七月の夏期講習は、朝九時から始まる。
それでも塾に着く頃には制服のブラウスが背中に貼りつくほどの暑さで、自習室のドアを開けた瞬間に浴びる冷房の風だけが、あの夏の唯一の救いだった。
席は自由だったけれど、わたしはいつも窓際の一番後ろに座っていた。壁に近い席が好きだった。隣に誰も来なければ、参考書を広く開ける。そういう、ささやかな領土意識。
初日、その領土の右隣に、見知らぬ男子が座った。
同じ高校の生徒ではなかった。それはすぐにわかった。うちの学校の指定鞄ではないし、制服のシャツもネクタイも違う。少しだけ長い前髪を耳にかけるクセがあって、シャープペンシルを回す手つきが妙に慣れていた。ずっと同じ一本を使っていて、グリップのゴムがすり減っているのが見えた。
最初の三日間、会話はなかった。
隣にいることを意識してはいた。でもそれは、隣の席の相手に対してごく普通に抱く程度の意識で――少なくとも、わたしはそう思い込もうとしていた。
四日目の朝、わたしが椅子を引いたとき、消しゴムが机の端から転がって彼の足元に落ちた。彼はそれを拾い上げて、何も言わずにわたしの机の上に置いた。「あ、ありがとう」と言うと、彼は小さくうなずいた。それだけだった。それだけだったのに、その日の古文は一行も頭に入らなかった。
次に言葉を交わしたのは、翌週の月曜日だった。エアコンの吹き出し口が両側に寄っているせいで、午前中はちょうどいいのに午後になると底冷えするほど寒くなる。わたしが腕をさすっているのに気づいたのか、彼が小声で言った。
「この席、午後やばいですよね」
敬語だった。同い年くらいに見えるのに、「ですよね」と言った。それがおかしくて、小さく笑ってしまった。
「やばいね。毎日カーディガン持ってくるか迷うもん」
「俺は諦めてタオル掛けてます」
見れば、彼の膝にはたたんだスポーツタオルが載っていた。なんだか可笑しくて、今度は声に出して笑った。彼も笑った。静かに、目を細めて笑う人だった。
彼の名前を知ったのは、その日の帰りがけだった。自習室を出るとき、受付の棚に並んだ出席簿をふと目で追った。わたしの名前の二行上に、角張った筆跡で「瀬川武彦」と書かれていた。
瀬川武彦。
声に出さず、口の中だけで読んだ。名前を知ると、知らなかった頃にはもう戻れない。そのことに、わたしはまだ気づいていなかった。
――七月の後半、古文の参考書を忘れた日があった。
自習の時間、鞄の中を何度探しても見つからない。机の上に数学と英語の問題集だけを並べて、仕方なく数学を解き始めたとき、隣からことり、と音がした。
瀬川くんが、自分の古文の参考書をわたしの机との境目に置いていた。目は自分の数学のノートに落としたまま、何も言わない。
「……いいの?」
「今日は使わないんで」
受け取った参考書は、付箋だらけだった。ピンク、黄色、水色。それぞれの色に意味があるらしく、ピンクには文法事項、黄色には単語、水色には出典の補足がびっしりと書き込まれていた。几帳面という言葉ではまだ足りないような、ひとつひとつの付箋に込められた丁寧さだった。
「付箋、すごいね」
思わず言うと、瀬川くんは一瞬手を止めた。
「あ、これ……恥ずかしいな」
耳の先がうっすら赤くなるのが見えた。そのとき初めて、わたしの心臓が変な脈を打った。自分の鼓動が聞こえる、という表現が比喩ではないことを知った瞬間だった。
参考書を返したのは夕方、自習室を出るときだった。「ありがとう」と差し出すと、「付箋、笑わないでくれてよかった」と、瀬川くんは少し照れたように言った。笑わないよ、と返したかったけれど、なぜか声がうまく出なくて、首を縦に振るだけで精いっぱいだった。
塾の自動ドアを出ると、夕暮れの空は高く焼けていた。
「藤野さん、どっち方面?」
背後から声をかけられて振り返ると、瀬川くんが自転車を押して立っていた。行き先を告げると、「あ、途中まで一緒だ」と彼は言った。
並んで歩き始めた。自転車のタイヤが小石を踏むたびに、かちかちと小さな音がした。蝉がばかみたいに鳴いていた。アスファルトはまだ熱を持っていて、足元からじわじわと夏が這い上がってくるようだった。
信号が赤に変わって、二人とも立ち止まる。
横断歩道の白線の上に、夕日で引き伸ばされた二つの影が並んでいた。わたしの影と、自転車を押した瀬川くんの影。風が吹くと彼の影の裾が少し揺れて、わたしの影にほんの一瞬だけ触れた。
信号が青に変わる。歩き出す。影が離れる。
それだけのことが、どうしてあんなに眩しい記憶として焼きついたのだろう。十年経った今でも、わたしは答えを見つけられずにいる。
それでも塾に着く頃には制服のブラウスが背中に貼りつくほどの暑さで、自習室のドアを開けた瞬間に浴びる冷房の風だけが、あの夏の唯一の救いだった。
席は自由だったけれど、わたしはいつも窓際の一番後ろに座っていた。壁に近い席が好きだった。隣に誰も来なければ、参考書を広く開ける。そういう、ささやかな領土意識。
初日、その領土の右隣に、見知らぬ男子が座った。
同じ高校の生徒ではなかった。それはすぐにわかった。うちの学校の指定鞄ではないし、制服のシャツもネクタイも違う。少しだけ長い前髪を耳にかけるクセがあって、シャープペンシルを回す手つきが妙に慣れていた。ずっと同じ一本を使っていて、グリップのゴムがすり減っているのが見えた。
最初の三日間、会話はなかった。
隣にいることを意識してはいた。でもそれは、隣の席の相手に対してごく普通に抱く程度の意識で――少なくとも、わたしはそう思い込もうとしていた。
四日目の朝、わたしが椅子を引いたとき、消しゴムが机の端から転がって彼の足元に落ちた。彼はそれを拾い上げて、何も言わずにわたしの机の上に置いた。「あ、ありがとう」と言うと、彼は小さくうなずいた。それだけだった。それだけだったのに、その日の古文は一行も頭に入らなかった。
次に言葉を交わしたのは、翌週の月曜日だった。エアコンの吹き出し口が両側に寄っているせいで、午前中はちょうどいいのに午後になると底冷えするほど寒くなる。わたしが腕をさすっているのに気づいたのか、彼が小声で言った。
「この席、午後やばいですよね」
敬語だった。同い年くらいに見えるのに、「ですよね」と言った。それがおかしくて、小さく笑ってしまった。
「やばいね。毎日カーディガン持ってくるか迷うもん」
「俺は諦めてタオル掛けてます」
見れば、彼の膝にはたたんだスポーツタオルが載っていた。なんだか可笑しくて、今度は声に出して笑った。彼も笑った。静かに、目を細めて笑う人だった。
彼の名前を知ったのは、その日の帰りがけだった。自習室を出るとき、受付の棚に並んだ出席簿をふと目で追った。わたしの名前の二行上に、角張った筆跡で「瀬川武彦」と書かれていた。
瀬川武彦。
声に出さず、口の中だけで読んだ。名前を知ると、知らなかった頃にはもう戻れない。そのことに、わたしはまだ気づいていなかった。
――七月の後半、古文の参考書を忘れた日があった。
自習の時間、鞄の中を何度探しても見つからない。机の上に数学と英語の問題集だけを並べて、仕方なく数学を解き始めたとき、隣からことり、と音がした。
瀬川くんが、自分の古文の参考書をわたしの机との境目に置いていた。目は自分の数学のノートに落としたまま、何も言わない。
「……いいの?」
「今日は使わないんで」
受け取った参考書は、付箋だらけだった。ピンク、黄色、水色。それぞれの色に意味があるらしく、ピンクには文法事項、黄色には単語、水色には出典の補足がびっしりと書き込まれていた。几帳面という言葉ではまだ足りないような、ひとつひとつの付箋に込められた丁寧さだった。
「付箋、すごいね」
思わず言うと、瀬川くんは一瞬手を止めた。
「あ、これ……恥ずかしいな」
耳の先がうっすら赤くなるのが見えた。そのとき初めて、わたしの心臓が変な脈を打った。自分の鼓動が聞こえる、という表現が比喩ではないことを知った瞬間だった。
参考書を返したのは夕方、自習室を出るときだった。「ありがとう」と差し出すと、「付箋、笑わないでくれてよかった」と、瀬川くんは少し照れたように言った。笑わないよ、と返したかったけれど、なぜか声がうまく出なくて、首を縦に振るだけで精いっぱいだった。
塾の自動ドアを出ると、夕暮れの空は高く焼けていた。
「藤野さん、どっち方面?」
背後から声をかけられて振り返ると、瀬川くんが自転車を押して立っていた。行き先を告げると、「あ、途中まで一緒だ」と彼は言った。
並んで歩き始めた。自転車のタイヤが小石を踏むたびに、かちかちと小さな音がした。蝉がばかみたいに鳴いていた。アスファルトはまだ熱を持っていて、足元からじわじわと夏が這い上がってくるようだった。
信号が赤に変わって、二人とも立ち止まる。
横断歩道の白線の上に、夕日で引き伸ばされた二つの影が並んでいた。わたしの影と、自転車を押した瀬川くんの影。風が吹くと彼の影の裾が少し揺れて、わたしの影にほんの一瞬だけ触れた。
信号が青に変わる。歩き出す。影が離れる。
それだけのことが、どうしてあんなに眩しい記憶として焼きついたのだろう。十年経った今でも、わたしは答えを見つけられずにいる。
