八月二十日を過ぎた頃から、夏の色が変わり始めた。
蝉の声は相変わらずうるさかったけれど、夕方の風に混じる匂いがどこか違った。草いきれの奥に、かすかに乾いた気配がある。季節が傾きかけている。そのことに気づいたのは、わたしだけではなかったはずだ。
瀬川くんの様子が、少しずつ変わっていった。
はっきりとした変化ではない。隣に座って勉強する時間はいつもと同じだったし、帰り道に並んで歩くことも変わらなかった。ただ、ときどき――本当にときどき、彼がどこか遠いところにいるような気がした。
自習中、シャープペンシルの手が止まっている瞬間が増えた。問題を解いているのではなく、ノートの一点を見つめたまま動かない。わたしが「瀬川くん」と声をかけると、「あ、なに?」と我に返るように瞬きをする。スマホを確認する頻度も増えた。画面を見る目が、メッセージの内容を読んでいるというより、何か重たいものを確認しているように見えた。
聞けなかった。どうしたの、と聞くことが、わたしにはできなかった。
聞けば、答えが返ってくるかもしれない。でもその答えが、わたしの知りたいものではなかったらどうしよう。この夏の、二人の間にあるやわらかな均衡が、たったひと言で崩れてしまうかもしれない。そう思うと、喉の奥で言葉がつかえた。
代わりに、別の不安が静かに育ち始めていた。
夏期講習は八月末で終わる。九月からは、二人はそれぞれの学校に戻る。隣の席で勉強することも、帰り道を一緒に歩くこともなくなる。そのあと、この関係はどうなるのだろう。友達? 友達、でいいのだろうか。わたしは瀬川くんの「友達」でいたいのだろうか。
答えはわかっていた。わかっていたけれど、その先に進む勇気がなかった。
――八月二十八日。
その日の帰り道は、いつもより少し蒸していた。空の低いところに入道雲の名残みたいな雲が横たわっていて、夕日がその腹をだいだい色に染めていた。コンビニでアイスを買い、いつもの公園のベンチに座った。わたしはバニラ、瀬川くんはソーダバー。いつもと同じ。同じはずなのに、瀬川くんのソーダバーの溶けるのが今日はやけに早い気がした。彼が食べることに集中していないからだ。
「藤野さん」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。瀬川くんの声には、いつもの穏やかさの奥に、何かを決めたあとの硬さがあった。
「三十一日、地元で花火大会あるんだけど。――行かない?」
ソーダバーの雫が、彼の指を伝って落ちた。
頭の中が真っ白になった。花火大会。瀬川くんと、花火大会。それは勉強とは関係がない。図書館でも塾でもない場所に、二人で行くということ。
「行く」
声が上擦った。自分でもわかった。瀬川くんが少しだけ――本当に少しだけ、安心したように息を吐いたのが見えた。その吐息にどんな意味があったのか、あの頃のわたしにはわからなかった。
帰り道、いつもの信号で別れたあと、わたしは走った。家まで走って、玄関で靴を脱ぎ散らかして、自分の部屋に飛び込んでベッドにうつ伏せになった。枕に顔を埋めて、声にならない声を上げた。嬉しかった。嬉しくて怖かった。
夜、美咲に電話をした。
「花火大会に誘われた」
美咲は三秒沈黙し、それから悲鳴に近い声を上げた。
「――え、ちょっと待って。それって完全に」
「わかんない。わかんないけど」
「わかるよ。わかるって。栞、告白しなよ」
通話口の向こうで美咲がベッドのスプリングを軋ませている音がした。たぶん座り直したのだろう。
「花火大会で。ちゃんと言いなよ」
「……できるかな」
「できるとかできないとかじゃなくて、言うの。ねえ、線香花火あるでしょ、最後にやるやつ。あれの火が落ちるまでに言えたら勝ちってことにしなよ」
「花火大会だよ? 線香花火なんてないよ」
「例えだよ、例え。期限があったほうがいいタイプでしょ、栞は」
笑った。笑いながら、目の奥がじわりと熱くなった。美咲の言う通りだ。期限がなければ、わたしはいつまでも踏み出せない。夏が終わる前に。線香花火の火が落ちる前に。
「――やってみる」
「よし。で、何着てくの」
「浴衣……着ようかなって」
「いいじゃん! 何色?」
「紺。撫子の柄」
「最高。瀬川くん絶対やられるから」
電話を切ったあと、クローゼットから浴衣を出して広げた。去年の夏祭りで一度だけ着た浴衣。母がこの浴衣を見て、「その柄、お母さんが若い頃に着てたのに似てる」と言っていた。帯は白地に薄い金の模様。鏡の前で合わせてみると、思ったよりも大人びて見えた。こんな自分を、瀬川くんはどう思うだろう。
八月三十一日。
朝から空は高く晴れていた。湿度が少し引いて、夕方には気持ちのいい風が吹くだろうという予報だった。浴衣を着るのに一時間半かかった。帯の結び目が気に入らなくて三度やり直し、髪をどうするかで二十分悩み、最終的に耳の横で簪もどきのピンで留めた。鏡に映る自分が、自分じゃないみたいだった。
待ち合わせは、瀬川くんの最寄り駅の改札前。
瀬川くんは白いシャツに紺のパンツという、いつもとそう変わらない格好で立っていた。でもシャツはいつもと違って、襟のないバンドカラーのもので、袖を肘のあたりまでまくっていた。腕時計をしている手首が、夏の終わりの日焼けで少し褐色になっていた。
人混みの中にいるわたしに気づいて、瀬川くんが片手を上げた。近づくと、彼の目がわずかに見開かれるのがわかった。
「――浴衣、似合うね」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。
心臓が止まりそうだった。止まったほうがいいとさえ思った。そうすれば、この瞬間がいちばんきれいなまま終われるから。
「ありがとう」
自分の声が遠くに聞こえた。
花火大会の会場は、河川敷沿いの広場だった。もう人でいっぱいで、屋台のソースと砂糖の焦げた匂いが風に乗って流れていた。射的、金魚すくい、焼きとうもろこし。提灯の列が川沿いにずっと続いて、まだ明るい空の下で橙色に滲んでいる。
瀬川くんが屋台の前で足を止めた。
「りんご飴、食べる?」
「食べる」
りんご飴を受け取ると、赤い飴が提灯の光を映してつやつやと光っていた。かじると、飴の硬さのすぐ向こうにりんごの酸味がある。甘さと酸っぱさが同時に来て、それは今のわたしの気持ちと似ていた。
七時半。最初の花火が上がった。
腹の底に響くような低い音がして、見上げると、夜空に大輪の菊が開いた。赤、青、金。歓声が上がる。隣を見ると、瀬川くんも空を見上げていた。花火の光が瀬川くんの顔を一瞬だけ照らして、またすぐに闇に戻す。その繰り返しの中で、わたしは彼の横顔を盗み見ては目を逸らし、逸らしては盗み見た。
ひときわ大きな花火が連続で上がったとき、観客がどっと動いた。人波に押されて、わたしはよろけた。
瞬間、手首に指が触れた。
瀬川くんの手だった。わたしの手首を、確かに掴んでいた。強く引き寄せたわけではない。ただ、流されないように。いなくならないように。そっと、でもはっきりと。
「――大丈夫?」
花火の音で、声はほとんど聞こえなかった。でも唇の動きでわかった。わたしはうなずいた。うなずくことしかできなかった。
手首から指が離れたあとも、触れられた場所がずっと熱かった。花火がいくつ上がったか、もう数えていなかった。
蝉の声は相変わらずうるさかったけれど、夕方の風に混じる匂いがどこか違った。草いきれの奥に、かすかに乾いた気配がある。季節が傾きかけている。そのことに気づいたのは、わたしだけではなかったはずだ。
瀬川くんの様子が、少しずつ変わっていった。
はっきりとした変化ではない。隣に座って勉強する時間はいつもと同じだったし、帰り道に並んで歩くことも変わらなかった。ただ、ときどき――本当にときどき、彼がどこか遠いところにいるような気がした。
自習中、シャープペンシルの手が止まっている瞬間が増えた。問題を解いているのではなく、ノートの一点を見つめたまま動かない。わたしが「瀬川くん」と声をかけると、「あ、なに?」と我に返るように瞬きをする。スマホを確認する頻度も増えた。画面を見る目が、メッセージの内容を読んでいるというより、何か重たいものを確認しているように見えた。
聞けなかった。どうしたの、と聞くことが、わたしにはできなかった。
聞けば、答えが返ってくるかもしれない。でもその答えが、わたしの知りたいものではなかったらどうしよう。この夏の、二人の間にあるやわらかな均衡が、たったひと言で崩れてしまうかもしれない。そう思うと、喉の奥で言葉がつかえた。
代わりに、別の不安が静かに育ち始めていた。
夏期講習は八月末で終わる。九月からは、二人はそれぞれの学校に戻る。隣の席で勉強することも、帰り道を一緒に歩くこともなくなる。そのあと、この関係はどうなるのだろう。友達? 友達、でいいのだろうか。わたしは瀬川くんの「友達」でいたいのだろうか。
答えはわかっていた。わかっていたけれど、その先に進む勇気がなかった。
――八月二十八日。
その日の帰り道は、いつもより少し蒸していた。空の低いところに入道雲の名残みたいな雲が横たわっていて、夕日がその腹をだいだい色に染めていた。コンビニでアイスを買い、いつもの公園のベンチに座った。わたしはバニラ、瀬川くんはソーダバー。いつもと同じ。同じはずなのに、瀬川くんのソーダバーの溶けるのが今日はやけに早い気がした。彼が食べることに集中していないからだ。
「藤野さん」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。瀬川くんの声には、いつもの穏やかさの奥に、何かを決めたあとの硬さがあった。
「三十一日、地元で花火大会あるんだけど。――行かない?」
ソーダバーの雫が、彼の指を伝って落ちた。
頭の中が真っ白になった。花火大会。瀬川くんと、花火大会。それは勉強とは関係がない。図書館でも塾でもない場所に、二人で行くということ。
「行く」
声が上擦った。自分でもわかった。瀬川くんが少しだけ――本当に少しだけ、安心したように息を吐いたのが見えた。その吐息にどんな意味があったのか、あの頃のわたしにはわからなかった。
帰り道、いつもの信号で別れたあと、わたしは走った。家まで走って、玄関で靴を脱ぎ散らかして、自分の部屋に飛び込んでベッドにうつ伏せになった。枕に顔を埋めて、声にならない声を上げた。嬉しかった。嬉しくて怖かった。
夜、美咲に電話をした。
「花火大会に誘われた」
美咲は三秒沈黙し、それから悲鳴に近い声を上げた。
「――え、ちょっと待って。それって完全に」
「わかんない。わかんないけど」
「わかるよ。わかるって。栞、告白しなよ」
通話口の向こうで美咲がベッドのスプリングを軋ませている音がした。たぶん座り直したのだろう。
「花火大会で。ちゃんと言いなよ」
「……できるかな」
「できるとかできないとかじゃなくて、言うの。ねえ、線香花火あるでしょ、最後にやるやつ。あれの火が落ちるまでに言えたら勝ちってことにしなよ」
「花火大会だよ? 線香花火なんてないよ」
「例えだよ、例え。期限があったほうがいいタイプでしょ、栞は」
笑った。笑いながら、目の奥がじわりと熱くなった。美咲の言う通りだ。期限がなければ、わたしはいつまでも踏み出せない。夏が終わる前に。線香花火の火が落ちる前に。
「――やってみる」
「よし。で、何着てくの」
「浴衣……着ようかなって」
「いいじゃん! 何色?」
「紺。撫子の柄」
「最高。瀬川くん絶対やられるから」
電話を切ったあと、クローゼットから浴衣を出して広げた。去年の夏祭りで一度だけ着た浴衣。母がこの浴衣を見て、「その柄、お母さんが若い頃に着てたのに似てる」と言っていた。帯は白地に薄い金の模様。鏡の前で合わせてみると、思ったよりも大人びて見えた。こんな自分を、瀬川くんはどう思うだろう。
八月三十一日。
朝から空は高く晴れていた。湿度が少し引いて、夕方には気持ちのいい風が吹くだろうという予報だった。浴衣を着るのに一時間半かかった。帯の結び目が気に入らなくて三度やり直し、髪をどうするかで二十分悩み、最終的に耳の横で簪もどきのピンで留めた。鏡に映る自分が、自分じゃないみたいだった。
待ち合わせは、瀬川くんの最寄り駅の改札前。
瀬川くんは白いシャツに紺のパンツという、いつもとそう変わらない格好で立っていた。でもシャツはいつもと違って、襟のないバンドカラーのもので、袖を肘のあたりまでまくっていた。腕時計をしている手首が、夏の終わりの日焼けで少し褐色になっていた。
人混みの中にいるわたしに気づいて、瀬川くんが片手を上げた。近づくと、彼の目がわずかに見開かれるのがわかった。
「――浴衣、似合うね」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。
心臓が止まりそうだった。止まったほうがいいとさえ思った。そうすれば、この瞬間がいちばんきれいなまま終われるから。
「ありがとう」
自分の声が遠くに聞こえた。
花火大会の会場は、河川敷沿いの広場だった。もう人でいっぱいで、屋台のソースと砂糖の焦げた匂いが風に乗って流れていた。射的、金魚すくい、焼きとうもろこし。提灯の列が川沿いにずっと続いて、まだ明るい空の下で橙色に滲んでいる。
瀬川くんが屋台の前で足を止めた。
「りんご飴、食べる?」
「食べる」
りんご飴を受け取ると、赤い飴が提灯の光を映してつやつやと光っていた。かじると、飴の硬さのすぐ向こうにりんごの酸味がある。甘さと酸っぱさが同時に来て、それは今のわたしの気持ちと似ていた。
七時半。最初の花火が上がった。
腹の底に響くような低い音がして、見上げると、夜空に大輪の菊が開いた。赤、青、金。歓声が上がる。隣を見ると、瀬川くんも空を見上げていた。花火の光が瀬川くんの顔を一瞬だけ照らして、またすぐに闇に戻す。その繰り返しの中で、わたしは彼の横顔を盗み見ては目を逸らし、逸らしては盗み見た。
ひときわ大きな花火が連続で上がったとき、観客がどっと動いた。人波に押されて、わたしはよろけた。
瞬間、手首に指が触れた。
瀬川くんの手だった。わたしの手首を、確かに掴んでいた。強く引き寄せたわけではない。ただ、流されないように。いなくならないように。そっと、でもはっきりと。
「――大丈夫?」
花火の音で、声はほとんど聞こえなかった。でも唇の動きでわかった。わたしはうなずいた。うなずくことしかできなかった。
手首から指が離れたあとも、触れられた場所がずっと熱かった。花火がいくつ上がったか、もう数えていなかった。
