鬼のつがい~競売に堕ちた令嬢は不器用な年下当主の執愛に絡め取られる

 百花は、転びはしなかったものの、かくっと足が変な方向に曲がってしまい、その場にしゃがみ込んだ。
「百花!」
 数歩先を歩いていた新樹にも、百花の小さな悲鳴が聞こえたのだろう。器用に人をよけながら、駆け寄ってきた。
「転んだのか?」
「いえ、つまずいただけです」
「歩けるか?」
 心配そうに表情にかげを落とした新樹が、顔をのぞき込んでくる。
「は、はい。大丈夫です。ご心配おかけして、申し訳ありません」
「いや……」
 小さく呟いた新樹は百花の手を取って立たせたが、手を離す様子はない。
「痛みはないか? 歩けないようなら、俺がおぶってやるが」
「めっそうもございません」
 百花は顔の前で空いているほうの手を大きく振り顔も振って断ると、新樹はいぶかしげに目を細くする。
「なんだ? 俺におぶわれたくないのか」
「ここは外ですから、たくさんの人がおります。それに……恥ずかしいではありませんか。私も子どもではありませんし……」
 百花が抗議の声をあげれば、周囲の人々は何事だとこちらに視線を向けてくる。
「し、失礼しました……」
 顔に熱をためた百花はしゅんとしつつ、肩を丸めて新樹に謝罪する。
「いや……おまえの気持ちも考えずに悪かった。怪我をしていないのなら、それでいい」
 新樹はつながれた手に力を込めてくる。
 彼は純粋に百花が足を痛めて、歩けないから背負うと提案してくれたのだ。痛みで歩けないのであれば頼っていたかもしれないが、足はなんともない。だから嬉しさよりも羞恥が勝ってしまった。
「歩けるか?」
「はい、問題ございません」
 ひねっただけで、くじいたわけではない。慣れない靴ではあるが、しっかり歩くことはできる。
「昼飯、食べに行こうと思ったんだ。この先に予約した店がある。まぁ、予約したのは航平なんだが……」
 少し自嘲気味な新樹は、先ほどまでの苛ついた様子とは違って、今度はゆっくり歩き始めた。
「昼食ですか?」
 百花の中では予定になかった。だが、新樹は「時間があるなら付き合ってほしい」と言っていたので、彼がそこで食事したいがために、百花が付き添いするといった感じなのだろう。こう見えても新樹はまだ成人していない。
 とはいえ、新樹が予約したという店はいったいどういった店なのか。
 百花のかすかな記憶では、家族と外食といえばにぎやかな食堂が多かった。そこの二階の畳敷きの大部屋で、家族と従業員と、好きなものを好きなだけ食べるというのが、父から皆への感謝の気持ちの表し方であった。
 百花はいつも親子丼を頼んでいた。ふわふわの卵がぷりっとした鶏肉とからまって、口の中にいれると甘じょっぱさが広がっていく。
 懐かしい記憶がよみがえり、口の中によだれがたまってきた。
「百花は嫌いな食べ物はあるのか?」
 突然、新樹が尋ねてきたので、百花はあたふたしてしまう。
「えっと……嫌いな食べ物ですか? 特にありません。食べられるだけ、ありがたいので……」
 特に父の事業が失敗してからはそう思うようになった。商売をしていたときだって、不自由なく暮らしていたが、贅沢をしていたわけではない。
「……そうか」
「新樹様は、ピーマンが苦手でしたよね?」
「なっ……お、おまえ……そういうことをここで言うな」
 きょろきょろと大きく首を振り、他の者に聞かれていなかったかを確認する新樹の姿はほほ笑ましい。
「子どもは味覚が敏感だから、どうしてもピーマンの苦みを強く感じてしまうそうです」
「おい、俺を子ども扱いするな」
「申し訳ありません。新樹様のお話ではなく、一般的な話でして……その、養護院の子どもたちも、ピーマンが苦手だという子が多くて……」
 先ほどから過去を思い出してばかり。百花が言葉を詰まらせたところで、新樹は「味覚が衰えるとピーマンが食べられるようになるというのは、喜んでいいのかどうかわからないな」と、真面目な顔をする。
 そこで会話は途切れ、向こうからやってくる人の間を抜けて、目的地へと向かう。
 似たような建物が並ぶ区画にやってきて、百花はここから帰れるだろうかと不安になった。一人でこの場に置いていかれたら、どこもかしこも同じに見え、右も左もわからない。
「……百花、どうかしたのか?」
 そんな百花の心の内を感じ取ったのか、新樹も眉根をぎゅっと寄せる。
「あ、いえ……初めての場所で驚いているだけです。人も多いですし、建物もお屋敷の周りとは違いますね」
「あぁ。ここは三十年前の開国によって、一気に発展した場所だ。まぁ、店を一か所に集めて、人も集めようっていうところだな」
「だから、建物も新しいのですね?」
 先ほどの呉服店が昔ながらの建物であれば、ここは最近の洋風造りの建物が並ぶ。
「そうだな」
「似たような建物がたくさん並んでいて……一人だったら、迷子になってしまいそうです」
「だったら、俺の手を絶対に離すなよ。おまえに迷子になられたら、いい迷惑だ」
 きつくつながれた手からは、「絶対に離すもんか」という、新樹の気持ちが伝わってきて心強い。
「……はい。新樹様とはぐれてしまったら、お屋敷に戻ることもできませんので」
 それから新樹は、目についた建物がどういったものかを教え始める。
「あれは、デパートだな。そしてあっちが、美術館」
「え? あれが美術館なんですか? もっと広い建物だと思っていました」
「ああ、横に広くできない分、建物を縦に使っている。階ごとにテーマが設けられていて、展示してある作品の幅が広い」
 どこか生き生きとする新樹の話は百花にとって初めて聞くものばかりで、新聞を読んだだけでは得られなかった知識がぽんぽんと頭に入ってくる。
 そうやって他愛のない話をしていると、どうやら目的地に着いたらしい。
「ここだ。ここは開国と同時にできた異国料理を出すレストランだ。本場のシェフが料理しているから、他とは違う」
 エメラルドグリーンの外壁に、窓の白い枠がレース模様のように複雑にはめ込まれている幻想的な建物だ。扉を押し開くと、カランコロンとベルが鳴り響き、食欲をそそる香りに出迎えられた。
「いらっしゃいませ、暁陽様」
 まるで新樹が来るのをわかっていたかのような店員の対応に、百花には困惑が広がった。だが、新樹はそれがさも当たり前であるかのように対応し、「百花、こっちだ」と身体を硬くする百花を促す。
 手はつながれたままで、レストランの奥の席に案内されたが、そこは他の客の姿が見えないように半個室になっていた。
「ここに座れ」
 新樹が椅子を引いてくれたが、慣れぬ百花は椅子の前に立ってみたものの、座るタイミングがわからない。
「百花、そんなに緊張する必要はない。とにかく座れ」
「は、はい」
 座れと言われたから座ってみたと、百花からしてみればそれだけであり、マナーもよくわからない。
「全部、頼んであるから、おまえは料理を楽しめばいい」
 テーブルの上にはすでに皿とカトラリーが並べられているが、百花はナイフとフォークを使って食事をした経験がないのだ。
「新樹様……私、お箸しか使ったことがないのですが……」
「ああ、わかってる。だから気にするな」
 気にするなと言われても、慣れぬ食器を使って食事ができるとは思えなかった。
「皿の上にナプキンがあるだろ? それを広げて二つ折りの状態で、膝にかけろ」
「はい」
 向かいに座る新樹の言う通りにするしかない。
 すぐに足つきの飲み口の広いグラスに入った水がテーブルの上に置かれ、さらに料理まで運ばれてきた。このグラスは辞典で見たことがあり、ゴブレットと呼ばれるもの。
 料理の皿が、最初から用意されていた皿の上に置かれたから、百花は目を数回瞬かせ、じっくり観察してしまう。皿の上に皿がある。
「こちら、帆立のカルパッチョになります」
 聞き慣れない言葉が百花の耳を刺激した。
 二人きりになったところで、新樹が口を開く。
「外側のナイフとフォークを使え。とにかく外側から使っていけばいい」
「はい……あの、新樹様。質問してもよろしいでしょうか」
「なんだ」
 ぶっきらぼうな言い方であるが、彼は嫌がっているわけではない。
「こちらはどちらの国のお料理になるのですか?」
「料理は風蘭紫(ふうらんし)国のものだ」
 だからカルパッチョなど、耳慣れぬ言葉が聞こえてきたのだ。
「私は、天璃華(てんりか)国の言葉や文化を学んでいる最中ですが……風蘭紫国も学んだほうがよろしいでしょうか?」
「いや、まずは天璃華国を学べばいい。あそこが世界の大国で、我が帝国の最大貿易国だからな。世界の共通語も天璃華国のものになっている。天璃華語さえ学べば、世界の八割の人間と会話ができるとも言われている。だからおまえに辞典をあげただろう?」
 それは以前、土産だと言って、新樹が百花に買ってくれたもの。新樹はたまたま見つけたと言っていたが、航平が言うには、古書店に行ったとき「古いがわかりやすいものだ」と店主にすすめられ、購入したのだとか。
「あれは天璃華語のものだ。あれを使って天璃華語の読み書きができれば問題ない」
 新聞の隅に天璃華語の記事が載っており、それが読めないと百花は正直に新樹に伝えていたが、新樹は呆れたり怒ったりせず、ただ黙って辞典を用意してくれた。
 それはきっと「自分で読め」という意味なのだろうと受け取り、今では天璃華語の記事を見つけると、模写し、辞典を使って内容を読み解いていた。
「では、どうしてこのお店に……?」
 風蘭紫国の言語や文化を学べと、無言で訴えてきたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 だったら、なぜ新樹はこの店に百花を連れてきたのか。マナーも知らない、料理も知らない百花を、わざわざ風蘭紫国のレストランなどに。
「それは……俺が接待で連れてこられた店なんだよ。初めて食べたとき、変わった料理だが美味いと思ってな。いつかおまえを連れてきたいと思ったんだ。接待は嫌いだが、あのときは接待も悪くないと思った」
 そんな話を聞いてしまったら、喉の奥がつかえてうまく言葉が出てこない。
「だから、とにかく料理を食べてみろ。美味いから」
 小さく頷いた百花は、震える手でナイフとフォークを取った。