鬼のつがい~競売に堕ちた令嬢は不器用な年下当主の執愛に絡め取られる

 百花が女中から秘書に変わったため、仕事の内容も今までと異なるようになった。まず、掃除や洗濯といった仕事は免除され、それよりも新樹がすぐにためてしまう書類の納期確認から始まり、全体のスケジュールを調整する。すると航平は新樹の執務の補佐に専念できるため、今までよりも効率的に仕事が進むと喜んだ。
 新樹も当主としての仕事に真摯に向かい合っているが、やはり未成年という点からも、その能力は限られており、経験不足によってうまく回らないのも多々ある。
 それでも文句は言わずに執務をこなすのだから、当主としての自覚はあるのだろう。ただし、仕事に対して前向きかと問われると、文句は言わないが不機嫌な態度をまき散らすのが常である。
 しかし、それも百花が常に近くにいるようになって減ったらしい。適度に百花が「休憩しませんか」と声をかけ、新樹が好きな甘いお菓子を用意しているのも、原因の一つだとか。
 とにかく航平は、今までよりも仕事がやりやすくなったと拍手喝采である。
 百花も、今までの仕事もやりがいはあったが、今の仕事は目に見えて彼の役に立っているという実感が持てるため、以前よりも充足感を味わっていた。
 そうやって屋敷内での仕事に慣れた頃、百花が新樹の秘書として初めて帝国会館へ向かう日がやってきた。
 今までのようなお仕着せ姿で行くわけにはいかないからと、あのときに用意してもらった薄紫色のワンピースを身に着けることにした。和装の多い百花にとっては、やはりどこか気持ちは落ち着かないのだ。それはスース―するスカートのせいかもしれない。
「新樹様、いつまで不貞腐れているんですか!」
 航平の言葉の通り、新樹は朝から機嫌が悪い。
「不貞腐れてはいない」
「はい、行きますよ。百花さんも一緒に」
「は、はい」
 航平が新樹を引きずるようにして引っ張っていく後ろを、百花が慌ててついていく。朝からこんな調子では先が思いやられるなと感じていた。
 しかし、帝国会館に着けばいつもと変わらぬ新樹だった。会議には百花は立ち会えないため、会議に必要な資料の確認などをしたら、控え室へと下がった。
 控え室ではこれからの事業の資料に目を通そうと思っていたところ「百花さん」と声をかけられた。
「君、もしかして秘書になったの?」
 百花は立ち上がり、軽く頭を下げる。
「ご無沙汰してります、晶翔様。本日より、新樹様の秘書として、こちらにうかがうことになりました」
「へぇ? 君、成人してたんだ」
 まるで百花の価値を確認するかのように、全身にさっと視線を這わせた後、晶翔はにっこり微笑んだ。
「百花さん、ここに来るのは、二度目だよね?」
「はい。新樹様の忘れ物を届けたとき以来です」
「せっかくだから、この建物、僕が案内してあげるよ。どうせ、会議は早くても二時間はかかる。ほんと、偉い人って会議が好きだよね。その間、ここで待つだけでしょ?」
 だから資料を読みながら待つ予定だった。
 それに、笑顔の晶翔だが、彼の目の奥は笑っていないようにも見え、百花は内心焦りを覚えた。
「荷物はそこのロッカーに入れればいいよ。鍵もかかるし、不審な人物の出入りがないように、警備もいるでしょ?」
 警備の人間は帝国軍に所属する鬼人である。帝国会館は国の管轄であり、帝国軍に所属する者が働いている。また、帝国六家の人間は帝国軍とは独立する立場にあるが、その地位は帝国軍よりも上なのだ。
 とはいえ、百花は微妙な立場である。晶翔は帝国六家の天雪家の人間だが、百花は暁陽家とは血縁関係のないただの秘書。まして、ただの人。
「私のような者が、こちらの建物を動き回っても、ご迷惑なだけでは?」
 鬼人が多く集まるこの場所で、百花だけが圧倒的に浮いていた。それに先日、受付でぞんざいに扱われた過去が、百花の心に警戒心を抱かせているのだ。
「そうだね。だけど僕と一緒なら問題ない。建物の中を理解していないと、何かあったときに困るでしょ? それに僕もこう見えて、父の秘書を務めているんだよ。だから同じ秘書仲間ということで」
 ね? と笑顔で提案されてしまえば、百花の警戒心もゆるんでくる。それに、以前にもこの会館で百花を助けてくれたのが晶翔なのだ。
「あの……ご迷惑でなければ、是非、お願いしたいのですが……」
「僕から誘ったからね。迷惑だなんて思っていないよ。ただ二時間、こんなところで待つよりは、気晴らしになるしね」
 屈託ない笑顔を向けられ、百花の身体からも強張りが解けていく。
 机の上に開きかけた資料を片づけ、晶翔に教えてもらったロッカーへとしまい込む。
「鍵はなくさないでね。なくしても開けてもらえるけど、実費だから」
 晶翔が笑っているのは冗談のつもりだったからだろう。だが百花にとっては笑えない話だ。
「あれ? もしかして新樹、きちんと給金を支払ってないの?」
「い、いえ。そんなことありません。多すぎるくらいいただいてります」
 百花にとってはそう思えるくらいの充分な額をいただいている。
「そう? ま、新樹のところが嫌になったら、天雪家においで。君ならいつでも雇ってあげるから。暁陽家の秘書を務めたっていう実績は、誇れるものだからね。じゃ、いこうか」
 晶翔がさりげなく手を差し出してきたが、百花はそれに触れずに頭を下げる。
「はい、お願いします」
「ま、いっか」
 晶翔はその手をズボンのポケットに突っ込んだ。
 百花は、そんな彼の一歩半離れた後ろをついていく。
「この建物が本館。二階以上が、鬼族が使う会議室とか休憩室とか図書室とか、そういった部屋がある。だから六家会議があるときは、主にここのフロアにいることが多いね。皇帝が参加するときは、三階の会議室が使われるけど、あの人が会議に出るのって、年に二回くらいだから」
 年度始め予算会議と、年度末の決算報告。この会議には皇帝も出席するらしい。
「あと、皇帝から呼び出されるときは皇城に行くことが多いかな」
 たまに新樹も「皇城へ行ってくる」と、慌てて屋敷を飛び出していくときもあったと思い出す。
 階段を下り、一度外へ出ると、別の入り口を案内された。
「今の入り口は上の階に続く専用の入り口ね。一階と、そこから続く別館は、一般にも開放しているから」
 鬼族とその関係者だけが出入りする入り口を設けることで、二階、三階へと入る者を制限しているようだ。もちろん、その入り口にも警備の者が立っており、身分証を提示する必要がある。
 しかし今、晶翔に案内された入り口は、警備が立ってはいるものの、身分証を見せる必要はなかった。
「一階はギャラリーになっていて、季節に合わせて絵が変わるんだ」
「うわぁ……あっ……」
 展示されている絵画に、思わず感嘆の声を漏らした百花は、すぐに自分の手で口元を押さえた。
「申し訳ありません」
「いや。それだけ感動してくれたら、絵を描いた人も本望では? 絵画にも興味があるのかい?」
「興味があるといいますか……あまり見たことがないので。初めて見ました、こんな大きな作品」
 それは百花の背丈ほどあるような大きなキャンバスに描かれている人物画。
「そうだね。これは確か……風蘭紫国の画家の作品かな? 皇帝がさ、好きみたいでさ。異国から取り寄せては、それで季節ごとに展示品を変えているんだよ」
「そうなんですね。次の作品も楽しみですね」
 そこで晶翔がいきなり噴き出したため、百花はわけがわからず首を傾げる。
「ごめんごめん。僕たちはほら、皇帝の気まぐれに振り回されているからさ。あの人に対して、そんな純粋な声をかける人がいるとは思わなかったから……」
 晶翔は口元を押さえながら、まだ笑っているが、やはり百花には意味がわからない。
「ふぅ……百花さんの今の言葉、あの人が聞いたら喜ぶよ。機会があれば伝えておくよ。面白くなりそうだから」
「め、めっそうもございません」
「そう? ま、いいや。どうする? ここ、ゆっくり見る?」
 百花はちらりと腕時計を確認した。これも、秘書になったのだから時間管理は大事だと、新樹が贈ってくれたものだ。薄紅色のベルトがかわいらしくて気に入っている。
「いえ。他も案内していただきたいので。こちらの絵画は、またの機会にします」
「じゃ、次は別館を案内するよ」
 先を行く晶翔の後ろを、百花は周囲をきょろきょろ見回しながらついていく。ギャラリーに展示されている絵画は、どれも興味深い。あとで新樹にも確認してみよう。
 ギャラリーを抜けた先に回廊があり、そこを抜けて別館と呼ばれる建物に入った。