あの夏の私が、すくえなかったもの

 「けど」
 静かに続いた声に、顔を上げる。
 「俺が今好きなのは、紗夏だよ」
 彼は、まっすぐにこちらを見つめて私の目元を拭った。ぽろっと流れていく涙に困ったように笑う。
 「言ったじゃん、紗夏といるのがいちばん落ち着くって」
 教室での彼と、私の目の前にいる人は、確かに同じ人だけど、どこか違う。
 その両方を知っているのは自分だけだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
 「……うん」
 小さく頷いて、私はそのまま、ぎゅっと抱きついた。自分から腕を回すのは初めてだったけど、さっきまでの不安を押し流すみたいに、強く、強く抱きしめる。
 「大丈夫だって」
 頭の上で、優しい声がして、ぽんぽんとその大きな手のひらが頭に触れた。
 彼の言葉を信じよう。一緒にいられている事実に、自信を持たないといけない。
 涙を拭って顔を上げて「ごめん、もう大丈夫」と微笑むと、彼は安心したように表情を緩めて、そのまま自然に距離を詰めた。
 言葉を挟む隙もなく、唇が重なる。私は、いつものように目を閉じてその一回を受け入れた。
 触れられることに、もう戸惑いはなくて、ただ静かにその温度を感じていた。
 目を開けて離れようとすると、終わるはずだったその距離が、もう一度引き寄せられる。
 包み込むように後頭部に回された手に少しだけ力がこもって、落ちてきた長いキスに呼吸の仕方が分からなくなった。
 私は驚きながらもその新しい感覚を受け止めた。ぎゅっと固く目を閉じて、彼の服の裾を握りしめる。
 触れている場所が増えるほどに、どこか現実感が薄れていった。
 その余韻の中で——突然、背中に冷たい感触が走った。するりと、服の内側に入り込む指先に気づいて、私は驚いて目を見開く。
 「……っ」
 息が詰まって、反射的に体が動いた。強く押し返して、距離が一気に開く。

 彼は目を見開いて、それから視線を逸らしてしまった。私も自分の行動に驚いて、思わず黙り込んでしまう。
 一瞬の沈黙が走って、すぐに彼は口をひらいた。
 「ごめん」
 ーーどうして、謝るの。拒んだのは、私だったのに。
 「映画、見るか」
 何事もなかったみたいに言って、彼はリモコンに手を伸ばす。
 「……うん」
 私には、彼の顔色をうかがいながら、小さく頷くことしかできなかった。
 テレビの光が部屋を照らし始めても、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
 胸の奥に小さなひびが入ったみたいに。近づいたはずの距離が一気に振り出しに戻ってしまったような不安に襲われていた。