あの夏の私が、すくえなかったもの

 「……わかった」 
 少しだけ間を置いて、私は無理やり口角をあげた。
 「別れよう」
 きっとそれはこれ以上ないくらい歪んだ笑顔だったのに、彼もぎこちなく目を細めて笑って見せる。
 「ごめんな。じゃあ……最後に握手」
 差し出された手のひらに、指先が震えた。
 ——ここに、触れたら、本当に終わってしまう。
 そんな辛さが一瞬顔を出したけれど、今はもう、強がる以外の道はなかった。
 そっと重ねると、馴染んでしまった私より温かい温度が、いつものように優しく私の手を握った。
 「今までありがとう」
 その声に、胸の奥がひどく痛んで、あの夏の夜、いちご飴を受け取ったときの笑顔が記憶の中で重なっていく。
 ——嫌だ。
 「……うん」
 ——行かないで。
 「……ありがとう」
 ポロポロと流れ出してしまった涙はもう止められず、私は隠すようにカーテンの裏で背を向けた。
 そんな私に気を遣うように。
 少しずつ、力が抜けていく手のひらを、私は思わず、ぎゅっと握った。
 ——お願い、離さないで。
 この涙が止まるまででもいいから、ここにいて……。
 けれど、一瞬だけ止まった手は、握り返されることはなく、するりと、指の間から抜けていく。 

 遠ざかっていく足音が、完全に消えた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
 喉の奥で詰まっていたものが一気に溢れて、うまく息ができない。
 「……っ」
 誰もいない教室は、ひどく冷たかった。いつの間にかストーブの音すら止まってしまって、体の芯まで冷えていく。

 「紗夏!」
 勢いよく扉が開いて、駆け寄ってきた莉子が、何も聞かずに隣に座る。
 その体温に触れた途端、こらえていたものが、また崩れた。

 初めて掴んだ恋は、あまりにもあっけなく消えていった。
 手の中に残ると思っていた温度はもうどこにもない。ただぽっかりと空いた心に、冷たい風だけが通り抜けていく。
 その隙間を、どうやって埋めればいいのかも、私には分からなかった。

 ——それからしばらくして。
 「先輩とはうまくいかなかったらしいよ」
 そんな噂が耳に入り、馬鹿みたいに、期待をしてしまった日もあった。
 それでも、あの日、すり抜けていった光は、戻ってくることはなかった。

 ——水の中で揺れていた、あの赤い影みたいに。

 きらきらと光って、手を伸ばせば届きそうで。
 手に入れたと思ったら、簡単に、するりと逃げていく。

 それは、切ない夏の恋だった。