あの夏の私が、すくえなかったもの

 「じゃ、部活行ってくる」
 切り替えるように立ち上がった彼は、迷いなく鞄を肩にかける。
 「うん、頑張って」
 座ったまま手を振ると、彼は楽しそうに目を細めて、そのまま一歩近づいた。ほんの一瞬の隙間で、唇に柔らかい温度が触れる。
 「よっしゃ、頑張れる」
 真っ赤になった私をひとしきり眺めて、満足げに笑った彼はそのまま軽い足取りで廊下へ出ていった。

 笑顔になった彼に安心しながら、窓の外に視線を逸らす。夕方の風がカーテンを揺らす音を聞きながら、沈んでいく心には気づかないふりを決めていた。
 「びっくりした。何してんの」
 不意にかけられた声に顔を上げると、将吾が入口で立ち止まってこちらを見ていた。
 「あぁ、ぼーっとしてた」
 軽く眉を下げて笑いながら、借りていた彼の隣の席から立ち上がる。
 自分の席に戻ると、彼も隣の席にやってきた。がさごそと片付けをしている彼の手元をぼんやりと見つめる。
 「……最近、なんか元気なくね?」
 思いがけない言葉に、思わず顔を上げた。
 「え」
 一瞬だけぶつかった視線をすぐに逸らして、誤魔化すように伸びをする。
 「気のせいだよ」
 そう言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。
 「ならいいけど。無理すんなよ」
 その言葉に笑って返しながら、痛む胸には蓋をした。

 再び一人になった教室で、私は深く息を吐き出して机にうつ伏せた。
 夏祭りのあの日から、いろんなところで名前を聞く『バスケ部の華月先輩』。
 一度気になって体育館をのぞいてしまったのが良くなかった。
 オレンジ色の光の中で動き回る、華奢なのに力強いその姿が、やけに眩しくて。
 シュートを決めてハイタッチをするその笑顔が、美しすぎて、同じ空間にいるだけで、呼吸が浅くなった。

 夏祭りで二人の様子を見てから、私の心には暗い影が残り続けている。
 連絡がこない時間が少し長く続くだけで、どうしようもない不安に襲われる。
 こんな気持ちは初めてで、どこに逃げればいいのかも分からなくて、ただ、その感情の中に立ち尽くしていた。