あの夏の私が、すくえなかったもの

 「ねえ、紗夏(さな)ちゃんは、なんか食べたいのとかないの?」
 会話には入らず、最後尾でぼんやりと屋台を眺めていたところに、不意に声が落ちてきた。
 顔を上げると、隣に立っていたのは、さっきまで誰かと笑っていた男の子のひとり。
 短い黒髪を男らしくセットした彼は、この集団の中ではいちばん誠実そうな見た目をしていた。
 くしゃっと細められた無邪気な笑みに、なんとなく視線を奪われる。
 確か……大吾くん?(ひろ)くんだっけ?
 考えているうちに、人混みのせいか、トンっと肩がぶつかった。
 距離の近さに慣れなくて、視線を落とすと、彼の手には、爽やかさには似合わないたくさんのリングが付いている。
 「え……あ、えっと……」
 言葉がうまく出てこなかった。何か答えなきゃと思うほど、頭の中が真っ白になっていく。
 焼きそば、かき氷、りんご飴。食べたいものを探すように視線だけが屋台の上を滑っていくのに、何も入ってこなかった。
 「紘くんごめんね。紗夏、人見知りなんだ」
 前を歩いていた野々が歩幅を緩めて隣に並ぶ。私の表情を読み取って、笑いながら差し出された助け舟に、ほっと肩の力が抜けた。
 「えーそうなの?緊張なんてしなくていいのに」
 そう言って、紘くんと呼ばれた彼は、ほんのわずかに距離をあけた。
 近すぎると感じていたその隙間に、夜の空気がするりと入り込む。
 「浴衣、おしゃれだね」
 紘くんの声に、前を歩いていた男の子たちも皆が振り返って頷く。
 「さっすが、気付いてくれた?お揃いで買ったんだよね!」
 莉子が嬉しそうにそう言って、くるりと回った。
 黒地に咲く真っ赤な牡丹が、提灯の光を受けて揺れて、その笑顔をいっそう華やかに見せる。
 「それぞれのイメージで選んだの」
 悠里が長い前髪を耳にかけた。青の朝顔が大人っぽく咲いた浴衣は、色気があって悠里にぴったりだ。
 「私がひまわりで、紗夏は桜なんだよね!」
 野々が、私の袖を軽く引いて見せてくれた。
 男子たちは「おお〜」と拍手をして盛り上がる。
 なんだか気恥ずかしくて、私は桜柄の裾をぎゅっと掴んだ。
 「赤似合うじゃん。昔からうるさかったもんな〜」
 先頭で笑っていた男の子が、莉子に向かってくしゃっとした笑顔を見せる。
 明るく見える髪色と耳元のシルバーが、灯りを受けて小さく光った。
 「どういう意味よ!」
 莉子が笑いながら肩を叩く。自然に並ぶふたりの笑顔がキラキラと輝いていて、目を奪われた。
 黒地に映える真っ赤な牡丹。満場一致で莉子のものになったのを思い出して、小さく笑みを落とす。
 「桜、っぽいね」
 すぐ隣から、紘くんが顔を出した。大袈裟に驚いて目を見開くと、紘くんは申し訳なさそうにまた一歩距離を空ける。
 「清楚な感じで、似合ってる」
 柔らかい微笑みに流されて、私は一瞬反応に遅れた。
 少し遅れて、耳の奥がじんわりと熱を持っていく。なんだか恥ずかしくて、耳元にある後れ毛に触れると、頭の上から「あはは。かわいい」と軽い声が落ちてきた。慣れない扱いに、赤く染まっていく頬を隠すように俯いて、野々の腕を掴む。
 黒地に浮かぶ薄いピンクの桜は、四人の中で一番おとなしい色。ぴったりと言われたらそうなのかもしれないけど、桜が似合うというのは、素直に嬉しかった。