あの夏の私が、すくえなかったもの

 廊下に飛び出して、駅に向かって走り出した。
 スマホを取り出し、常に一番上近くにあるメッセージの名前を開いて、迷うことなく電話をかける。
 《はい》
 しばらくして、驚いたように出た声は、いつもの明るさとは違ってなんだか怖くなった。
 「今、どこにいる?」
 階段を駆け下りながら、莉子にもらった勇気が消えないようになんとか言葉を続ける。
 《上……に、いるけど》
 戸惑いを含む声に足を止めて見上げると、二つ上の踊り場から、こちらを覗き込む姿が見えた。
 スマホを耳に当てた彼は、驚いたようにこちらを見下ろしている。
 「さっきは……」
 息を整える暇もなく、私は言葉を絞り出した。
 「誤魔化して、ごめんなさい」
 手すりをぎゅっと握って、上を見上げたままそう呟く。
 ーーどうしよう、怖い。
 言いたいことはただひとつなのに、震え上がる感情が邪魔をした。視線がぼやけていくのを感じて、私は彼に背を向けるように手すりに背を預けて俯く。
 「自信がなくて……どうしても、信じられなくて」
 なんとか伝えようとするけれど、声は震えを大きくしていくばかりだった。
 「……私も」
 全て飛ばして、せめて結論だけ。頭の中ではそう思うのに、喉が詰まって、続きがなかなか出てこない。
 トントンと、ゆっくり足音が動き出した音がして、私はぎゅっと目を閉じた。
 頬を伝った涙が、感情を押し出すように、勇気をくれる。
 「私も好きです」
 耳元から通話が途切れる音がして、驚いて目を開けると、目の前に彼はいた。
 あっという間に距離が詰まって、強い力で、抱き寄せられる。
 「——っ」
 息が止まって、身体全体が固まってしまったみたいに動かない。
 「まじで嬉しい」
 すぐ近くでこぼれた声は、まっすぐな響きだった。
 ゆっくりと、腕が緩んでいき、私たちの間には少しだけ距離ができる。
 見上げた先には、いつもの笑顔……よりも、どこか恥ずかしそうで、照れたような笑顔があった。ようやく、彼の本音が見えた気がした。
 自分の中にあった不安が、少しずつほどけていく。ふわりと口角があがり、私たちは微笑み合った。