「その子、誰? もしかして新樹の婚約者?」
百花はどうしたらいいかがわからず、目の前の男性と新樹とを交互に見やる。
「おいおい、無視するなよ。あ、お嬢さん、はじめまして。僕は天雪晶翔。天雪家の次期当主とでも言えばわかりやすいかな?」
社交の場に慣れているのか、彼は軽やかに名乗った。
天雪家も帝国六家の一つであり、彼はその現当主の息子のようだ。少しくせのある髪は、耳と眉を隠すくらい長めであり、切れ長の目は目尻に柔和な笑みを浮かべている。
「新樹、彼女を紹介してくれよ」
新樹が何も発しない以上、百花のほうから晶翔に名乗るわけにもいかない。
まるで我慢比べのような沈黙が続く中、根負けしたのは新樹のほうで、小さく舌打ちをした。
「俺の仕事の補佐をしてもらっている、藤澤百花だ」
「はじめ――」
「百花、いくぞ」
晶翔の向かって名乗ろうとしたところ、言葉の先を新樹に奪われてしまい、手を強く引かれた。
「あっ……」
「おいおい、新樹。狭量な男は嫌われるぞ。じゃ、藤澤百花さん。また、どこかで機会があれば」
片手をあげて陽気に別れを告げる晶翔に軽く頭を下げた百花は、新樹の後ろを引っ張られるようにしてその場を後にする。だが、新樹の背中は明らかに不機嫌で、歩調も速い。これは呉服店を出たときと同じような刺々しい空気がまとわりついている。
速足で歩く彼に追いつこうするが、慣れぬ靴のせいか足がもつれてしまう。
「新樹様……」
彼が不機嫌なのはわかっているが、このままではまた転んでしまうかもしれないと意を決し声をかけた。
「もう少しゆっくり歩いていただけないでしょうか?」
すると新樹の歩がゆるみ、はっとした様子で振り返る。
「悪い」
「いえ……」
素直に謝罪した新樹は、今度は肩を落としてとぼとぼと歩き始める。
「新樹様、どうかされたのですか? 具合が悪いのでしょうか?」
新樹の態度の変わりように不安になって声をかける百花だが、新樹は「なんでもない」としか答えない。となれば、これ以上、何か尋ねたとしても「なんでもない」としか返ってこない。
会話もなく、無言のまま足を動かすだけ。見慣れぬ景色に胸を躍らせていたはずなのに、今ではその景色も色を失ったかのように、ぼやけて見えた。
なんとか駐車場に着くと、二人の姿を目にした航平が、笑顔で出迎えてくれた。
「新樹様、不機嫌ですね。もしかしてデート、失敗したんですか?」
火に油を注ぐような航平の態度に、百花はヒヤヒヤしてしまうが、新樹は何も言わずに車の中へと滑り込んだ。
「いったい、何があったんですか……?」
百花が車に乗り込もうとすれば、航平が耳元でこそっとささやいてきたが、百花も航平に伝えられるほど明確な答えを持っていないため、わからないという意味を込めて首を横に振った。
後部座席で新樹の隣に腰を下ろしても、百花は何も声をかけられなかった。車内に流れる重い沈黙が胸を締めつける。
運転席に座った航平も困ったように肩をすくめると、ゆっくりアクセルを踏み始めた。
エンジン音だけが響く車内は、どこか重苦しい空気に包まれている。そんななか、ごそごそと荷物をあさるような音が聞こえたが、新樹は腕を組んで座席に寄りかかり、静かに目を閉じたまま動かない。
どこから聞こえる音だろうかと、車内を大きく見回した百花は、新樹の鞄が少し開いていることに気づいた。
《ふぅ、やっと出てこれたぜ》
「昂焔さん!」
鞄から這い出てくるような昂焔の姿を見つけ、百花は思わず声をあげてしまった。新樹がゆっくり目を開ける。
「昂焔さん、ずっと鞄の中に?」
《ああ、そうだ。呉服店でくつろいでいたら、坊が知り合いに声をかけられてな。オレ様の姿を見られたらまずいって、無理やり鞄に押し込められた》
呉服店で会った新樹の知り合いとなれば、加恋を指しているだろう。
「おまえのことが他の人に知られたら、やっかいなんだよ。前から言ってるだろうが」
新樹はさも面倒くさそうにため息をつく。
「そうなんですか? 式神って、他の鬼族の方も従えておりますよね?」
「あぁ、式神そのものを連れ歩くのは何も問題ない。だが、こいつはしゃべるし、うるさい」
《おいおい、うるさいってなんだよ》
新樹は頭痛を堪えるかのように、額を押さえた。
「やっぱり、最初におまえのような式神と百花を引き合わせたのが間違いだったな。百花は式神がなんたるかをわかっていない」
「申し訳ありません」
つい反射的に謝罪が口から出てきた。
「百花は悪くない。謝るな。悪いのは……おまえだぞ、昂焔」
いつの間にか百花の膝の上にちょこんと座っていた昂焔は、耳を持ち上げられて新樹の膝の上に強制移動させられた。
《いでででで、坊、もっとやさしく扱えよ》
「百花、覚えておけ。一般的な式神はしゃべらない。意思を持たない。主の命令に忠実に従うだけの存在だ」
「そうなんですか?」
もしこの話を聞いていなければ、式神とは鬼族の相棒のようなものだと、のんきに勘違いしたままだったかもしれない。
「昂焔が特別だ。だから、他の者に昂焔のことを知られると、面倒なんだよ」
《そういうことらしいよ。優秀なオレ様の活躍を誰にも評価されないっていうのは、ちょっち悲しいね》
悲しそうな雰囲気など微塵も感じさせない、いつもの軽い口調である。
だが、彼の話を聞いて理解した。客が少なかった手芸店では、昂焔を上着の内側に忍ばせていた新樹だが、呉服店、レストラン、菓子店では、他の人に見つからないようにと鞄の中にしまったのだ。
「だから、百花。昂焔のことは外では絶対に秘密だ。他の鬼族に知られてしまえば、昂焔は解析のためにばらばらにされるかもしれない」
《マジで?》
百花以上に驚いたのは昂焔だった。いつも騒がしい昂焔が、新樹の膝の上でぴしっと固まる。これではただのぬいぐるみである。
「ばらばらにされるならまだいいだろう? 依り代さえあれば、そこに定着できるんだから。だが、その瞬間を捕らえて、実体のないままどこかに封じ込められるかもしれないぞ?」
式神とは魂のような存在だと考えていいのだろうか。肉体を持たない魂が、依り代であるぬいぐるみに宿っている。そもそも式神は、鬼人の霊力によって作られた存在なのだ。
《なんだよ、坊。オレ様を脅そうとしているのかよ!》
強がる昂焔だが、その身体は見るからにぶるぶると震えていた。
「脅しているわけではない。事実を言っただけだ。だからおまえは外ではおとなしくしていろ」
新樹は昂焔の両耳を掴むとまた鞄の中に閉じ込めたが、昂焔も暴れる気力はなくなったのだろう。鞄の中に入れられても静かなままだった。
「新樹様……今の話は本当なんですか?」
「今の話? どの話だ」
「昂焔さんのことです……」
不安が言葉に現れたのか、語尾を貸すかに震わせた百花は、昂焔が隠れている鞄に視線を向けた。
「あぁ、嘘ではない。しゃべる式神は珍しい。俺の式神が意思を持ってしゃべりまくっているのを知っているのは、俺たち以外では皇帝だけだ」
それだけでも、昂焔の存在を外に知られないようにしているというのが、なんとなくだが伝わってきた。
「わかりました……教えてくださってありがとうございます。私、本当に無知で……申し訳ありません」
「いや……だから、百花は悪くない」
それはまるで、新樹が自分自身に言い聞かせるかのような小さな声であったが、百花の耳にはしっかり届いていた。
何かを考え込むような憂いを帯びた新樹の表情に、百花はうまく息ができないような感覚に襲われた。
百花はどうしたらいいかがわからず、目の前の男性と新樹とを交互に見やる。
「おいおい、無視するなよ。あ、お嬢さん、はじめまして。僕は天雪晶翔。天雪家の次期当主とでも言えばわかりやすいかな?」
社交の場に慣れているのか、彼は軽やかに名乗った。
天雪家も帝国六家の一つであり、彼はその現当主の息子のようだ。少しくせのある髪は、耳と眉を隠すくらい長めであり、切れ長の目は目尻に柔和な笑みを浮かべている。
「新樹、彼女を紹介してくれよ」
新樹が何も発しない以上、百花のほうから晶翔に名乗るわけにもいかない。
まるで我慢比べのような沈黙が続く中、根負けしたのは新樹のほうで、小さく舌打ちをした。
「俺の仕事の補佐をしてもらっている、藤澤百花だ」
「はじめ――」
「百花、いくぞ」
晶翔の向かって名乗ろうとしたところ、言葉の先を新樹に奪われてしまい、手を強く引かれた。
「あっ……」
「おいおい、新樹。狭量な男は嫌われるぞ。じゃ、藤澤百花さん。また、どこかで機会があれば」
片手をあげて陽気に別れを告げる晶翔に軽く頭を下げた百花は、新樹の後ろを引っ張られるようにしてその場を後にする。だが、新樹の背中は明らかに不機嫌で、歩調も速い。これは呉服店を出たときと同じような刺々しい空気がまとわりついている。
速足で歩く彼に追いつこうするが、慣れぬ靴のせいか足がもつれてしまう。
「新樹様……」
彼が不機嫌なのはわかっているが、このままではまた転んでしまうかもしれないと意を決し声をかけた。
「もう少しゆっくり歩いていただけないでしょうか?」
すると新樹の歩がゆるみ、はっとした様子で振り返る。
「悪い」
「いえ……」
素直に謝罪した新樹は、今度は肩を落としてとぼとぼと歩き始める。
「新樹様、どうかされたのですか? 具合が悪いのでしょうか?」
新樹の態度の変わりように不安になって声をかける百花だが、新樹は「なんでもない」としか答えない。となれば、これ以上、何か尋ねたとしても「なんでもない」としか返ってこない。
会話もなく、無言のまま足を動かすだけ。見慣れぬ景色に胸を躍らせていたはずなのに、今ではその景色も色を失ったかのように、ぼやけて見えた。
なんとか駐車場に着くと、二人の姿を目にした航平が、笑顔で出迎えてくれた。
「新樹様、不機嫌ですね。もしかしてデート、失敗したんですか?」
火に油を注ぐような航平の態度に、百花はヒヤヒヤしてしまうが、新樹は何も言わずに車の中へと滑り込んだ。
「いったい、何があったんですか……?」
百花が車に乗り込もうとすれば、航平が耳元でこそっとささやいてきたが、百花も航平に伝えられるほど明確な答えを持っていないため、わからないという意味を込めて首を横に振った。
後部座席で新樹の隣に腰を下ろしても、百花は何も声をかけられなかった。車内に流れる重い沈黙が胸を締めつける。
運転席に座った航平も困ったように肩をすくめると、ゆっくりアクセルを踏み始めた。
エンジン音だけが響く車内は、どこか重苦しい空気に包まれている。そんななか、ごそごそと荷物をあさるような音が聞こえたが、新樹は腕を組んで座席に寄りかかり、静かに目を閉じたまま動かない。
どこから聞こえる音だろうかと、車内を大きく見回した百花は、新樹の鞄が少し開いていることに気づいた。
《ふぅ、やっと出てこれたぜ》
「昂焔さん!」
鞄から這い出てくるような昂焔の姿を見つけ、百花は思わず声をあげてしまった。新樹がゆっくり目を開ける。
「昂焔さん、ずっと鞄の中に?」
《ああ、そうだ。呉服店でくつろいでいたら、坊が知り合いに声をかけられてな。オレ様の姿を見られたらまずいって、無理やり鞄に押し込められた》
呉服店で会った新樹の知り合いとなれば、加恋を指しているだろう。
「おまえのことが他の人に知られたら、やっかいなんだよ。前から言ってるだろうが」
新樹はさも面倒くさそうにため息をつく。
「そうなんですか? 式神って、他の鬼族の方も従えておりますよね?」
「あぁ、式神そのものを連れ歩くのは何も問題ない。だが、こいつはしゃべるし、うるさい」
《おいおい、うるさいってなんだよ》
新樹は頭痛を堪えるかのように、額を押さえた。
「やっぱり、最初におまえのような式神と百花を引き合わせたのが間違いだったな。百花は式神がなんたるかをわかっていない」
「申し訳ありません」
つい反射的に謝罪が口から出てきた。
「百花は悪くない。謝るな。悪いのは……おまえだぞ、昂焔」
いつの間にか百花の膝の上にちょこんと座っていた昂焔は、耳を持ち上げられて新樹の膝の上に強制移動させられた。
《いでででで、坊、もっとやさしく扱えよ》
「百花、覚えておけ。一般的な式神はしゃべらない。意思を持たない。主の命令に忠実に従うだけの存在だ」
「そうなんですか?」
もしこの話を聞いていなければ、式神とは鬼族の相棒のようなものだと、のんきに勘違いしたままだったかもしれない。
「昂焔が特別だ。だから、他の者に昂焔のことを知られると、面倒なんだよ」
《そういうことらしいよ。優秀なオレ様の活躍を誰にも評価されないっていうのは、ちょっち悲しいね》
悲しそうな雰囲気など微塵も感じさせない、いつもの軽い口調である。
だが、彼の話を聞いて理解した。客が少なかった手芸店では、昂焔を上着の内側に忍ばせていた新樹だが、呉服店、レストラン、菓子店では、他の人に見つからないようにと鞄の中にしまったのだ。
「だから、百花。昂焔のことは外では絶対に秘密だ。他の鬼族に知られてしまえば、昂焔は解析のためにばらばらにされるかもしれない」
《マジで?》
百花以上に驚いたのは昂焔だった。いつも騒がしい昂焔が、新樹の膝の上でぴしっと固まる。これではただのぬいぐるみである。
「ばらばらにされるならまだいいだろう? 依り代さえあれば、そこに定着できるんだから。だが、その瞬間を捕らえて、実体のないままどこかに封じ込められるかもしれないぞ?」
式神とは魂のような存在だと考えていいのだろうか。肉体を持たない魂が、依り代であるぬいぐるみに宿っている。そもそも式神は、鬼人の霊力によって作られた存在なのだ。
《なんだよ、坊。オレ様を脅そうとしているのかよ!》
強がる昂焔だが、その身体は見るからにぶるぶると震えていた。
「脅しているわけではない。事実を言っただけだ。だからおまえは外ではおとなしくしていろ」
新樹は昂焔の両耳を掴むとまた鞄の中に閉じ込めたが、昂焔も暴れる気力はなくなったのだろう。鞄の中に入れられても静かなままだった。
「新樹様……今の話は本当なんですか?」
「今の話? どの話だ」
「昂焔さんのことです……」
不安が言葉に現れたのか、語尾を貸すかに震わせた百花は、昂焔が隠れている鞄に視線を向けた。
「あぁ、嘘ではない。しゃべる式神は珍しい。俺の式神が意思を持ってしゃべりまくっているのを知っているのは、俺たち以外では皇帝だけだ」
それだけでも、昂焔の存在を外に知られないようにしているというのが、なんとなくだが伝わってきた。
「わかりました……教えてくださってありがとうございます。私、本当に無知で……申し訳ありません」
「いや……だから、百花は悪くない」
それはまるで、新樹が自分自身に言い聞かせるかのような小さな声であったが、百花の耳にはしっかり届いていた。
何かを考え込むような憂いを帯びた新樹の表情に、百花はうまく息ができないような感覚に襲われた。



