんはずっと、二人のそばにいるから」
「ほんとう?」
「本当」
「……ことも、ずっといっしょ!」
もぞもぞと幼い体が同じ布団に潜り込んでくる。
細い腕が、私の袖をぎゅっと掴んだ。
安堵したのか、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえ始める。
明日になれば、また新しい傷を付けられるのかもしれない。
それでも、今はこれでいい。
私の腕の中で眠る、この二人の温もりがある。
頼りないくらい小さくて、けれど、私をこの家に繋ぎ止める温もり。
それだけで、私はまだ、明日を望むことができるのだから。



