春になると、すすきのの片隅にある小さなゲイバー〈マリ〉が、毎年恒例のジンギスカン会を開く。
ママのマリ以外には純粋に女性のスタッフもいて、客には普通の男女も多い。
僕と彼女も、ママの人柄に惹かれて常連になった普通の男女だった。
雪が消え、風がまだ冷たい季節。
外のテラスに簡素な花見台が設えられ、炭火の煙と桜の香りが、夜の街の光に溶けていく。
その夜、彼女――佐伯遥は初めてそこに来た。
大学OBの水野梢に誘われて。
人の輪に戸惑いながら、焼けた肉を皿に取る手つきは慎重で、眼鏡の奥の瞳は絶えず周囲の会話を追っていた。
「学生さん? 若いってイイわねぇ」
ママのマリが笑いながら皿を渡す。赤いマニキュアが夜に光った。
「はい、文学部です」
「まあ、知的ね。うちの常連にも文学青年がいるわよ……青年って言うにはちょっと、いや、かなり、とうがたってるか」
そう言って笑いながら、マリが炭火の向こうを指す。
その先にいたのが、僕――高瀬智也だった。
梢と肩を並べて肉を焼き、隣では同年代の飲み友達・岡田直樹が酒を注いでいる。
遥はぎこちなく笑い、軽く会釈した。
その瞬間、バッグの隙間から一冊の文庫本が覗いた。背表紙には「三月の雪」。
僕の好きな作家だった。
けれど、その夜はそれ以上話さなかった。
ただ、帰り際に彼女が言った。
「また、来ます」
春の風に混じって、煙が彼女の髪を包んだ。
その一瞬だけが、妙に記憶に残った。
ママのマリ以外には純粋に女性のスタッフもいて、客には普通の男女も多い。
僕と彼女も、ママの人柄に惹かれて常連になった普通の男女だった。
雪が消え、風がまだ冷たい季節。
外のテラスに簡素な花見台が設えられ、炭火の煙と桜の香りが、夜の街の光に溶けていく。
その夜、彼女――佐伯遥は初めてそこに来た。
大学OBの水野梢に誘われて。
人の輪に戸惑いながら、焼けた肉を皿に取る手つきは慎重で、眼鏡の奥の瞳は絶えず周囲の会話を追っていた。
「学生さん? 若いってイイわねぇ」
ママのマリが笑いながら皿を渡す。赤いマニキュアが夜に光った。
「はい、文学部です」
「まあ、知的ね。うちの常連にも文学青年がいるわよ……青年って言うにはちょっと、いや、かなり、とうがたってるか」
そう言って笑いながら、マリが炭火の向こうを指す。
その先にいたのが、僕――高瀬智也だった。
梢と肩を並べて肉を焼き、隣では同年代の飲み友達・岡田直樹が酒を注いでいる。
遥はぎこちなく笑い、軽く会釈した。
その瞬間、バッグの隙間から一冊の文庫本が覗いた。背表紙には「三月の雪」。
僕の好きな作家だった。
けれど、その夜はそれ以上話さなかった。
ただ、帰り際に彼女が言った。
「また、来ます」
春の風に混じって、煙が彼女の髪を包んだ。
その一瞬だけが、妙に記憶に残った。



