あの夏の私が、すくえなかったもの

 その日の出来事を曖昧にして、変わらないように見える毎日は続いた。
 教室では、誰から見ても変わらないカップルのまま。
 それでも埋まらない距離が不安なのに、言葉にした瞬間、全部が壊れてしまいそうで。
 うまく話すこともできないまま、季節だけが進み、教室のストーブに灯りがついた。

 部活がない放課後。いつもなら「帰ろ」と来るはずの彼は、来なかった。
 教室の入口で、集まった男の子と何かを話している。その空気を見た瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
 嫌な予感がして、机の中に手を突っ込んで、教科書を雑にかばんに詰め込む。

 「紗夏」
 教室を出ようと立ち上がったとき、名前を呼ばれて、足が止まる。
 席までかけてきた彼は、笑顔をどこかに追いやって、落ち着いた表情をしていた。
 「話そう」
 低く落ちた声に、視線を落としたまま、小さく答える。
 「今日じゃなきゃ、だめ?」
 「今日がいい」
 逃げられないと分かって、私はぎゅっとかばんの紐を握ってから、それを自分の机の上に戻す。そして、椅子に落ちるように座った。
 周りにいたクラスメイトが、ひとり、またひとりと出ていく。最後に残った紘くんが、静かに扉を閉めた。

 「ずっと考えてたんだけど」
 二人になるのを待っていたように、彼は沈黙を破ってその言葉を落とす。
 私は耐えられず、大きな音を立てて立ち上がり、そのまま近くの窓際のカーテンの中に逃げ込んだ。
 ひらり、と布が揺れて、彼の姿は見えなくなる。窓の外に目を向けると、冬の夕暮れが広がっていた。

 「お願い。聞いて、紗夏」
 カーテンの外から声がする。
 「……嫌だ」
 少しの間のあと、カーテンが引かれて、オレンジ色の教室が目に入った。
 「ごめん」
 目の前に立つ彼は、今まで見たことのないくらい、苦しそうな顔をしていた。
 ——そんな顔するなら、なんで、そんな話をするの?
 そう思ったのに、覚悟を持った表情を見てしまったら、私は結局、黙って聞くことしかできない。

 「……別れよう」

 目を閉じた私に落ちてきた言葉は、それだけだった。
 喉がうまく動かない中、何度か呼吸をして、私はようやく声を出す。
 「……ほんとに、もう、だめだった?」
 声が震える。
 ——私、知ってるの。振られる理由、知ってるんだよ。
 「私じゃ、だめだった……?」
 ——だったらなんで……あの日、告白なんてしたの?
 言えない言葉は心の奥底に黒く深く溜まっていく。
 彼は少しだけ目を伏せて「……ごめん」と言った。
 もっと、何か言ってほしかった。
 私の悪いところでも、なんでもいいから。
 なにか理由があったら、納得できたかもしれないのに。