あの夏の私が、すくえなかったもの

 それをきっかけに、私たちの世界は、少しずつ交わり始めた。
 四月中ひとことも話さなかったのが嘘みたいに、彼は休み時間になると私の席にやってきて、気づけば、同じ場所にいる時間が増えていく。初めは落ち着かなくてオドオドしていたのも、不思議と時間が経てば慣れてくるものだった。
 「はい。これノートのお礼」
 後ろから、不意に頬に冷たいものが当たる。びくっとして振り返ると、紙パックのジュースを持った彼が立っていた。
 「いちごミルク……」
 すんなりと受け取った自分に、随分彼の行動にも慣れてきたなと思う。
 校舎の自動販売機の中で、一番お気に入りのジュース。一度外に出た一階の渡り廊下にしかないもの。
 わざわざ言ったことなんてないのに、自然と選んで買ってきてくれる彼に、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
 彼はもう、当たり前みたいに、私の日常の中に入り込んでいて。
 それが現実だと認識する前に、その変化は、さらに一歩進もうとしていた。

 雨降りが続く、六月の下旬。テスト週間を前にした私たちは、教室で四人分の机を寄せていた。
 窓の外では、途切れることなく雨が降っている。頬杖をついたまま、その音をぼんやりと眺めていると、どさっと鈍い音がして、目の前の机に影が落ちた。
 「ごめん、遅れた」
 そう言いながら、向かいの席に腰を下ろしたのは、夏祭りの時少し言葉を交わしていた紘くんだった。背負っていたリュックを容赦無く床に置いて、彼はペラペラとノートを開く。
 クラスは同じだったけど、しっかり話すようになったのは最近のことで、二人きりはまだ少し緊張した。日誌を職員室に届けに行った莉子はまだ帰ってきていない。
 「壱生くんは?」
 心細さに思わずそう聞くと、彼は肩をすくめた。
 「部室の掃除。もうちょいかかるって」
 「そっか……」
 私は先に開いて解いていた数学の問題に視線を落とした。簡単な計算問題にしたはずなのに、思うように集中できなくて、無意味にペンを回してしまう。
 静まり返った空間では、雨の音が大きく聞こえていた。

 「紗夏ちゃんってさ」
 ぽつりと落ちた声に、手が止まる。顔を上げると、彼はシャーペンを置いて、こちらを見ていた。
 「壱生のこと、どう思ってる?」
 唐突な言葉に、思考が一瞬止まった。反射的に周りを見渡すと、教室にはもう誰も残っていなくて、ほんの少しだけ安心する。
 「なに、急に……」
 とりあえず平静を取り繕って返すと、彼は軽く笑った。
 「はは、まじか」
 「え……なに」
 「顔、めっちゃ赤いから」
 そう言われて、私は慌てて頬に手を当てる。わかりやすいくらいに熱いその頬に、私自身も驚いて、そのまま両手で顔を覆って俯いた。