鬼のつがい~競売に堕ちた令嬢は不器用な年下当主の執愛に絡め取られる

「お着替えのときは遠慮なく呼んでくれればいいのに」
 先ほどから明るく笑いながら、百花の背中の鈎を外してくれたのは、美代である。
「申し訳ありません。仕事の邪魔をしてはいけないかと思いまして……」
「だからって旦那様に……まぁ、気持ちはわからないでもないけれど、旦那様もお困りになられたでしょう?」
 美代の言うとおりだ。百花が「鈎を外してほしい」とお願いしたところ、唇をわなわなと震わせながら「おまえ、何を言ってるんだ! そういうことは女中頭に頼め!」と、慌てて美代を呼び出したのだ。
 後から考えてみても、主人に向かって着替えを手伝ってほしいと口にしてしまったのは、大変失礼なことだったと、胸の内で深く反省した。百花としては一番上の鈎だけ外してもらえれば、それ以外は自室に戻って自分で外す予定だったのだ。そんな言い訳さえ、今となっては情けなく感じてしまう。
「そうですよね……旦那様に着替えを手伝ってほしいと、お願いしてしまったわけですから……」
 しゅんと肩を落とす百花に「そういうことじゃないんだけどね」と美代は苦笑を浮かべる。
「はいよ、終わったよ」
「ありがとうございます。お忙しいところ、何から何まですみません」
「こんなの仕事のうちに入らないよ。私からしてみりゃ、休憩のみたいなもんだ」
 朗らかな笑顔を見せる美代に、百花もようやくほっと胸をなでおろした。
「朝の着物も似合っていたけど、こういった洋装も似合うね。これはどうしたんだい?」
 美代は笑顔のまま、興味津々で尋ねてきた。美代がわざわざ着物を着付けてくれたのに、帰宅したときには着物を脱いで洋装姿で戻ってきたのだ。となれば、やはりその経緯は説明すべきだろう。せっかくの好意を無駄にしてしまったような気がして、少し申し訳なくなった。
「こちらは、新樹様が……」
「なるほどねぇ? 旦那様も百花ちゃんのことをよく見てるね」
「いえ……。私が新樹様の隣に立つのにふさわしい格好をできていなかったからかもしれません。着物姿も慣れず、歩いているうちに着崩れしてしまったのかも……」
 なるほどねぇ、と相づちを打つ美代は、変わらず柔らかな笑みを浮かべたまま。
「着替えた後、どこかに行かなかったのかい?」
「どこか……えぇと、昼食を。風蘭紫国の料理のお店でした」
 そうかい、そうかいと、美代はやはり満面の笑みを浮かべながら、満足そうに何度もうなずいている。
「私なんかは、親のその前の代から暁陽家に務めている家だからね。こちらのお屋敷は、私にとっても生活のためには大事な場所なんだよ」
 美代がぽつぽつと身の上話を始め、百花もつい耳を傾ける。
「先代の当主様が亡くなったとき、暁陽家が取り潰されるかもという噂もあったんだ。そうなると、私たちは無職になってその辺に放り出されてしまう。人によっては住むところすらない状態だよ」
 美代が言うように住み込みで働いている者も多く、百花もそのうちの一人だ。
「だけど、皇帝陛下が新樹様の後見人となってくださって、なんとか六家の一つとして成り立っている」
 百花が新樹と出会ったとき、彼はすでに暁陽家の当主だった。幼いながらも、他の六家と対等にやり合っていると考えれば、彼にのしかかる苦労や責任は、きっと百花が想像しているものよりもずっと重いものなのだろう。
「深山さんもね、よくやってくださっているけれど……結局、新樹様が未成年という点で、他家からは舐められていたんだろうね。当主を継いだばかりの頃の新樹様は、荒れてどうしようもなかったんだよ」
 新樹はたまに傲慢なところは見せるが、美代のいう「荒れる」というのがピンとこない。
「だけど、その頃に百花ちゃんがここに来てくれたからね。それから新樹様の癇癪もだいぶ落ち着いたんだよ。だから私たちは百花ちゃんに感謝してるってわけさ」
 新樹にそんな過去があっただなんて、まったく知らなかった。
 養護院でぬいぐるみを買ってくれた幼い彼についてはぼんやりとしか覚えていないが、新樹は百花にとっては最初から帝国六家、暁陽家の当主様だったのだ。
「新樹様もあと三年経てば成人される。皇帝陛下も後見人を下りるだろうし、そうなるともう一人前の当主様だ。むしろそこからが今よりももっと大変になるかもしれないね。私たちも含めて」
 この屋敷で働いている者たちは、暁陽家が好きなのだ。だから、ここがなくなって働き口がなくなってしまえば、他の屋敷に行くしかないが、行った先で今までと同じように働けるとは限らない。
「今のところ、新樹様の世話人は深山さんと百花ちゃんだからね。しっかり頼んだよ、私たちのためにも」
 ぽんぽんと背中を軽く叩いた美代は「着替えはもう大丈夫だね? 何かあったらすぐに呼ぶんだよ?」と念押ししてから、部屋を出ていった。
 百花は薄紫色のワンピースを脱いで洋装用の下着も外すと、いつもの肌着を身につけてからお仕着せに着替える。なんだかんだでこの服が一番落ち着くのだ。馴染んだ布地の感触に、ふぅと息が漏れた。
 疲れていたはずの身体なのに、新樹にクッキー缶を手渡し、彼が照れくさそうな笑顔を見せてくれた瞬間、それらはすべて吹っ飛んだ。だが、やっぱり最後の最後で失敗してしまったらしい。
 明日、もう一度きちんと謝罪しようと思いつつ、百花は今日の日記を書くことにした。
 文机に向かい、日記帳を開く。
 日記は、百花が暁陽家にやってきてから毎日つけているもので、今ではそれも十冊目になりそうである。その日、教えてもらった内容を忘れないようにしようという気持ちで始めたのがきっかけだが、今では欠かせない日課となっていた。
 特に今日は、いろんなことがあった。それも百花にとって初めての経験ばかり。
 昂焔の依り代を作るために布地を選んだのは、遙か昔に感じられるくらい。ただ、あの手芸店には、また足を運んでみたい。布地だけでなく刺繍糸や毛糸も豊富に並んでいた。また、次の機会があれば新樹に相談してみよう。
 こうやって一日を振り返ってみると、本当にいろいろな出来事があって、夢のような時間だった。
 レストランで食べた料理の内容も、できるだけ思い出して鮮明に書き留める。それから、簡単なマナーも。せっかく新樹に教えてもらったのだから、また同じようなレストランで食事をするときは、もう少し自然にナイフやフォークを使えるようになりたいものだ。
 いつもであれば十分程度でさらっと書き上げる日記も、今日はその倍以上の時間がかかった。
 ようやく書き終え、少しだけぼんやりと頬杖をつく。そんなとき、百花の心の中にもやもやとした気持ちを植え付けているのが、瑞雨加恋の存在だった。
(新樹様とお似合いだった……)
 人形のように整った顔立ちの加恋は、自信に満ちて堂々としている新樹と並ぶと、本当に絵になった。何より彼女は新樹と同い年。新樹よりも三歳も年上の自分が、彼の隣に並ぶなどおこがましい。いや、相手は帝国六家のご令嬢だ。百花と比べるだけでも失礼である。
 新樹がやさしいから、つい夢を見てしまったのだ。現実に引き戻されたところで、胸の奥がちくっと微かに痛んだ。
(夕飯を、食べに行こう……)
 一人で部屋にいるから、つい余計な考えが浮かんでしまうのだ。
 文机に両手をついて立ち上がった百花だが、長い時間正座していたせいか、足が完全に痺れていた。
「あっ……」
 よろけてしまい、慌てて壁に手を突く。
 ここに新樹がいたなら、身体を支えてくれただろう。もしくは「怪我はないか?」とすぐに声をかけてくれたかもしれない。
 しかし、残念ながら新樹はこの場にはいない。
 勢いよく手をついてしまったせいか、手のひらがじんじんと痛み出した。それよりもちくちくと棘が刺さるような胸の痛みのほうが、ずっと大きかった。