八月に入ると、帰り道を一緒に歩くことは、いつの間にか二人の決まりごとになっていた。
どちらから誘ったわけでもない。自習室を出る時刻がだいたい同じで、自動ドアを出たところで目が合えば、自然と並んで歩き出す。ただそれだけのことだった。ただそれだけのことが、わたしの一日の中心になっていた。朝、自習室に着いてノートを開く瞬間から、もう帰り道のことを考えている自分がいた。
途中のコンビニに寄るのも習慣になった。瀬川くんはいつもソーダ味のアイスバーで、わたしはバニラのカップアイス。「よくそれ飽きないね」と言うと、「藤野さんこそ」と返される。公園のベンチに並んで座り、溶けていくアイスと競争するように食べながら、勉強の愚痴を言い合った。
「数学の確率、まじで意味がわからない」
「確率はパターンだから。場合分けの付箋つくろうか」
「……また付箋」
「俺の付箋、馬鹿にしてるでしょ」
「してない。してないけど、笑ってる」
瀬川くんは「ひどい」と言って、でも怒っていなかった。ソーダバーの最後のひとかけを噛み砕きながら、目を細めて笑っていた。わたしはその横顔を見るたびに、胸のあたりが仄かに軋むのを感じた。心地のいい痛み。痛いのに、もっと見ていたい。
友人の美咲に事が知れたのは、八月の最初の日曜日だった。
ファミレスで美咲と期末の復習をしていたとき、スマホの通知が鳴った。瀬川くんからのメッセージだった。『明日の英語の範囲わかる?』。たったそれだけの事務的な連絡に、わたしは五分かけて返事を打った。一度書いて消し、また書いて消し、絵文字をつけるかどうかで三分迷った。
「栞」
顔を上げると、美咲がドリンクバーのメロンソーダ越しに、にやにやしていた。
「恋の匂いですな~」
「――は?」
「返事打つのに五分かけてる時点で、もう答え出てるから」
否定しようとした。でも言葉が見つからなくて、代わりにメロンソーダのストローを奪ってやった。美咲は「図星だ」と笑い、わたしは顔が熱くなるのをどうすることもできなかった。
恋。自分の気持ちにその名前がついた瞬間、世界の解像度がひとつ上がった気がした。瀬川くんの指先がシャープペンシルを回すとき、消しゴムのかすを手の横で几帳面に集めるとき、帰り道にふと空を見上げるとき――全部がいちいち眩しくて、目が離せない。恋という言葉は、見えていたものを見えなくするのではなく、見えなかったものを見えるようにするのだと知った。
お盆の少し前、瀬川くんが言った。
「明後日、塾休みじゃん。よかったら――うちの近くの図書館、勉強しやすいんだけど、一緒にどう?」
何でもないふうに言っていたけれど、彼の目はノートの上の数式に落ちたままだった。
「行く」
即答した。即答したあとで、心臓がうるさくなった。
前日の夜、わたしは自分の部屋で小さな嵐を起こした。クローゼットの前で服を出しては戻し、出しては鏡の前に当てて首をかしげ、最終的にベッドの上に七着の候補が散乱した。デートではない。勉強だ。わかっている。わかっているのに、ボーダーのTシャツにするか白い襟つきのブラウスにするかで四十分を費やした。結局ブラウスを選んだのは、瀬川くんが塾で初めて話しかけてくれた日に着ていたのがブラウスだったからだ。そんな理由を誰かに知られたら死んでしまうと思った。
翌日。瀬川くんの家の最寄り駅で待ち合わせをして、五分ほど歩いた先にある市立図書館に入った。二階の閲覧室は窓が大きくて、明るいのに静かで、確かに勉強しやすい場所だった。
向かい合わせではなく、横並びに座った。そのことに、たぶんお互いが安堵していた。
午前中は真面目に勉強した。わたしは英語の長文読解、瀬川くんは数学の過去問。時折どちらからともなくノートを覗き合って、「ここ、こうじゃない?」と教え合う時間が心地よかった。瀬川くんは説明するとき、ノートの端に小さな図を描くクセがあった。丁寧な図。付箋と同じ丁寧さだった。
昼食は図書館の隣の公園で、コンビニのおにぎりを食べた。鳩が足元にやって来て、瀬川くんが海苔のかけらをやろうとして、わたしが「たぶんだめだよ」と止めた。そんな、何でもない時間。
事件が起きたのは午後だった。
英語を解く手が止まって、ふと隣に目をやったとき、瀬川くんが数学のノートの端に何かを描いていた。数式ではない。小さな棒人間が、コマ送りのように少しずつポーズを変えている。パラパラ漫画だった。棒人間がジャンプして、着地に失敗して転んで、最後のコマで星が飛び散っている。
わたしは吹き出しそうになった。唇を噛んで耐えた。瀬川くんがこちらの視線に気づいて、ばつが悪そうにノートを隠した。
「……見た?」
「見た」
「忘れて」
「無理」
目を合わせた瞬間、二人同時に噴き出した。声を殺して笑ったけれど、肩が震えるのはどうしようもなかった。瀬川くんが「やばい」と呟いた二秒後、カウンターの奥から司書さんが眼鏡越しにこちらを睨んだ。「しっ」。二人で深く頭を下げ、それでもしばらくは顔を上げるたびに笑いがこみ上げて、参考書で顔を隠した。
あの午後の空気を、わたしはまだ覚えている。窓から差す光に塵が泳いでいたこと。隣から微かに聞こえるシャープペンシルの音。ページをめくるたびにかすめる瀬川くんの腕の輪郭。幸福とはたぶん、こういう、名前をつける間もなく過ぎていく時間のことだ。
図書館を出たのは夕方五時を過ぎた頃だった。
帰り道、近くの河川敷の土手を散歩した。空が橙から紫紺に変わっていく境目の、いちばんきれいな時間帯だった。川面に夕焼けが映って、水がゆるやかに光を運んでいた。
不意に、瀬川くんが足を止めた。
「俺さ、」
わたしも立ち止まる。風が河川敷の草を揺らして、さわさわという音だけが二人の間を流れた。
瀬川くんはわたしのほうを見ていなかった。川の向こう岸を、どこか遠くを見るような目で見つめていた。その横顔に、見たことのない影が差していた。
「……なんでもない」
言いかけた言葉を、彼は飲み込んだ。そしてまた歩き出した。わたしはその背中を半歩遅れて追いかけながら、「なんでもない」の裏側にあるものを聞き返せなかった。聞き返したら、この夏の空気が変わってしまう気がした。
このときのわたしに言ってやりたい。聞きなさい、と。彼が何を言おうとしたのか、ちゃんと聞きなさい。
でも十七歳のわたしは、幸福のまっただ中にいた。まっただ中にいる人間は、それが永遠に続くと思っている。続かないかもしれないという可能性からは、無意識に目を逸らしてしまう。
瀬川くんが振り返った。
「今日はもう、解散にしようか」
いつもの穏やかな声だった。
――気のせいだ、と思った。
その夜、布団に入ってから天井を見つめた。目を閉じると、河川敷の残像がまぶたの裏に浮かんだ。夕焼け。川面の光。瀬川くんの横顔。飲み込まれた言葉。
でもわたしの頭を占めていたのは、不安ではなかった。明日また瀬川くんに会えること。コンビニでアイスを買うこと。隣に座って、同じ冷房の風に当たること。
八月はまだ半分も残っていた。
あの頃のわたしは、夏が終わることを、本当の意味では知らなかった。
どちらから誘ったわけでもない。自習室を出る時刻がだいたい同じで、自動ドアを出たところで目が合えば、自然と並んで歩き出す。ただそれだけのことだった。ただそれだけのことが、わたしの一日の中心になっていた。朝、自習室に着いてノートを開く瞬間から、もう帰り道のことを考えている自分がいた。
途中のコンビニに寄るのも習慣になった。瀬川くんはいつもソーダ味のアイスバーで、わたしはバニラのカップアイス。「よくそれ飽きないね」と言うと、「藤野さんこそ」と返される。公園のベンチに並んで座り、溶けていくアイスと競争するように食べながら、勉強の愚痴を言い合った。
「数学の確率、まじで意味がわからない」
「確率はパターンだから。場合分けの付箋つくろうか」
「……また付箋」
「俺の付箋、馬鹿にしてるでしょ」
「してない。してないけど、笑ってる」
瀬川くんは「ひどい」と言って、でも怒っていなかった。ソーダバーの最後のひとかけを噛み砕きながら、目を細めて笑っていた。わたしはその横顔を見るたびに、胸のあたりが仄かに軋むのを感じた。心地のいい痛み。痛いのに、もっと見ていたい。
友人の美咲に事が知れたのは、八月の最初の日曜日だった。
ファミレスで美咲と期末の復習をしていたとき、スマホの通知が鳴った。瀬川くんからのメッセージだった。『明日の英語の範囲わかる?』。たったそれだけの事務的な連絡に、わたしは五分かけて返事を打った。一度書いて消し、また書いて消し、絵文字をつけるかどうかで三分迷った。
「栞」
顔を上げると、美咲がドリンクバーのメロンソーダ越しに、にやにやしていた。
「恋の匂いですな~」
「――は?」
「返事打つのに五分かけてる時点で、もう答え出てるから」
否定しようとした。でも言葉が見つからなくて、代わりにメロンソーダのストローを奪ってやった。美咲は「図星だ」と笑い、わたしは顔が熱くなるのをどうすることもできなかった。
恋。自分の気持ちにその名前がついた瞬間、世界の解像度がひとつ上がった気がした。瀬川くんの指先がシャープペンシルを回すとき、消しゴムのかすを手の横で几帳面に集めるとき、帰り道にふと空を見上げるとき――全部がいちいち眩しくて、目が離せない。恋という言葉は、見えていたものを見えなくするのではなく、見えなかったものを見えるようにするのだと知った。
お盆の少し前、瀬川くんが言った。
「明後日、塾休みじゃん。よかったら――うちの近くの図書館、勉強しやすいんだけど、一緒にどう?」
何でもないふうに言っていたけれど、彼の目はノートの上の数式に落ちたままだった。
「行く」
即答した。即答したあとで、心臓がうるさくなった。
前日の夜、わたしは自分の部屋で小さな嵐を起こした。クローゼットの前で服を出しては戻し、出しては鏡の前に当てて首をかしげ、最終的にベッドの上に七着の候補が散乱した。デートではない。勉強だ。わかっている。わかっているのに、ボーダーのTシャツにするか白い襟つきのブラウスにするかで四十分を費やした。結局ブラウスを選んだのは、瀬川くんが塾で初めて話しかけてくれた日に着ていたのがブラウスだったからだ。そんな理由を誰かに知られたら死んでしまうと思った。
翌日。瀬川くんの家の最寄り駅で待ち合わせをして、五分ほど歩いた先にある市立図書館に入った。二階の閲覧室は窓が大きくて、明るいのに静かで、確かに勉強しやすい場所だった。
向かい合わせではなく、横並びに座った。そのことに、たぶんお互いが安堵していた。
午前中は真面目に勉強した。わたしは英語の長文読解、瀬川くんは数学の過去問。時折どちらからともなくノートを覗き合って、「ここ、こうじゃない?」と教え合う時間が心地よかった。瀬川くんは説明するとき、ノートの端に小さな図を描くクセがあった。丁寧な図。付箋と同じ丁寧さだった。
昼食は図書館の隣の公園で、コンビニのおにぎりを食べた。鳩が足元にやって来て、瀬川くんが海苔のかけらをやろうとして、わたしが「たぶんだめだよ」と止めた。そんな、何でもない時間。
事件が起きたのは午後だった。
英語を解く手が止まって、ふと隣に目をやったとき、瀬川くんが数学のノートの端に何かを描いていた。数式ではない。小さな棒人間が、コマ送りのように少しずつポーズを変えている。パラパラ漫画だった。棒人間がジャンプして、着地に失敗して転んで、最後のコマで星が飛び散っている。
わたしは吹き出しそうになった。唇を噛んで耐えた。瀬川くんがこちらの視線に気づいて、ばつが悪そうにノートを隠した。
「……見た?」
「見た」
「忘れて」
「無理」
目を合わせた瞬間、二人同時に噴き出した。声を殺して笑ったけれど、肩が震えるのはどうしようもなかった。瀬川くんが「やばい」と呟いた二秒後、カウンターの奥から司書さんが眼鏡越しにこちらを睨んだ。「しっ」。二人で深く頭を下げ、それでもしばらくは顔を上げるたびに笑いがこみ上げて、参考書で顔を隠した。
あの午後の空気を、わたしはまだ覚えている。窓から差す光に塵が泳いでいたこと。隣から微かに聞こえるシャープペンシルの音。ページをめくるたびにかすめる瀬川くんの腕の輪郭。幸福とはたぶん、こういう、名前をつける間もなく過ぎていく時間のことだ。
図書館を出たのは夕方五時を過ぎた頃だった。
帰り道、近くの河川敷の土手を散歩した。空が橙から紫紺に変わっていく境目の、いちばんきれいな時間帯だった。川面に夕焼けが映って、水がゆるやかに光を運んでいた。
不意に、瀬川くんが足を止めた。
「俺さ、」
わたしも立ち止まる。風が河川敷の草を揺らして、さわさわという音だけが二人の間を流れた。
瀬川くんはわたしのほうを見ていなかった。川の向こう岸を、どこか遠くを見るような目で見つめていた。その横顔に、見たことのない影が差していた。
「……なんでもない」
言いかけた言葉を、彼は飲み込んだ。そしてまた歩き出した。わたしはその背中を半歩遅れて追いかけながら、「なんでもない」の裏側にあるものを聞き返せなかった。聞き返したら、この夏の空気が変わってしまう気がした。
このときのわたしに言ってやりたい。聞きなさい、と。彼が何を言おうとしたのか、ちゃんと聞きなさい。
でも十七歳のわたしは、幸福のまっただ中にいた。まっただ中にいる人間は、それが永遠に続くと思っている。続かないかもしれないという可能性からは、無意識に目を逸らしてしまう。
瀬川くんが振り返った。
「今日はもう、解散にしようか」
いつもの穏やかな声だった。
――気のせいだ、と思った。
その夜、布団に入ってから天井を見つめた。目を閉じると、河川敷の残像がまぶたの裏に浮かんだ。夕焼け。川面の光。瀬川くんの横顔。飲み込まれた言葉。
でもわたしの頭を占めていたのは、不安ではなかった。明日また瀬川くんに会えること。コンビニでアイスを買うこと。隣に座って、同じ冷房の風に当たること。
八月はまだ半分も残っていた。
あの頃のわたしは、夏が終わることを、本当の意味では知らなかった。
