春、煙のむこうで

 二次会の〈マリ〉には、僕と遥とママのマリの三人だけが残った。
 グラスの底で氷が軽い音を立てる。

「家具を買ったんですよね」
 遥がぽつりと呟いた。
「社宅の部屋に似合いそうな本棚。でも、一人じゃ組み立てられなくて」

 マリが僕を指さす。
「ほら、智也。あんた行って組み立てておあげなさい」
「いや、でも……」
「なに言ってんの。女の子が困ってるのよ」

 マリの笑みは、何かを見透かしているようだった。

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 遥の部屋は、白と木の色が穏やかに混じるワンルーム。
 箱のままの本棚が、壁に立てかけられていた。

「なんだかほんとに、わざわざすみません」
「いいよ。こういうのは男手がいるもんだし、それに二人の方が早いよ」

 六角レンチを回す音だけが響いた。

 途中、彼女が段ボールを開けて中の本を取り出す。
 その背表紙に、あの日と同じ作家の名があった。

「やっぱりこれ、好きなんだ?」
「はい。何度読んでも、最後の一行で泣きそうになるんですよ」
「俺も、その一行のために読み返したなあ」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「やっぱり、智也さんとは話が合いますね」

 本棚を組み終え、二人で並んで腰を下ろした。

 狭い部屋の隅、壁際のテーブル。
 湯気の立つマグカップ。
 手を伸ばした拍子に、指先が触れた。

 離さずに、そのまま握った。

 遥の視線が僕をとらえる。
 その瞳の奥に、ここまでの四年のすべてが映っていた。

 笑い合った夜も、応援し合った恋も。
 その全部が、いまここでひとつに重なる。

 そして、そっと唇が触れた。

 短く、静かなキス。
 暖房の音が遠くなり、外の風の音が柔らかく聞こえた。