最後の火花を、君と

 打ち上げ花火が終わると、人の流れはすぐに駅のほうへ向かった。

 提灯の明かりが屋台ごとひとつずつ消えていく。さっきまであんなに賑やかだった河川敷が、潮が引くように静かになっていった。草の匂いと、火薬の残り香と、川の水のぬるい気配だけが残っている。

「少し座らない?」

 瀬川くんが土手のベンチを(あご)で示した。いつもの河川敷の、いつものベンチ。でも夜に来たのは初めてだった。街灯がひとつだけ、ベンチから少し離れたところで弱い光を落としている。座ると、コンクリートがまだ昼間の熱を(ほの)かに含んでいた。

 花火の余韻なのか、耳の奥がまだ少しぼうっとしていた。心臓は手首を掴まれたときからずっと落ち着かないままで、隣に座る瀬川くんの肩が近い。近いのに遠い。告白の言葉を探さなくてはいけないのに、頭の中は空っぽのまま、ただ夏の夜の匂いだけが鼻の奥をくすぐっていた。

 美咲の声が脳裏を(よぎ)る。線香花火の火が落ちるまでに言えたら、勝ち。

 そのとき、瀬川くんが鞄に手を入れた。

 取り出したのは、コンビニの袋に入った線香花火の束だった。

「線香花火!?」

 わたしの気持ちを見透かしたかのような登場に、声が裏返った。

「さっきコンビニで買った。最後にこれ、やりたくて」

 最後に、と彼は言った。その言葉が引っかかったのは一瞬だけで、すぐに忘れた。あるいは、忘れようとした。

 瀬川くんがポケットからライターを取り出した。百円ライターの、安っぽいプラスチックの音がかちりと鳴る。「危ないから俺がつける」と言って、先端に火を近づけた。

 ライターの炎が瀬川くんの指先を照らした。少し日焼けした指。爪の形が四角くて、きれいに切りそろえられている。この手がさっき、わたしの手首を掴んだのだ。その記憶がまだ皮膚の上に残っていて、火のついた線香花火を受け取るとき、指が触れそうになって、触れなかった。

 火薬(かやく)に火が移った。小さな光の玉が(ふく)らんで、最初の火花が弾けた。

 ぱち、ぱち。

 線香花火の光は、打ち上げ花火とは全然違う。空を埋めるのではなく、手のひらの中で静かに燃える。世界を照らすのではなく、二人の間だけを照らす光。瀬川くんも自分の一本に火をつけて、二つの線香花火が並んだ。ぱちぱちと散る火花が、暗闇の中で小さな星座のように瞬いていた。

 今だ、と思った。

 今、言わなくてはいけない。火花がいちばん明るいうちに。美咲との約束。線香花火の火が落ちるまでに。

 瀬川くん、わたし――。

「俺、九月に引っ越すんだ」

 先に口を開いたのは、瀬川くんだった。

 声は静かだった。線香花火の()ぜる音のほうが大きいくらいの、静かな声だった。

「親父の転勤で。県外に」

 目の前の線香花火が、牡丹から松葉に変わっていた。火花がぱちぱちと散っている。明るい。明るいのに、その光がわたしの目にうまく届かなかった。

「――え?」

 自分の声が、他人のもののように聞こえた。

「ごめん。もっと早く言えばよかった」

 瀬川くんはわたしのほうを見ていなかった。手元の線香花火を見つめていた。火花の明滅が、彼の横顔を照らしては消し、照らしては消した。

「いつから……いつから、知ってたの」

 声が震えていた。震えていることが自分でわかった。

「七月」

 七月。

「七月から、ずっと?」

 瀬川くんは答えなかった。答えないことが、答えだった。

 七月。夏期講習が始まった月。消しゴムを拾ってもらった日。エアコンの風の話をした日。名前を知った日。あの日から――あの日から全部、瀬川くんは知っていたのだ。

 コンビニのアイスも。公園のベンチも。図書館のパラパラ漫画も。河川敷の夕焼けも。あの「俺さ、」と言いかけてやめた言葉も。全部。全部が、残りの時間だった。

 わたしがこの夏をどれだけ大切に思っていたか、どれだけ永遠に続けばいいと思っていたか、そんなことは関係なく――瀬川くんにとっては最初から、終わりの決まった夏だった。

 いや。違う。違うかもしれない。

 瀬川くんにとっても、大切だったのかもしれない。大切だったから、言えなかったのかもしれない。言ったら終わってしまうから。言わなければ、もう少しだけ、この夏の中にいられるから。

 どちらなのか、わからなかった。わからなくて、聞けなくて、喉の奥が焼けるように熱かった。

 手元の線香花火が、松葉から柳に変わっていた。火花が弱まって、光の糸が重力に従って静かに垂れ下がっている。

 告白の言葉が喉に貼りついていた。好きです。好きでした。どちらを使えばいいのかもわからない。好きだと言ったところで何が変わるのか。明日には彼はいなくなる。もう隣の席はなくなる。「好き」は魔法の言葉ではない。距離を縮めることはできても、距離そのものをなくすことはできない。

 涙がこぼれた。

 止められなかった。声も出さなかったし、顔も覆わなかったけれど、頬を伝う熱い筋を拭うことさえできなかった。線香花火を持つ手がぼやけて、光が(にじ)んだ。

 泣いている自分が、悔しかった。泣くなら言えばいい。言えないなら泣くな。どちらもできないわたしが、どうしようもなく情けなくて、十七歳のわたしは夏の終わりの河川敷で、ただ黙って泣いていた。

 瀬川くんが、鞄の中から何かを取り出した。

 小さく折りたたまれた紙片。大学ノートから丁寧に切り取られた一片。彼はそれを、わたしの空いているほうの手に、そっと乗せた。

「これ……渡そうと思って書いたけど、途中で何書いていいかわかんなくなった」

 一拍、置いて。

「でも、持っててほしい」

 掌の上のメモ用紙は、何度も折りたたまれた跡があって、紙の(かど)がやわらかくなっていた。何度も開いて、読み返して、また折りたたんだのだろう。何を書こうとしたのだろう。何を書いて、消して、結局白紙に戻したのだろう。

 開けなかった。涙で滲んで読めないから、ではなく、今ここで開いてしまったら、何かが本当に終わってしまう気がしたからだ。

 二人の線香花火が、ほとんど同時に柳の段階を終えようとしていた。最後の火球がゆっくりと膨らんで、夜の空気の中でひととき赤く輝いた。

 わたしの線香花火の火球が、落ちた。

 ぽとり、と。地面に小さな赤い点が残って、一瞬だけ光って、すぐに暗闇に溶けた。

 一秒遅れて、瀬川くんの線香花火も落ちた。

 二つの赤い点が、地面の上で並んでいた。それも数秒で消えた。あとには何も残らなかった。火薬の匂いだけが、夏の夜の湿った空気の中にしばらく漂っていた。

 どちらも、何も言わなかった。

 言葉はもう間に合わなかった。線香花火は終わり、夏は終わり、わたしたちの隣り合う時間は終わった。頭上には花火のない空があって、星はひとつも見えなかった。川のほうから生ぬるい風が吹いて、わたしの浴衣の裾を揺らした。

 瀬川くんが、空を見上げていた。わたしも、空を見上げた。

 線香花火の()(がら)を握りしめた指先が、まだほんの少しだけ温かかった。