――気づいたら、部屋が暗くなっていた。
段ボールの谷間に座り込んだまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。窓の外の光が白から橙に変わっていて、カーテンのない窓枠が長い影を床に落としている。四月の日暮れは、八月のそれよりもずいぶん早い。
手の中にはまだ、あのメモ用紙がある。
『藤野さんへ』
十年前の夏の終わりに手渡された、何も書かれていない手紙。いや――何かを書こうとして、書けなかった手紙。
わたしは紙を窓のほうに掲げて、光に透かした。
何も浮かび上がらない。当たり前だ。そこにインクの跡はない。消しゴムで消された文字の痕跡もない。ただの白い紙。でも、確かにそこには何かがあった。十七歳の瀬川くんが、何を書こうか迷って、書いては消し、消しては書き、最後にはどの言葉も正しくないと思って白紙に戻した――その逡巡の時間が、この紙には染み込んでいる。
伝えたかったのだろう。何かを。
わたしが伝えられなかったのと同じように、瀬川くんも伝えられなかったのだ。
あの夜、家に帰ってから浴衣を脱いだとき、帯の間にメモが挟まっているのに気づいた。河川敷で受け取ったあと、無意識に帯に挟み込んでいたらしい。開いて読んだ。白紙だった。そのとき初めて、声を上げて泣いた。何も書かれていないことが、何よりも雄弁だった。
翌日、瀬川くんからメッセージが来た。『昨日はありがとう』とだけ。返事を打てなかった。何を打てばいいのかわからなかった。三日後に『こちらこそありがとう』とだけ返した。それが最後のやり取りだった。
それから十年。瀬川くんの消息は知らない。連絡を取ろうと思えばできたかもしれない。SNSで探せば見つかったかもしれない。でもそうしなかった。そうしないことが、あの夏に対するわたしなりの誠実さだと思っていた。あの夏はあの夏のまま、どこにも続かない場所に置いておきたかった。
――嘘だ。
本当は、怖かっただけだ。連絡を取って、瀬川くんが「藤野さん? ああ、高校のときの」くらいの反応だったらと思うと、怖かった。わたしにとっての十年が、彼にとっては夏のひとコマに過ぎなかったらと思うと、その可能性を確かめる勇気がなかった。十七歳のときと同じだ。踏み込めない。聞けない。確かめられない。
でも。
――でも、このメモがある。
何も書かれていない白紙のメモ。けれどこれを書こうとした人がいた。「藤野さんへ」と宛名を書いた人がいた。その下に何かを伝えようとして、言葉を選んで、どれも違うと思って、それでも捨てずにわたしに手渡した人がいた。
それだけで、十分ではないか。
あの夏が瀬川くんにとっても大切だったかどうか、本当のところはわからない。わからないけれど、この白紙がその答えの代わりになってくれる。ならなくてもいい。わたしがそう信じることを、誰にも咎められはしない。
メモ用紙を丁寧に折りたたみ直した。角がやわらかくなった紙を、十年ぶんの丁寧さで折る。引っ越し先に持っていく荷物の中から、新しい手帳を取り出して、最後のページに挟んだ。
捨てない。
でも、もう泣かない。
立ち上がって、膝の埃を払った。部屋はもうほとんど空っぽだった。段ボールの山と、壁の画鋲の穴と、夕暮れの光。わたしはこの部屋を出ていく。新しい街で、新しい仕事を始める。また誰かに出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。どちらでもいい。どちらでもいいと思えるくらいには、二十七歳のわたしは、十七歳のわたしより少しだけ丈夫になっている。
ふと、窓の外で歓声が聞こえた。
何気なく目をやると、隣の家の庭先で子供たちが手持ち花火をしていた。四月なのに花火。スーパーの安売りで買ったのだろうか。母親らしい女性が「もう暗くなるからラストね」と声をかけている。子供たちは聞こえないふりをして、手花火を振り回して走り回っている。
その中に、一人だけ走らない子がいた。
しゃがみ込んで、両手で大事そうに一本の花火を持っている。線香花火だった。ぱちぱちと小さな火花が散って、夕暮れの庭を手のひらほどの範囲だけ照らしている。その子は走り回る友達には目もくれず、自分の手元の小さな光をじっと見つめていた。火花が弱まって、細い光の糸が垂れて、最後に赤い火球がぽとりと落ちた。落ちた瞬間、その子が「あーあ」と笑った。残念そうで、でも満足そうな笑い方だった。
わたしは、小さく笑った。
胸のいちばん深いところに、何かが灯るのを感じた。温かくて、少しだけ痛い。けれどもう、痛みだけではない。あの夏が終わったとき、わたしの中に残ったのは傷だと思っていた。十年間ずっとそう思っていた。でもそうじゃなかった。
あれは傷ではなく、灯火だった。
線香花火の火球のように、いちばん最後に、いちばん明るく光ったもの。消えたように見えて、消えていなかったもの。わたしの中でずっと――ずっと、赤く、静かに、灯り続けていたもの。
段ボールに手をかけて、最後のひと箱をガムテープで閉じた。窓の外ではまだ子供たちの笑い声が聞こえている。
新しい手帳の最後のページに、白紙のメモが眠っている。
あれは線香花火みたいな恋だった。最後に残った火球がいちばん明るくて――だから十年経っても、わたしの手のひらはまだ温かい。
段ボールの谷間に座り込んだまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。窓の外の光が白から橙に変わっていて、カーテンのない窓枠が長い影を床に落としている。四月の日暮れは、八月のそれよりもずいぶん早い。
手の中にはまだ、あのメモ用紙がある。
『藤野さんへ』
十年前の夏の終わりに手渡された、何も書かれていない手紙。いや――何かを書こうとして、書けなかった手紙。
わたしは紙を窓のほうに掲げて、光に透かした。
何も浮かび上がらない。当たり前だ。そこにインクの跡はない。消しゴムで消された文字の痕跡もない。ただの白い紙。でも、確かにそこには何かがあった。十七歳の瀬川くんが、何を書こうか迷って、書いては消し、消しては書き、最後にはどの言葉も正しくないと思って白紙に戻した――その逡巡の時間が、この紙には染み込んでいる。
伝えたかったのだろう。何かを。
わたしが伝えられなかったのと同じように、瀬川くんも伝えられなかったのだ。
あの夜、家に帰ってから浴衣を脱いだとき、帯の間にメモが挟まっているのに気づいた。河川敷で受け取ったあと、無意識に帯に挟み込んでいたらしい。開いて読んだ。白紙だった。そのとき初めて、声を上げて泣いた。何も書かれていないことが、何よりも雄弁だった。
翌日、瀬川くんからメッセージが来た。『昨日はありがとう』とだけ。返事を打てなかった。何を打てばいいのかわからなかった。三日後に『こちらこそありがとう』とだけ返した。それが最後のやり取りだった。
それから十年。瀬川くんの消息は知らない。連絡を取ろうと思えばできたかもしれない。SNSで探せば見つかったかもしれない。でもそうしなかった。そうしないことが、あの夏に対するわたしなりの誠実さだと思っていた。あの夏はあの夏のまま、どこにも続かない場所に置いておきたかった。
――嘘だ。
本当は、怖かっただけだ。連絡を取って、瀬川くんが「藤野さん? ああ、高校のときの」くらいの反応だったらと思うと、怖かった。わたしにとっての十年が、彼にとっては夏のひとコマに過ぎなかったらと思うと、その可能性を確かめる勇気がなかった。十七歳のときと同じだ。踏み込めない。聞けない。確かめられない。
でも。
――でも、このメモがある。
何も書かれていない白紙のメモ。けれどこれを書こうとした人がいた。「藤野さんへ」と宛名を書いた人がいた。その下に何かを伝えようとして、言葉を選んで、どれも違うと思って、それでも捨てずにわたしに手渡した人がいた。
それだけで、十分ではないか。
あの夏が瀬川くんにとっても大切だったかどうか、本当のところはわからない。わからないけれど、この白紙がその答えの代わりになってくれる。ならなくてもいい。わたしがそう信じることを、誰にも咎められはしない。
メモ用紙を丁寧に折りたたみ直した。角がやわらかくなった紙を、十年ぶんの丁寧さで折る。引っ越し先に持っていく荷物の中から、新しい手帳を取り出して、最後のページに挟んだ。
捨てない。
でも、もう泣かない。
立ち上がって、膝の埃を払った。部屋はもうほとんど空っぽだった。段ボールの山と、壁の画鋲の穴と、夕暮れの光。わたしはこの部屋を出ていく。新しい街で、新しい仕事を始める。また誰かに出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。どちらでもいい。どちらでもいいと思えるくらいには、二十七歳のわたしは、十七歳のわたしより少しだけ丈夫になっている。
ふと、窓の外で歓声が聞こえた。
何気なく目をやると、隣の家の庭先で子供たちが手持ち花火をしていた。四月なのに花火。スーパーの安売りで買ったのだろうか。母親らしい女性が「もう暗くなるからラストね」と声をかけている。子供たちは聞こえないふりをして、手花火を振り回して走り回っている。
その中に、一人だけ走らない子がいた。
しゃがみ込んで、両手で大事そうに一本の花火を持っている。線香花火だった。ぱちぱちと小さな火花が散って、夕暮れの庭を手のひらほどの範囲だけ照らしている。その子は走り回る友達には目もくれず、自分の手元の小さな光をじっと見つめていた。火花が弱まって、細い光の糸が垂れて、最後に赤い火球がぽとりと落ちた。落ちた瞬間、その子が「あーあ」と笑った。残念そうで、でも満足そうな笑い方だった。
わたしは、小さく笑った。
胸のいちばん深いところに、何かが灯るのを感じた。温かくて、少しだけ痛い。けれどもう、痛みだけではない。あの夏が終わったとき、わたしの中に残ったのは傷だと思っていた。十年間ずっとそう思っていた。でもそうじゃなかった。
あれは傷ではなく、灯火だった。
線香花火の火球のように、いちばん最後に、いちばん明るく光ったもの。消えたように見えて、消えていなかったもの。わたしの中でずっと――ずっと、赤く、静かに、灯り続けていたもの。
段ボールに手をかけて、最後のひと箱をガムテープで閉じた。窓の外ではまだ子供たちの笑い声が聞こえている。
新しい手帳の最後のページに、白紙のメモが眠っている。
あれは線香花火みたいな恋だった。最後に残った火球がいちばん明るくて――だから十年経っても、わたしの手のひらはまだ温かい。
