朔夜を見送った翌日の昼。
私は護衛の隊士に案内されるがまま、『鬼省庁』を訪れていた。
立ち並ぶ街並みに溶け込むその建物は、一見すればどこにでもある古めかしい役所のよう。
煤けた看板に、重たげな門扉。
出入りする人々も、表向きはただの役人にしか見えない。
けれど、一歩足を踏み入れると、ぐらりと空間が歪む感覚に襲われる。
「っ……!?」
足元が抜け落ちるような眩暈に、思わずしゃがみかける。
次に目を開いたとき、私の瞳に飛び込んできたのは、先ほどの建物の内部とは思えない、幻想の極地だった。
見上げれば、頭上には天井などない。
青空から茜色の夕暮れ、さらには星降る夜空へと、薄衣を重ねるようにゆらりと移ろう不思議な空。
幾重にも連なる朱色の鳥居の先には、紅い屋根瓦が陽炎のように揺らめく壮麗な建築群が、どこまでも続いていた。
そこは、季節という理が崩壊したような場所。
春の桜が舞い落ちる横で、初夏の紫陽花が濡れたように咲き、秋の紅葉が燃え、冬の椿がぽとりと首を落とす。
色とりどりの四季の花々が狂い咲くその光景は、あまりに美しく、そしてこの世のものと思えないほど浮世離れしていた。
現実のはずなのに、足元だけがふわふわと頼りない。
「何……ここ……。本当に、同じ皇都なの……?」
「あ!睦月隊長の番様ですよね?」
呆然と立ち尽くす私に、弾んだ声が掛けられた。
目線を向ければ、そこには自分の顔ほどもある大きな丸い瓶底眼鏡をかけ、抱えきれないほどの書類を抱えた女の子が立っていた。
書類の山に顔の半分ほどが埋もれていて、眼鏡だけが妙にきらりと光っている。
「ご案内を依頼されました、十二番隊の書記です~。本日はよろしくお願いしますねっ」
「あ、こちらこそ。……諏訪梓です」
「どうぞどうぞ、こちらへ~!」
私よりも少し幼く見える彼女に導かれるまま、異空間の廊下を歩き出す。
すれ違うのは、朔夜と同じ漆黒の制服を纏った隊士たち。
そして、私とはまた違う色鮮やかな装束に身を包んだ女性たちだった。
「あら……見て、あの濃紅の番装束」
「一番隊に、あんな番いたかしら?」
「ほら、昨夜の……睦月隊長の番になったっていう」
「ああ、あの鬼宿校の外から来たという……」
すれ違いざま、ひそひそと囁かれる噂話。
好奇と、ほんの少しの羨望、そして困惑が混じった視線が私に刺さる。
私自身というより、やはり朔夜という存在が、いかにこの場所で巨大な影を落としているのか。
それを肌で感じていた。
知らない場所。
知らない人々。
知らない決まり。
そのすべてに、私はただ朔夜の番という名札だけを付けられて立たされている。
「あの、ここはどうなっているんですか?外からは普通の役所に見えたのに……」
「ここは強力な『結界』で切り離された、隔離空間なんですよ。対鬼用の要塞、と言った方がいいかもしれませんね」
「結界……」
「はい!我々のような後方支援部隊や、隊員の命を繋ぐ番は、鬼にとっては格好の的で、鬼狩りにとっての最大の弱点ですから」
弱点——。
その重い響きに、思わず首筋の痕を指でなぞる。
番が欠ければ、鬼狩りはその身を鬼の毒に蝕まれ、やがて化け物へと堕ちる。
戦う力を持たない私が、彼の、ひいてはこの組織の急所になり得るのだ。
結界で厳重に守る必要があるというのも、頷ける話だった。
嬉しいと思うようなことではない。
けれど、朔夜の命を繋ぐ役目が自分にあるのだと思うと、やっと地に足が付いた気がした。
「でも、私は昨日まで朔夜さんの屋敷にいましたけれど……あそこは大丈夫だったのでしょうか」
「隊長格ともなれば、自前で腕利きの結界師を雇い続けることができますからね~。一般隊員は、なかなかそうもいきませんから、この鬼省庁に身を寄せるのが普通なんですけど」
彼女が口にする言葉の一つひとつは、意味こそ分かるものの、どこか絵空事のように現実味がない。
移ろう空。
狂い咲く花々。
この歩いている景色そのものが、誰かの描いた極彩色の夢の中に迷い込んでしまったかのようだった。
やがて、敷地内でも一際重厚な威容を誇る建物へと足を踏み入れる。
「到着です!睦月隊長の番様、お連れしました~!!」
彼女の朗らかな声が響くと、室内にいた人々の視線が一斉に私へと集まった。
一瞬の、静まり返るような沈黙。
そして、所狭しと、あちこちからざわめきが広がっていく。
先ほどまでの囁き声とは比較にならないほど注目されている。
「こちらのお部屋ですっ、どうぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。……もう少しだけ、声を抑えていただけませんか。なんだか、物凄く見られている気がして……」
「ああっ!申し訳ありません!梓様の事例、この鬼省庁でも本当に珍しいケースでして、皆興味津々なのですよ」
「珍しい……?」
「はい!元々ご夫婦だった方が番になるならともかく、基本的に番はここにある『鬼宿校』で教育を受けた候補生の中から選ばれるものですから」
鬼宿校。
耳慣れない言葉が、また一つ増える。
どうりで、目を覚ました時の朔夜が、あんなにも激しく憤ったわけだ。
私は、それほどまでに異質な、掟破りの存在だったのだ。
「では、私は……本来なら、ここにいるはずのない番なんですね」
「ええっと……言い方は少々難しいのですが、前例がとても少ない、と言いますか」
「気を遣わなくて大丈夫です。自分でも、そうなのだろうと思いましたから」
「梓様……」
案内されたのは、落ち着いた意匠の応接室だった。
彼女がテーブルにドサドサと書類を置くと、その量に耐えかねたように、紙束が少しだけ横へ崩れる。
彼女は慌てて両手で押さえ、それから照れたように笑ってソファへ腰掛けた。
私も、戸惑いを隠せないままその向かいに腰を下ろす。
「ええっと、何からご説明しましょうか?」
「……すみません、私、本当に何から何までわからないことだらけで」
「ですよねぇ~!大丈夫ですよ、ゆっくりいきましょう。まずは息をしてください」
「息……」
「はい。ここ、初めて来る方はだいたい空に気を取られて、呼吸を忘れますから」
彼女は眼鏡の奥の瞳を細めて、優しく微笑んだ。
その何気ない冗談に、張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜ける。
そもそも番という存在もだし、異界のような『鬼省庁』の仕組み、そして『鬼宿校』という耳慣れない場所。
思考の海に溺れそうになりながら、目の前の書記の少女との対話を整理する。
知りたいことはたくさんあるけど、どんなことよりも、胸の奥に燻る一つの懸念があった。
「あの。私が住んでいた集落がどうなったか……分かりますか?」
「集落、ですか?」
「家族……。弟の永太と、妹の琴と逸れてしまって。どこかの町に逃げていればいいのですが」
「鬼に襲われた区域は、浄化が終わるまでしばらくは立ち入り禁止になるんです」
「立ち入り禁止に……」
「必要でしたら、周囲の宿場町や避難所に確認を取ってみますよ~!」
「……お願いします」
大丈夫。
あの子たちは、きっと無事だ。
そう信じていても、永太と琴のことだけが気がかりでならない。
鬼に襲われたあの夜、私は一度死んだも同然の身だ。
その命を繋いでくれた人のために血を捧げることに、躊躇いはない。
朔夜は一番隊の隊長。
そしてこの子は十二番隊の書記と名乗った。
少なくとも、この組織には十二もの部隊が存在するということなのだろう。
机に並べられた書類に視線を落とすと、役目のこと、規則のことが目に入る。
昨日まで山間の小さな集落しか知らなかった私には、あまりにも広すぎる世界。
迷い、口を開きかけたその時。
ガラッと音を立てて、応接室の扉が開かれた。
「——失礼します」
私は護衛の隊士に案内されるがまま、『鬼省庁』を訪れていた。
立ち並ぶ街並みに溶け込むその建物は、一見すればどこにでもある古めかしい役所のよう。
煤けた看板に、重たげな門扉。
出入りする人々も、表向きはただの役人にしか見えない。
けれど、一歩足を踏み入れると、ぐらりと空間が歪む感覚に襲われる。
「っ……!?」
足元が抜け落ちるような眩暈に、思わずしゃがみかける。
次に目を開いたとき、私の瞳に飛び込んできたのは、先ほどの建物の内部とは思えない、幻想の極地だった。
見上げれば、頭上には天井などない。
青空から茜色の夕暮れ、さらには星降る夜空へと、薄衣を重ねるようにゆらりと移ろう不思議な空。
幾重にも連なる朱色の鳥居の先には、紅い屋根瓦が陽炎のように揺らめく壮麗な建築群が、どこまでも続いていた。
そこは、季節という理が崩壊したような場所。
春の桜が舞い落ちる横で、初夏の紫陽花が濡れたように咲き、秋の紅葉が燃え、冬の椿がぽとりと首を落とす。
色とりどりの四季の花々が狂い咲くその光景は、あまりに美しく、そしてこの世のものと思えないほど浮世離れしていた。
現実のはずなのに、足元だけがふわふわと頼りない。
「何……ここ……。本当に、同じ皇都なの……?」
「あ!睦月隊長の番様ですよね?」
呆然と立ち尽くす私に、弾んだ声が掛けられた。
目線を向ければ、そこには自分の顔ほどもある大きな丸い瓶底眼鏡をかけ、抱えきれないほどの書類を抱えた女の子が立っていた。
書類の山に顔の半分ほどが埋もれていて、眼鏡だけが妙にきらりと光っている。
「ご案内を依頼されました、十二番隊の書記です~。本日はよろしくお願いしますねっ」
「あ、こちらこそ。……諏訪梓です」
「どうぞどうぞ、こちらへ~!」
私よりも少し幼く見える彼女に導かれるまま、異空間の廊下を歩き出す。
すれ違うのは、朔夜と同じ漆黒の制服を纏った隊士たち。
そして、私とはまた違う色鮮やかな装束に身を包んだ女性たちだった。
「あら……見て、あの濃紅の番装束」
「一番隊に、あんな番いたかしら?」
「ほら、昨夜の……睦月隊長の番になったっていう」
「ああ、あの鬼宿校の外から来たという……」
すれ違いざま、ひそひそと囁かれる噂話。
好奇と、ほんの少しの羨望、そして困惑が混じった視線が私に刺さる。
私自身というより、やはり朔夜という存在が、いかにこの場所で巨大な影を落としているのか。
それを肌で感じていた。
知らない場所。
知らない人々。
知らない決まり。
そのすべてに、私はただ朔夜の番という名札だけを付けられて立たされている。
「あの、ここはどうなっているんですか?外からは普通の役所に見えたのに……」
「ここは強力な『結界』で切り離された、隔離空間なんですよ。対鬼用の要塞、と言った方がいいかもしれませんね」
「結界……」
「はい!我々のような後方支援部隊や、隊員の命を繋ぐ番は、鬼にとっては格好の的で、鬼狩りにとっての最大の弱点ですから」
弱点——。
その重い響きに、思わず首筋の痕を指でなぞる。
番が欠ければ、鬼狩りはその身を鬼の毒に蝕まれ、やがて化け物へと堕ちる。
戦う力を持たない私が、彼の、ひいてはこの組織の急所になり得るのだ。
結界で厳重に守る必要があるというのも、頷ける話だった。
嬉しいと思うようなことではない。
けれど、朔夜の命を繋ぐ役目が自分にあるのだと思うと、やっと地に足が付いた気がした。
「でも、私は昨日まで朔夜さんの屋敷にいましたけれど……あそこは大丈夫だったのでしょうか」
「隊長格ともなれば、自前で腕利きの結界師を雇い続けることができますからね~。一般隊員は、なかなかそうもいきませんから、この鬼省庁に身を寄せるのが普通なんですけど」
彼女が口にする言葉の一つひとつは、意味こそ分かるものの、どこか絵空事のように現実味がない。
移ろう空。
狂い咲く花々。
この歩いている景色そのものが、誰かの描いた極彩色の夢の中に迷い込んでしまったかのようだった。
やがて、敷地内でも一際重厚な威容を誇る建物へと足を踏み入れる。
「到着です!睦月隊長の番様、お連れしました~!!」
彼女の朗らかな声が響くと、室内にいた人々の視線が一斉に私へと集まった。
一瞬の、静まり返るような沈黙。
そして、所狭しと、あちこちからざわめきが広がっていく。
先ほどまでの囁き声とは比較にならないほど注目されている。
「こちらのお部屋ですっ、どうぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。……もう少しだけ、声を抑えていただけませんか。なんだか、物凄く見られている気がして……」
「ああっ!申し訳ありません!梓様の事例、この鬼省庁でも本当に珍しいケースでして、皆興味津々なのですよ」
「珍しい……?」
「はい!元々ご夫婦だった方が番になるならともかく、基本的に番はここにある『鬼宿校』で教育を受けた候補生の中から選ばれるものですから」
鬼宿校。
耳慣れない言葉が、また一つ増える。
どうりで、目を覚ました時の朔夜が、あんなにも激しく憤ったわけだ。
私は、それほどまでに異質な、掟破りの存在だったのだ。
「では、私は……本来なら、ここにいるはずのない番なんですね」
「ええっと……言い方は少々難しいのですが、前例がとても少ない、と言いますか」
「気を遣わなくて大丈夫です。自分でも、そうなのだろうと思いましたから」
「梓様……」
案内されたのは、落ち着いた意匠の応接室だった。
彼女がテーブルにドサドサと書類を置くと、その量に耐えかねたように、紙束が少しだけ横へ崩れる。
彼女は慌てて両手で押さえ、それから照れたように笑ってソファへ腰掛けた。
私も、戸惑いを隠せないままその向かいに腰を下ろす。
「ええっと、何からご説明しましょうか?」
「……すみません、私、本当に何から何までわからないことだらけで」
「ですよねぇ~!大丈夫ですよ、ゆっくりいきましょう。まずは息をしてください」
「息……」
「はい。ここ、初めて来る方はだいたい空に気を取られて、呼吸を忘れますから」
彼女は眼鏡の奥の瞳を細めて、優しく微笑んだ。
その何気ない冗談に、張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜ける。
そもそも番という存在もだし、異界のような『鬼省庁』の仕組み、そして『鬼宿校』という耳慣れない場所。
思考の海に溺れそうになりながら、目の前の書記の少女との対話を整理する。
知りたいことはたくさんあるけど、どんなことよりも、胸の奥に燻る一つの懸念があった。
「あの。私が住んでいた集落がどうなったか……分かりますか?」
「集落、ですか?」
「家族……。弟の永太と、妹の琴と逸れてしまって。どこかの町に逃げていればいいのですが」
「鬼に襲われた区域は、浄化が終わるまでしばらくは立ち入り禁止になるんです」
「立ち入り禁止に……」
「必要でしたら、周囲の宿場町や避難所に確認を取ってみますよ~!」
「……お願いします」
大丈夫。
あの子たちは、きっと無事だ。
そう信じていても、永太と琴のことだけが気がかりでならない。
鬼に襲われたあの夜、私は一度死んだも同然の身だ。
その命を繋いでくれた人のために血を捧げることに、躊躇いはない。
朔夜は一番隊の隊長。
そしてこの子は十二番隊の書記と名乗った。
少なくとも、この組織には十二もの部隊が存在するということなのだろう。
机に並べられた書類に視線を落とすと、役目のこと、規則のことが目に入る。
昨日まで山間の小さな集落しか知らなかった私には、あまりにも広すぎる世界。
迷い、口を開きかけたその時。
ガラッと音を立てて、応接室の扉が開かれた。
「——失礼します」



