あの夏の私が、すくえなかったもの

 「付き合ってすぐ、来たよね」
 隣を歩く彼が少しだけ目を細めた。
 提灯の灯りが夜の空気にやわらかく滲み、夜とは思えないくらいの熱い空気が肌を掠める。焼けた醤油の匂いで満ちた屋台の通りは、懐かしい思い出の景色だった。
 「美味しそう。あの頃は、イカ焼きとか食べられなかったんだよね。可愛子ぶってて」
 「あんな可愛かった子、どこいっちゃったんだろうね」
 冗談めいた優しい声で、彼はくすっと笑って、軽く肩を寄せてくる。
 ぎゅっと握られた手の形は、私の形に馴染んで居心地が良かった。左手の薬指に灯る慣れない感触が、静かに胸の奥を温める。
 二十六歳になったこの夏。私は結婚という節目を迎えた。
 肩が触れる距離も、指先が重なる瞬間も、いちいち意識しなくていいくらい、自然になった彼と。
 イカ焼きを頬張ってソースで汚れた指先を見せても、彼はただ笑ってそれを拭いてくれる。
 無理をしなくていい。ありのままの自分でいても、ちゃんと好きでいてくれる。
 穏やかすぎて拍子抜けするくらいの時間を重ねて、私は、この先もこの人と生きていくことを選んだ。

 屋台の並ぶ道を歩いていると、夜風に揺れる「金魚すくい」と書かれた布に、ふと視線が引っかかった。
 足を止めると、水面に向かって、小さな男の子と女の子が身を乗り出していた。
 男の子が、そっとポイを差し入れると、逃げ場をなくした小さな金魚が、ひとつ、またひとつと網の上に乗った。
 「やった!」
 水を切る軽い音と一緒に、透き通るような赤が、すくい上げられる。
 女の子は、水の底をゆっくり泳ぐ、ひときわ大きな黒いデメキンを、まっすぐ見つめていた。
 息を詰めるようにして、ポイを沈めたその瞬間——白い紙はあっけなく破れて、黒い影はすいすいと泳いでいく。
 「あ……」
 水の上に落ちた小さくこぼれた声が、やけに鮮明に、耳に残った。
 懐かしい痛みが胸の奥をかすめて、私はぎゅっと、彼の手のひらを握りしめる。
 どこにも逃げていかない温かい手のひらに、心がじんわりと落ち着いた。

 水の中で揺れる黒い影を見た瞬間、思い出してしまった。
 きっと最初から、掬えないものだった。
 懐かしい、あの恋を。