翌日の月曜日は雨だった。季節が春から初夏に向かっていく季節のせいもあるけど、なんでか結構な確率で雨になる気がする。
(みんなの憂鬱さが天に昇って雨雲でも作っているのかも)
そんなどうでもいいことを想いつつ、教室に向かった。扉の前に差しかかるのに歩みが鈍る。赤桐にどんな顔見せればいいんだろって、そんなことばっかり考えてた。
『夕雨、ファイト』
後ろでクミの声がした。俺は突き動かされるみたいに一歩踏み出す。
「うげっ」
気を抜いてたから小さく声を上げてしまった。また教室にオバケが数体増えている。ちょっとグロめの赤黒っぽい色みのデロデロが左奥にいた気がするけど、流石に見たくなくて視界に入れないように注意した。
(おい! クミ、視えてる? オバケが増えてんだけど!)
『なんかお仲間増えてるわね……。このクラスあれ? オバケ溜まりやすい?』
自分の事を棚に上げてるクミがふわーっと別のオバケに近づいていくけど、会社員っぽいおばさんは退かないでいる。オバケ同士もレイヤーが違うと意思疎通、出来んみたいってクミが言ってたけどその通りなのかもしれない。
『まあ、悪いものじゃなさそうだから、なんかあったら私がどうにか話しかけてみる。おっは~』
相変わらずのクミのふざけたノリにほっとする。
(大丈夫だ。ここは俺たちの教室。赤桐もいてくれる。俺たちの居場所だ。生きてる人間が何より強い!)
大きく息を吸って吐く、なんとか恐怖が和らいでいった。
「夕雨」
考え事中に後ろから声をかけられて、ものすごく無防備に振り返ったら赤桐がいた。
「お、おはよう」
「おはよう。顔色が……」
差し出した手を赤桐が寸前でぐっと握ると引っ込めて行った。
「あんま、世話焼き過ぎるとうぜぇよな」
自分を嘲笑うみたいに、らしくなく唇を釣り上げてる。
「赤桐……、あのさ、あの……」
「赤桐おはよう!」
「おはよ」
後ろから来たクラスメイトが赤桐に声をかける。そっけない返事を返した赤桐と連れだって、そのまま二人は席へと移動していった。
今までの俺だったら、ここで引いてしまってたかもしれない。勇気を振り絞るぐらいなら事なかれに徹して、変化を好まなかったかもしれない。俺は赤桐を後ろから追いかけて、あいつの手首をぐっと引っ張った。掌の中で、石が擦れあう音が返ってきた。
(あ……、こいつもつけてるんだ)
お揃いで作ったブレスレット。俺も今、逆の手首に今付けている。
(俺はお前と仲直りしたい。お前も同じ気持ちだって信じてる)
「赤桐!」
「……なんだ?」
無表情だと、厳ついイケメン。デカくてちょっと強面。上から見下ろされたら圧が凄いし、今までの俺なら、ここで引いてただろう。
でも俺は知ってる。お前はすごく優しい奴だ。俺がきちんと話をしようとしたら、黙って粘り強く、最後まで俺の話を聞いてくれる。俺の出方を我慢強く待ってくれる、そういうやつなんだ。
(それできっと、俺はお前の、そういうところが好きなんだ)
「今日話したいことがある。お前が部活終わるまで、待ってるから。もし今日が駄目なら明日、明日が駄目なら、お前の都合がいいタイミングを教えてくれ」
今もし断られたとしても、今度は何度でも俺から赤桐に向かっていきたいって思った。俺なりの気迫?が伝わったのか、赤桐が俺の腕を振り払うことはなかった。逆の手で顎に触れながら俺の顔をじっと見てる。赤桐がどう出るのか分からない。胸の鼓動がど、ど、ど、と静かに速さを増す。
赤桐は思案気に長く黙った後、静かに頷いた。
「今日で、問題ない。終わるまで近くで待っていてくれ」
※※※
今日は一日雨だから、赤桐もトレーニングルームで筋トレをしているはずだ。放課後、教室に残るのが手っ取り早いんだけど、いつもながらまたオバケをどうにかしないといけないところから始めるのは面倒だ。
図書室で一時間ぐらい時間潰してから、駅前のファミレスで赤桐待ってようかな。そう思ったんだけど、なんか落ち着かない。全てを告白するって決めた以上、落ち着いて話が出来て学校の奴らが誰もいない場所がいい。
(断られたらどうしよって思って、昨日は店決めるまで気が回らなかったんだよな……)
心当たりの場所までの大体の行き方を検索して、スマホをポケットにしまう。靴箱からスニーカーを取り出していたら、『ちょっと! 夕雨!』とクミが横で騒いでる。
「なんだよ、どうした……、えっ?」
そこには部活に行ったはずの赤桐が荷物も持った状態で立っていた。
「赤桐、お前部活は? これから?」
授業が終わると同時にいつも通りさっさと部活に行ってしまったと思っていたけど、なんでここにいるんだろう?
「顧問に事情を話してきた。行くぞ」
「え? 事情って……、お前、何話したんだよ」
ふざけた様子が一片も見当たらぬすんとした表情で、赤桐も俺の隣に並んで、靴を履き替えるともう一度俺に向かって向き直った。
「大切な人と大事な話をしなければならない。それが終わるまではパフォーマンスにも影響が出ると顧問に伝えたら、その問題を解消して来いと言われた」
「はっ、はは……、マジか」
普段から信用の厚い赤桐が、この勝負に挑む武士みたいな顔で伝えたんなら、きっと顧問も真摯に受け止めたんだなと想像がついた。
『大葵君……、男前すぎる』
「いこうか」
「おう。行こう」
とはいえ誘ったのは俺なので、俺が赤桐を追い抜いて前を歩いた。雨の中、傘を差して歩く。隣同士になったり、狭い道ではたまに前後に歩いたり。
学校がある私鉄の駅近辺では、部活を休んで俺と出歩いている赤桐は目立つに決まっている。だから俺は三十分ほど歩くとつく、JRの駅を目指した。
もくもくと歩く。たまに前をクミが歩いている。雨の中では透けた身体が一層儚くて、雨の雫が落ちていくのがそのまま見える。
(俺の為に、あの赤桐が部活を休んだとか……。すごくないか?)
だが赤桐はいつも以上に無口で、どんな気持ちで俺についてきてくれているのか気持ちが図れない。心細くなったのは気候のせいで、赤桐が一言も発しないせいだとは思いたくない。折角振り絞った勇気を散らしたくない。
結構な距離を歩いているのに、赤桐はどこに行くのか俺に確認をしなかった。
(赤桐らしいな。……俺のこと、信頼してくれてるんだ)
鈍色の空に時折強くなる雨脚、冷たく吹き寄せる風がちょっとだけ興奮した頬に冷たい。
(こいつ、今、俺が差しだしたら毒でも飲み干すんだろうか……)
自分で想像して自分で震えた。『愛は愚か者にとっては知恵であり、賢者にとっては愚行である』。いつかテキストで見かけたフレーズが頭をよぎった。
(恋って……、恐ろしいな)
本当はどこか公園とか周りに気兼ねしない場所で話がしたかったけど、雨の日振りだからそれもできない。俺の目当ての場所は駅に直結した飲食のテナントも入った複合ビルだった。前に学校帰りにどこまで歩けるか一人で探索をして、このビルに行きついたことがある。基本的にはオフィスビルだから、学生の姿は少ない。広々として綺麗で、程よい喧騒と落ち着いた雰囲気が全体に漂っている。
地下一階から二階まで、吹き抜けになっている広々とした作りで、開放感がある。無料の休憩スペースも沢山あって、前に来た時、音楽を聴きながら心置きなく休憩できた。
「カフェでテイクアウトして、あっちにいかない?」
頷く赤桐を促して、カフェの中に敢えて入らずに、半円型のアトリウムを見下ろせる、座席の並んだギャラリースペースまで歩いて来た。そこには雨に濡れる庭を見渡せる窓辺にカウンターが並び、一人掛けの椅子が沢山ある。俺達は椅子を少し動かして、隣同士に腰かけた。
雨足は増々強くなり窓に打ち付けるほどだけど、ガラスを隔てたこちら側は穏やかな昼白色の光に満たされている。
程よく耳に入る騒めき、雨音、カフェオレの香り。横殴りの雨の中を歩いてきたから、しっとり濡れた前髪や袖が冷たくて、俺は小さくクシャミをした。
「うわっ」
すかさず、赤桐がリュックの中からスポーツタオルを取り出して、俺に被せてよこす。
「今日は使ってないから、綺麗だぞ。風邪ひくなよ」
「……ありがと」
俺は温かいカフェオレを啜る。クミは赤桐ごしにカウンターに腰をかけて、俺たちを心配そうに見下ろしている。少しの沈黙の後、二人同時に口を開いた。
「「あの(な)」」
「あ、大葵から、喋る?」
「いや、お前からで」
「それじゃあ、あの……」
俺はわざとタオルをフードみたいに目深に被った。そうして射抜かれると心を乱され落ち着けなくなる、赤桐の強い真っすぐな視線から身を守る。
「俺さ、今までお前に黙ったことがあるんだ」
「そうか」
「あのさ、信じてもらえないかもしれないんだけど……」
あくまでも穏やかで静かな赤桐の返事、俺は被っていたタオルの両端をぎゅうっと掴んだ。
「俺、実はオバケを視ることができるんだ」
たっぷりの沈黙。窓に雨が打ち付ける音がする。いつも率直に返事をする赤桐なのに、この時ばかりは違っていた。
「夕雨、こっちを向いてくれ。顔を見て話そう」
恐る恐る横を向いたら、被っていたタオルをゆっくりと捲られた。赤桐の目元は緩んでいる。いつも俺の事を気遣う時にするあの表情だ。鼻の奥がつんっと痛くなる。赤桐の労わりに、勇気が持てた。
「……あのな。俺さあ。今のクラスの教室で、頻繁にオバケが視えるようになって、それで度々体調崩してた。迷惑かけてごめん」
ほんのわずかな沈黙の後、赤桐は静かに相槌を打ってくれた。
「そうだったんだな」
「うん。それで……、その中の一人のオバケと話をするようになって。あの、女の子なんだけど」
「女の子?」
「うん、その子に言われて……、俺……」
赤桐から強くぐっと両肩を掴まれて、眉をひそめた状態で、顔を間近に覗き込まれた。
「その子の事が、好きなのか?」
「はい?」
「まさか、死んで一緒になろうとしたりしてないよな?」
「……えっ、ええ?」
根が真面目な人間の発想はぶっ飛びすぎていて、俺が言葉を失っていたら、赤桐に両頬をがっと掌で包まれた。
「絶対に、させない。俺のがいいだろ?」
「はあああ?」
「もし、俺を置いて先に死んだりしたら、お前のことを追いかけて逝くからな」
赤桐が眦を吊り上げ、瞳孔がくうっと開いた。瞳の奥がマジだったです、はい。
『大葵ぃぃぃぃ!!! ヤバすぎるうぅ! 夕雨逃げてぇ』
騒ぎながらもどこか喜びを隠せないクミの声に、俺は思わず「クミ、うるさいって!」といつもの調子で叫んでしまった。
「クミ? そのオバケの名前か?」
「怖い声出さないでくれって。クミは俺より、お前の事の方が好きなんだから」
「……え?」
『なにこの空間、カオスなんですけど!』
クミはひょいっとカウンターから降りて、赤桐の隣に立つと頭をナデナデしてた。
『大葵きゅーん。そんなに怒らなくても盗ったりしませんよ~』
「今、お前の隣に立ってる」
「……」
赤桐は窓とは逆を向いた。屈んだクミの胸の辺りに顔が重なってしまったから、俺はムッとして大葵の顔をこっちに向けた。
「あのさ、ちゃんと話すからちゃんと聞いてくれ。俺はクミに頼まれて、お前とデートしてその……、観覧車の上でキスをしてくれって頼まれたんだ」
ぐっと、赤桐が唇を寄り引き結んだ。何か言いたげな顔をしたけど、俺が最後まで話すのを待ってくれているんだと分かった。
「クミが好きな人に似ているお前と疑似デートが出来たら成仏できるんじゃないかっていったから、俺は安易に引き受けてしまった。空の上で成仏させてやるから、ちゃんと天国行くんだぞってとかクミと約束しちゃって……。結果お前を騙すようなことになってしまった。本当に、ごめん……」
「そうだったのか……。それで土壇場で、俺とのキスは無理だって思ったんだな」
呟いた赤桐の声が少し覇気を失い、いつもより苦々しさが滲んでる。俺は堪らない気持ちになった。
「ごめん……。本当にごめん」
「いや。いいんだ。お前の話はわかった」
「わかって、くれたの?」
「ああ。だからもう一度だけ、俺の話も聞いてくれないか? 俺はそんなに口が回るほうじゃないから、お前に気持ちが上手く伝えられなかったんじゃないかって、一晩中考えた」
「……うん」
俺は椅子を持ち上げて、赤桐の方に身体の大部分が向くように角度を変える。長い赤桐の脚にこちらの脚もぶつかるぐらいに近づいた。
「どうぞ……」
「俺は、お前に不思議な力があるって知ってた」
「え……、なんで? どうして分かった?」
『ええ! 嘘でしょ!』
叫んだクミがうるさくて、俺は人差し指を唇に立てて、クミを静止した。赤桐がその仕草に気づいて、俺の肩を抱いて自分の方により引き寄せた。
『ヤキモチ焼き過ぎでしょ……。ひくわ……』
(やっぱり様子がおかしかったから? 急にぶっ倒れたりとか、クミと話すとこ聞かれたとか? もっとありえない行動してた?)
戸惑う俺の目を真っすぐに見て、赤桐が再び口を開く。
「お前が俺にストラップをくれた日……。あの日の事、憶えているか?」
俺のことを赤桐が好きになってくれたと言った日の事だ。ちょっとだけ口元がにやけながら、俺は頷いた。
「うん。たしか……。バイト先の隣の公園いったら、お前がいた」
あの日はシフトに入る前にアイスが無性に食べたくなって、手に持ってベンチに行ったら、こいつが先に座ってたんだっけ。なんか中途半端な時間帯だったな。ジャージ着てたし、こいつ今日部活じゃなかったのかな?って思ったっけ。その上首輪をした猫を連れてたから、ああ、こいつんち近所なんだなあって思ったような?
「お前に声をかけられた時、本当は最悪だって思ったんだ」
「え……」
ドキッとする言葉に俺が視線を泳がせると、赤桐は宥めるように、俺の肩をさすった。
「あの頃、新人戦では入賞したけど、その後メンタルがやられて記録も伸び悩んでボロボロだった。練習に行く気も失せて、街をうろついて、公園でこれからどうしようか、途方に暮れて色々考えてた。もしかしたらもう陸上も辞めた方がいいのかもしれないとまで思ってたな。だから知り合いに会いたくなかった」
「そうだったんだ……」
(大葵にそんな時があったんだ……)
感情が表に出にくい分、赤桐は自分の中にため込んで一人で抱え込んでしまう性格なのかもしれない。
今思い返すと確かにあの時の赤桐、様子がおかしかったかもと思う。体育の時、廊下ですれ違う時、友達と歩いているこいつは迷いなんて何一つありませんって顔をして、いつだって自信に満ち溢れて見えた。
だけどあの時、夕暮れか近づいてきて、金木犀がほろほろ落ちてたベンチで赤桐は項垂れてるように見えた。もしや部活でなんかあったのかと思ったけど、メンタル盤石なこいつに限って落ち込むとも思えず、秋の感傷的な夕方がそんな気分にさせているだけだと思ってた。
「……俺もしかしてあの時、お前に余計なこととか言ってなかった? だとしたら、ごめんな」
「いや……。お前は覚えてないかもしれないけど。俺にアイス食べるかって半分に割って渡してくれたよな」
「あー、そうだったかも。半分じゃなくて一個奢れよって感じだな」
茶化して笑ったら、赤桐も少しだけ口角を上げた。
アイス、半分にちぎって渡せるタイプの奴だったんだよ。ホワイトサワー味は爽やかで甘酸っぱい、俺が一番好きな味だ。
「隣でアイスを食べ始めたお前に、俺は『大切にしてきたことが二つあるとして、一方を選んだことで、もう一方を蔑ろにせざるを得なくなり、取り返しがつかない場合、お前ならどうする?』って聞いたんだ」
「そうだったっけ……」
「それでお前はちょっと考えてからこう言った。『どうにもできない。過去は変えられない。痛みを抱えて生きるしかない』って……。それを聞いて俺は気づかされた。俺は過去の痛みと向き合い続ける覚悟が足りなかったと、自分自身を責め続けていたけど、実際に強い痛みを抱えた時、その痛みに寄り添える柔軟性に欠けていたんだって」
「……」
「それから俺にこうも言ってくれたよな。『大切なものが傷ついたってことは、お前も少なからず傷ついたんだよな? 大丈夫か?』って。その一言でお前は弱いと自分を責め続けていた、俺の傷を照らして、慰めてくれた」
その時の色々な記憶が蘇る。こいつの膝から降りた白猫が俺の方を向いて『にゃーん』って鳴いた。真ん丸の目をした可愛い子だ。まるでご主人を慰めてやってくれ、ってお願いされてるみたいに聞こえたんだ。
「お前がなんか辛そうな顔してたから『まあ、元気出しなよ』とか、そんな軽い調子で言ったのかも。ごめんな。赤桐が元気出すといいなって思ったのは覚えてるよ。それで、お前に渡したストラップ。ちょうど持ってたから、これあげたらいいなって思ったんだよ。お前が連れてた首輪した白猫がさ、目の色もちょうどオッドアイだったろ? そっくりだったから。『古来より金目銀目の猫は幸福を招く縁起のいい猫』って説明書き読み上げたよな」
「ああ」
「お前にはこの子がついてるから絶対大丈夫……、絶対ラッキー! いい方向に進めるよ、とか言っちゃったかも。すまん。なんかお前がどんだけ落ち込んでるのかもわからずに、勝手なこと言ってたかも」
「いや……。救われたよ。あの日俺が落ち込んでたのは新人戦に行くことを選んで、なにより大切で大好きだった飼い猫の死に目に会えなかったことだ」
『えっ!』
クミも悲鳴を上げてる。ぞく、どき、両方一遍に襲ってきて鳥肌がぶわっと二の腕に立った。
「え……、ウソだろ……。だってあの時、白猫が……」
夕暮れ時に白い被毛が輝くように視えていた。ほっそり華奢な可愛らしい猫。
「俺はお前に猫を飼っていると話した覚えはない。だけどお前は目の色が違う白猫とまで言い当てた。あの時はもう、チロは死んでたんだ」
赤桐の膝から降りた後も、こいつの足元にすり寄って愛おしそうに『にゃーん』と鳴き、長い尻尾を優雅に振っていた。あの猫は……。
「新人戦の前の日から、チロの容体が良くなくて、家族からは俺は予定通り大会に出る様にって言われて、俺も自分で決めて参加した。チロの為にも頑張ろうって、必死で走って、結果も出せた。でも……」
ぐっと拳を握った赤桐は、苦々しげな表情を見せた後、悔しそうに眉根を寄せた。
「どこかで、チロは俺の帰りを待っていてくれるんじゃないかって思ってたんだ。浅はかだったよ……。家に帰って大好きな毛布に包まったチロはもう、冷たくなってて……。俺は死ぬほど後悔した」
もう駄目だった。辛いのは赤桐なのに、涙がこみ上げてきて、誤魔化せない程にみるみる俺の視界を歪ませた。
「チロは、最初は祖母ちゃんの飼い猫だったんだ。祖母ちゃんが入院してうちにチロが来た。俺は祖母ちゃんに亡くなる前に『チロを俺が最後まで面倒見る。絶対に寂しい思いをさせない』そう約束したのに、守れなかった」
「……」
動揺とは無縁な赤桐が見せる、哀し気に歪んだ表情に言葉が出ない。
「……本当は死に際まで、チロについていてあげたかった。祖母ちゃんとの約束も守りたかった。あの時、試合なんてでないで家にいなさいって、なんで止めてくれなかったんだって、家族に当たりそうになって」
「大葵……」
「でもそんなこと、絶対に言えるはずない。俺の代わりに看取ってくれたんだ。俺が自分で試合に出るって決めたんだ。だから傷ついていることを、家族にも、誰にも悟られたくない。我慢して、平静を保って、いつも通りであろうって……。だけどよく眠れなくなって、結局タイムに影響が出始めた。情けないよな?」
俺は堪らなくなって、赤桐の広い胸に飛び込んで、腕を回してぎゅうっと力の限り抱きしめた。
「情けなくなんてないよ! 大葵は誰よりも強くて誰よりも動じない。だけど、とても心が優しくて、繊細だよね。大葵が俺に触れてくれる手は、なんだかんだ言っていつもすごく優しい。俺は分かるよ。だから苦しんだんだろ」
赤桐も俺の背中に長い腕を回して、俺はすっぽりとあいつの腕の中に抱きかかえられた。あったかくて、シトラス系のいい匂いがして、ほっとして心地よいのになぜか泣きたくなる。
「ごめっ……、あの時もっと色々お前にしてあげられたら良かったのに!」
涙が後から後から零れて、鼻をすすっていたら赤桐が俺の頭を撫ぜてくれた。
「いや、夕雨があの時も今も、こうして励まして傍にいてくれるから、俺はもう大丈夫だ」
「こんな俺でも、お前の役に立てるのか?」
「当然だろ。お前のその力のお陰で、俺はチロがまだ俺の傍にいるって知って、……申し訳なく思った。俺が迷っているから、チロが天国にも行けてないって。だからもう、ちゃんと前を向こうって思ったんだ。チロがいなくなってどんなに寂しくても、それが自分がした選択に責任を持つことだって思った。吹っ切れてから、タイムも順調に上がってきた。きっかけをくれたのはお前だよ。夕雨」
「……俺の、お陰?」
「そうだ。お前はなんで自分なんかに構うんだっていうけど、俺にとってはお前は迷いを断ち切ってくれるきっかけをくれた恩人だ。それと……」
抱きしめていた腕を解かれて、俺はおずおずと赤桐の顔を見上げた。窓の外は夕立のような強い雨脚が緩まり、雲の切れ間から光が差してきたようだ。眩い光に俺は目をしばたたいた。
「俺もお前に話していなかったことがあるな。お前とこうしていたら、もしかしたらまたお前を通じてまたチロに会えるんじゃないかと思ったんだ」
「そうだったんだ」
俺はきょろきょろと周りを見渡す。あの日の白い猫はどこにもいない。カウンターの下を覗き込んで周りを探しているクミも首を振っていた。
「チロはすごくヤキモチ焼きだから、俺がもう一匹家にいる、黒いオス猫に餌を上げたり構ったりすると寄ってきて邪魔をするんだ。だから俺が夕雨の事を沢山構うから、邪魔しに来るんじゃないかと思ってたんだ」
「あー。だから俺にべたべたしてきたんだ。そういうことか」
「まあ……。そればっかりじゃないんだけどな」
そう言いながら、赤桐はまた指先で優しく俺の額にかかった髪を払った。
「単純に、俺はお前に触れたくなる」
赤桐の甘い仕草と切ない思い。そのどちらにも触れて、胸がぎゅうっとなる。
「俺の力で、大葵をもう一度チロに会わせてあげられたら良かったのにな……。そしたらこの無駄な力にも何か意味があったかもしれないのに」
「十分意味があったよ。でももう、俺の傍にはチロはいないんだろ?」
「いないよ。居たら大葵はチロに何て言ってあげたかった?」
「最後までついていてあげられなくて、ごめんってちゃんと謝りたかった」
「そっか。でもきっとね、今の大葵の姿を見たら、チロはもう自分は天国に行ってもいいって思ったんだと思うよ」
「……そうか、ありがとう夕雨」
大葵はそう言って、俺をやんわり抱きしめたまま空を見上げてた。雨がやんで早く動く白いふわふわの雲が、その奥に見える青空の前を横切っていった。
「いつかまた、俺のところに来てほしいな」
「そうだね……。いつかまた。来てくれるといいね」
周りが明るくなったら、公共の場で抱き合っていたことに俺は猛烈に恥ずかしくなってしまった。
「か、カフェオレ飲もうかな。お腹もすいたし……」
赤桐の腕から身を起こしたら、ちょうど『ぐーっ』とお腹までなってしまった。赤桐も俺から手を離してスマホを手にした。
「ちょっと待ってろ、さっきの店で何か買ってくる。何がいい?」
「あ……。なんにしよ」
(な、なんで俺ナチュラルにあいつに抱きしめられてたんだ……)
大体話はこれで良かったんだろうか? メニューを探してくれている赤桐の横顔は心なしか晴れ晴れとして見えた。
「なあ、大葵」
「んっ、なんだ?」
「俺の話の続きなんだけど」
「ああ」
「教室のオバケ、柳木久美子って名前なんだけど、どうも俺の父さんの事好きだったらしいんだよね」
「……はあ?」
流石の大葵もスマホを持ったまま固まってる。
「かいつまんで話すと……」
俺はクミが教室に現れるまでの話を事細かく話していった。クミが隣で大げさに注釈をつけるものだから、無駄に話が長くなってしまった。
『ついに大葵と話ができて嬉しいんだもん!』
「なんか、お前と話ができて嬉しいって言ってる」
「そうか」
クミは赤桐の隣に腕組みして立って、なんでか口を尖らせて、ちょっとだけむすっとしてる。
『……知ってはいたんだけど、大葵ってさ。夕雨と夕雨以外だとあからさまに態度違い過ぎるよね』
「そうかなあ?」
「なんて言ってるんだ?」
そのまんま伝えるのが恥ずかしくて、「いや、大したことじゃない」って言葉を濁した。
「それでさ。俺、名古屋に単身赴任してる父さんのところに行ってクミのこと聞いてきたいって思ってるんだ」
「俺も一緒に行く」
すぐさま答えた赤桐に、俺は顔がにやけるのを抑えられなかった。
「お前ならそういうんじゃないかって思ってた。でも、今週の金曜の夜に行こうと思ってるんだ。先生たちの都合で四時間授業じゃん? お金もかかるし、お前は部活があるだろうからまた休ませるわけには……」
「土曜日は部活があるが、金曜は同じ理由で全部活休業だ」
「そう……、なんだ。」
まるでそこで動けって、神様が言ってるみたいに俺には感じた。
「なあ、クミは今どこに立ってる?」
「ええと、俺の隣」
「そうか」
赤桐が視えないはずのクミの姿を探して、少しだけ頭を上へと傾けた。クミが動いていないにもかかわらず、それは正しくクミの顔が見える位置だった。
「一つ確認したい」
『なによ』
「お前、本当に話をするだけだよな? 夕雨や夕雨の父親に何か危害を加えたりはしないよな?」
「おい、赤桐……」
『す、するわけないじゃない!』
クミは腰に手を当てて頬を膨らませて仁王立ちになる。
『大葵、やっぱ佐藤君に全然似てないよ。全然優しくない! 夕雨のが似てる。ハートが似てる』
「クミ……」
『この堅物に言ってやって! 初恋の人の息子に、悪いことなんてしないもん! 私だって、ちゃんと成仏して生まれ変わって、今度は夕雨と大葵みたいに何でも話せる彼氏作るんだから!』
「しないって」
「そうか。なら良かった。約束だぞ。……夕雨、それでも体調が悪くなったり様子が変わったらいつでも言ってくれ。俺がお前をなんとかして護るから」
「わ、分かった」
赤桐ならなんか本当に「なんとか」しそうな気がしてくるから不思議だ。
『あーあ、見つめあっちゃって。早く付き合っちゃえばいいのに』
そういわれてはたと気が付いた。
(あれ、もしかしてだけどさ……。俺ってデートの日に赤桐に言われた「いつかお前の気持ちを聞かせて欲しい」ってやつ、伝えられてないまま? 俺は今の状態だと、ただ単にオバケに頼まれて赤桐のことデートに誘っただけってだけで……。赤桐にとってはただ思わせぶりな態度を取ってきただけの友達のまんま?)
何もかも打ち明けあって、こんなに近づいたのに、肝心なことが何も伝えられていない。俺は頭からさあっと血の気が引いて来た。
「なあ、赤桐、俺達ってさ……」
「なんだ?」
ぐーっとまた腹の音が盛大に鳴ってしまって、赤桐が微笑んでクミが大笑いを始めた。
(し、しまらない……。こんな状態じゃ真面目な話なんて出来ない)
「甘いもの追加で買うか? それとも名古屋行きの打ち合わせもかねて、移動してどこかで飯食うか?」
「い、いいねえ」
飲み物を手にして立ち上がった赤桐はここに来た時よりもずっといい顔をしていて、俺に向かって力強く手を差し伸べてくれた。
「ほら、行くぞ」
その手を取ったらぐっと引っ張られて、俺も勢いをつけて立ち上がる。
「甘いもの食べたい、肉も食べたい」
「贅沢だな、お前」
「ひつまぶし食べたい、味噌カツ食べたい」
「名古屋か。色々店、調べておくか」
普段通りの赤桐とは対照的に、今度は俺の方が動作一つ一つを意識してドキドキしてしまう。
(とりあえず名古屋に行こう。名古屋に行って……。父さんに会って……)
人の目もあるのになぜだか赤桐と繋がった手は振り解けない。このままでいいやって思いながら、俺は名古屋へ行くことがただの使命感だけじゃなく、楽しみになってきた。
(みんなの憂鬱さが天に昇って雨雲でも作っているのかも)
そんなどうでもいいことを想いつつ、教室に向かった。扉の前に差しかかるのに歩みが鈍る。赤桐にどんな顔見せればいいんだろって、そんなことばっかり考えてた。
『夕雨、ファイト』
後ろでクミの声がした。俺は突き動かされるみたいに一歩踏み出す。
「うげっ」
気を抜いてたから小さく声を上げてしまった。また教室にオバケが数体増えている。ちょっとグロめの赤黒っぽい色みのデロデロが左奥にいた気がするけど、流石に見たくなくて視界に入れないように注意した。
(おい! クミ、視えてる? オバケが増えてんだけど!)
『なんかお仲間増えてるわね……。このクラスあれ? オバケ溜まりやすい?』
自分の事を棚に上げてるクミがふわーっと別のオバケに近づいていくけど、会社員っぽいおばさんは退かないでいる。オバケ同士もレイヤーが違うと意思疎通、出来んみたいってクミが言ってたけどその通りなのかもしれない。
『まあ、悪いものじゃなさそうだから、なんかあったら私がどうにか話しかけてみる。おっは~』
相変わらずのクミのふざけたノリにほっとする。
(大丈夫だ。ここは俺たちの教室。赤桐もいてくれる。俺たちの居場所だ。生きてる人間が何より強い!)
大きく息を吸って吐く、なんとか恐怖が和らいでいった。
「夕雨」
考え事中に後ろから声をかけられて、ものすごく無防備に振り返ったら赤桐がいた。
「お、おはよう」
「おはよう。顔色が……」
差し出した手を赤桐が寸前でぐっと握ると引っ込めて行った。
「あんま、世話焼き過ぎるとうぜぇよな」
自分を嘲笑うみたいに、らしくなく唇を釣り上げてる。
「赤桐……、あのさ、あの……」
「赤桐おはよう!」
「おはよ」
後ろから来たクラスメイトが赤桐に声をかける。そっけない返事を返した赤桐と連れだって、そのまま二人は席へと移動していった。
今までの俺だったら、ここで引いてしまってたかもしれない。勇気を振り絞るぐらいなら事なかれに徹して、変化を好まなかったかもしれない。俺は赤桐を後ろから追いかけて、あいつの手首をぐっと引っ張った。掌の中で、石が擦れあう音が返ってきた。
(あ……、こいつもつけてるんだ)
お揃いで作ったブレスレット。俺も今、逆の手首に今付けている。
(俺はお前と仲直りしたい。お前も同じ気持ちだって信じてる)
「赤桐!」
「……なんだ?」
無表情だと、厳ついイケメン。デカくてちょっと強面。上から見下ろされたら圧が凄いし、今までの俺なら、ここで引いてただろう。
でも俺は知ってる。お前はすごく優しい奴だ。俺がきちんと話をしようとしたら、黙って粘り強く、最後まで俺の話を聞いてくれる。俺の出方を我慢強く待ってくれる、そういうやつなんだ。
(それできっと、俺はお前の、そういうところが好きなんだ)
「今日話したいことがある。お前が部活終わるまで、待ってるから。もし今日が駄目なら明日、明日が駄目なら、お前の都合がいいタイミングを教えてくれ」
今もし断られたとしても、今度は何度でも俺から赤桐に向かっていきたいって思った。俺なりの気迫?が伝わったのか、赤桐が俺の腕を振り払うことはなかった。逆の手で顎に触れながら俺の顔をじっと見てる。赤桐がどう出るのか分からない。胸の鼓動がど、ど、ど、と静かに速さを増す。
赤桐は思案気に長く黙った後、静かに頷いた。
「今日で、問題ない。終わるまで近くで待っていてくれ」
※※※
今日は一日雨だから、赤桐もトレーニングルームで筋トレをしているはずだ。放課後、教室に残るのが手っ取り早いんだけど、いつもながらまたオバケをどうにかしないといけないところから始めるのは面倒だ。
図書室で一時間ぐらい時間潰してから、駅前のファミレスで赤桐待ってようかな。そう思ったんだけど、なんか落ち着かない。全てを告白するって決めた以上、落ち着いて話が出来て学校の奴らが誰もいない場所がいい。
(断られたらどうしよって思って、昨日は店決めるまで気が回らなかったんだよな……)
心当たりの場所までの大体の行き方を検索して、スマホをポケットにしまう。靴箱からスニーカーを取り出していたら、『ちょっと! 夕雨!』とクミが横で騒いでる。
「なんだよ、どうした……、えっ?」
そこには部活に行ったはずの赤桐が荷物も持った状態で立っていた。
「赤桐、お前部活は? これから?」
授業が終わると同時にいつも通りさっさと部活に行ってしまったと思っていたけど、なんでここにいるんだろう?
「顧問に事情を話してきた。行くぞ」
「え? 事情って……、お前、何話したんだよ」
ふざけた様子が一片も見当たらぬすんとした表情で、赤桐も俺の隣に並んで、靴を履き替えるともう一度俺に向かって向き直った。
「大切な人と大事な話をしなければならない。それが終わるまではパフォーマンスにも影響が出ると顧問に伝えたら、その問題を解消して来いと言われた」
「はっ、はは……、マジか」
普段から信用の厚い赤桐が、この勝負に挑む武士みたいな顔で伝えたんなら、きっと顧問も真摯に受け止めたんだなと想像がついた。
『大葵君……、男前すぎる』
「いこうか」
「おう。行こう」
とはいえ誘ったのは俺なので、俺が赤桐を追い抜いて前を歩いた。雨の中、傘を差して歩く。隣同士になったり、狭い道ではたまに前後に歩いたり。
学校がある私鉄の駅近辺では、部活を休んで俺と出歩いている赤桐は目立つに決まっている。だから俺は三十分ほど歩くとつく、JRの駅を目指した。
もくもくと歩く。たまに前をクミが歩いている。雨の中では透けた身体が一層儚くて、雨の雫が落ちていくのがそのまま見える。
(俺の為に、あの赤桐が部活を休んだとか……。すごくないか?)
だが赤桐はいつも以上に無口で、どんな気持ちで俺についてきてくれているのか気持ちが図れない。心細くなったのは気候のせいで、赤桐が一言も発しないせいだとは思いたくない。折角振り絞った勇気を散らしたくない。
結構な距離を歩いているのに、赤桐はどこに行くのか俺に確認をしなかった。
(赤桐らしいな。……俺のこと、信頼してくれてるんだ)
鈍色の空に時折強くなる雨脚、冷たく吹き寄せる風がちょっとだけ興奮した頬に冷たい。
(こいつ、今、俺が差しだしたら毒でも飲み干すんだろうか……)
自分で想像して自分で震えた。『愛は愚か者にとっては知恵であり、賢者にとっては愚行である』。いつかテキストで見かけたフレーズが頭をよぎった。
(恋って……、恐ろしいな)
本当はどこか公園とか周りに気兼ねしない場所で話がしたかったけど、雨の日振りだからそれもできない。俺の目当ての場所は駅に直結した飲食のテナントも入った複合ビルだった。前に学校帰りにどこまで歩けるか一人で探索をして、このビルに行きついたことがある。基本的にはオフィスビルだから、学生の姿は少ない。広々として綺麗で、程よい喧騒と落ち着いた雰囲気が全体に漂っている。
地下一階から二階まで、吹き抜けになっている広々とした作りで、開放感がある。無料の休憩スペースも沢山あって、前に来た時、音楽を聴きながら心置きなく休憩できた。
「カフェでテイクアウトして、あっちにいかない?」
頷く赤桐を促して、カフェの中に敢えて入らずに、半円型のアトリウムを見下ろせる、座席の並んだギャラリースペースまで歩いて来た。そこには雨に濡れる庭を見渡せる窓辺にカウンターが並び、一人掛けの椅子が沢山ある。俺達は椅子を少し動かして、隣同士に腰かけた。
雨足は増々強くなり窓に打ち付けるほどだけど、ガラスを隔てたこちら側は穏やかな昼白色の光に満たされている。
程よく耳に入る騒めき、雨音、カフェオレの香り。横殴りの雨の中を歩いてきたから、しっとり濡れた前髪や袖が冷たくて、俺は小さくクシャミをした。
「うわっ」
すかさず、赤桐がリュックの中からスポーツタオルを取り出して、俺に被せてよこす。
「今日は使ってないから、綺麗だぞ。風邪ひくなよ」
「……ありがと」
俺は温かいカフェオレを啜る。クミは赤桐ごしにカウンターに腰をかけて、俺たちを心配そうに見下ろしている。少しの沈黙の後、二人同時に口を開いた。
「「あの(な)」」
「あ、大葵から、喋る?」
「いや、お前からで」
「それじゃあ、あの……」
俺はわざとタオルをフードみたいに目深に被った。そうして射抜かれると心を乱され落ち着けなくなる、赤桐の強い真っすぐな視線から身を守る。
「俺さ、今までお前に黙ったことがあるんだ」
「そうか」
「あのさ、信じてもらえないかもしれないんだけど……」
あくまでも穏やかで静かな赤桐の返事、俺は被っていたタオルの両端をぎゅうっと掴んだ。
「俺、実はオバケを視ることができるんだ」
たっぷりの沈黙。窓に雨が打ち付ける音がする。いつも率直に返事をする赤桐なのに、この時ばかりは違っていた。
「夕雨、こっちを向いてくれ。顔を見て話そう」
恐る恐る横を向いたら、被っていたタオルをゆっくりと捲られた。赤桐の目元は緩んでいる。いつも俺の事を気遣う時にするあの表情だ。鼻の奥がつんっと痛くなる。赤桐の労わりに、勇気が持てた。
「……あのな。俺さあ。今のクラスの教室で、頻繁にオバケが視えるようになって、それで度々体調崩してた。迷惑かけてごめん」
ほんのわずかな沈黙の後、赤桐は静かに相槌を打ってくれた。
「そうだったんだな」
「うん。それで……、その中の一人のオバケと話をするようになって。あの、女の子なんだけど」
「女の子?」
「うん、その子に言われて……、俺……」
赤桐から強くぐっと両肩を掴まれて、眉をひそめた状態で、顔を間近に覗き込まれた。
「その子の事が、好きなのか?」
「はい?」
「まさか、死んで一緒になろうとしたりしてないよな?」
「……えっ、ええ?」
根が真面目な人間の発想はぶっ飛びすぎていて、俺が言葉を失っていたら、赤桐に両頬をがっと掌で包まれた。
「絶対に、させない。俺のがいいだろ?」
「はあああ?」
「もし、俺を置いて先に死んだりしたら、お前のことを追いかけて逝くからな」
赤桐が眦を吊り上げ、瞳孔がくうっと開いた。瞳の奥がマジだったです、はい。
『大葵ぃぃぃぃ!!! ヤバすぎるうぅ! 夕雨逃げてぇ』
騒ぎながらもどこか喜びを隠せないクミの声に、俺は思わず「クミ、うるさいって!」といつもの調子で叫んでしまった。
「クミ? そのオバケの名前か?」
「怖い声出さないでくれって。クミは俺より、お前の事の方が好きなんだから」
「……え?」
『なにこの空間、カオスなんですけど!』
クミはひょいっとカウンターから降りて、赤桐の隣に立つと頭をナデナデしてた。
『大葵きゅーん。そんなに怒らなくても盗ったりしませんよ~』
「今、お前の隣に立ってる」
「……」
赤桐は窓とは逆を向いた。屈んだクミの胸の辺りに顔が重なってしまったから、俺はムッとして大葵の顔をこっちに向けた。
「あのさ、ちゃんと話すからちゃんと聞いてくれ。俺はクミに頼まれて、お前とデートしてその……、観覧車の上でキスをしてくれって頼まれたんだ」
ぐっと、赤桐が唇を寄り引き結んだ。何か言いたげな顔をしたけど、俺が最後まで話すのを待ってくれているんだと分かった。
「クミが好きな人に似ているお前と疑似デートが出来たら成仏できるんじゃないかっていったから、俺は安易に引き受けてしまった。空の上で成仏させてやるから、ちゃんと天国行くんだぞってとかクミと約束しちゃって……。結果お前を騙すようなことになってしまった。本当に、ごめん……」
「そうだったのか……。それで土壇場で、俺とのキスは無理だって思ったんだな」
呟いた赤桐の声が少し覇気を失い、いつもより苦々しさが滲んでる。俺は堪らない気持ちになった。
「ごめん……。本当にごめん」
「いや。いいんだ。お前の話はわかった」
「わかって、くれたの?」
「ああ。だからもう一度だけ、俺の話も聞いてくれないか? 俺はそんなに口が回るほうじゃないから、お前に気持ちが上手く伝えられなかったんじゃないかって、一晩中考えた」
「……うん」
俺は椅子を持ち上げて、赤桐の方に身体の大部分が向くように角度を変える。長い赤桐の脚にこちらの脚もぶつかるぐらいに近づいた。
「どうぞ……」
「俺は、お前に不思議な力があるって知ってた」
「え……、なんで? どうして分かった?」
『ええ! 嘘でしょ!』
叫んだクミがうるさくて、俺は人差し指を唇に立てて、クミを静止した。赤桐がその仕草に気づいて、俺の肩を抱いて自分の方により引き寄せた。
『ヤキモチ焼き過ぎでしょ……。ひくわ……』
(やっぱり様子がおかしかったから? 急にぶっ倒れたりとか、クミと話すとこ聞かれたとか? もっとありえない行動してた?)
戸惑う俺の目を真っすぐに見て、赤桐が再び口を開く。
「お前が俺にストラップをくれた日……。あの日の事、憶えているか?」
俺のことを赤桐が好きになってくれたと言った日の事だ。ちょっとだけ口元がにやけながら、俺は頷いた。
「うん。たしか……。バイト先の隣の公園いったら、お前がいた」
あの日はシフトに入る前にアイスが無性に食べたくなって、手に持ってベンチに行ったら、こいつが先に座ってたんだっけ。なんか中途半端な時間帯だったな。ジャージ着てたし、こいつ今日部活じゃなかったのかな?って思ったっけ。その上首輪をした猫を連れてたから、ああ、こいつんち近所なんだなあって思ったような?
「お前に声をかけられた時、本当は最悪だって思ったんだ」
「え……」
ドキッとする言葉に俺が視線を泳がせると、赤桐は宥めるように、俺の肩をさすった。
「あの頃、新人戦では入賞したけど、その後メンタルがやられて記録も伸び悩んでボロボロだった。練習に行く気も失せて、街をうろついて、公園でこれからどうしようか、途方に暮れて色々考えてた。もしかしたらもう陸上も辞めた方がいいのかもしれないとまで思ってたな。だから知り合いに会いたくなかった」
「そうだったんだ……」
(大葵にそんな時があったんだ……)
感情が表に出にくい分、赤桐は自分の中にため込んで一人で抱え込んでしまう性格なのかもしれない。
今思い返すと確かにあの時の赤桐、様子がおかしかったかもと思う。体育の時、廊下ですれ違う時、友達と歩いているこいつは迷いなんて何一つありませんって顔をして、いつだって自信に満ち溢れて見えた。
だけどあの時、夕暮れか近づいてきて、金木犀がほろほろ落ちてたベンチで赤桐は項垂れてるように見えた。もしや部活でなんかあったのかと思ったけど、メンタル盤石なこいつに限って落ち込むとも思えず、秋の感傷的な夕方がそんな気分にさせているだけだと思ってた。
「……俺もしかしてあの時、お前に余計なこととか言ってなかった? だとしたら、ごめんな」
「いや……。お前は覚えてないかもしれないけど。俺にアイス食べるかって半分に割って渡してくれたよな」
「あー、そうだったかも。半分じゃなくて一個奢れよって感じだな」
茶化して笑ったら、赤桐も少しだけ口角を上げた。
アイス、半分にちぎって渡せるタイプの奴だったんだよ。ホワイトサワー味は爽やかで甘酸っぱい、俺が一番好きな味だ。
「隣でアイスを食べ始めたお前に、俺は『大切にしてきたことが二つあるとして、一方を選んだことで、もう一方を蔑ろにせざるを得なくなり、取り返しがつかない場合、お前ならどうする?』って聞いたんだ」
「そうだったっけ……」
「それでお前はちょっと考えてからこう言った。『どうにもできない。過去は変えられない。痛みを抱えて生きるしかない』って……。それを聞いて俺は気づかされた。俺は過去の痛みと向き合い続ける覚悟が足りなかったと、自分自身を責め続けていたけど、実際に強い痛みを抱えた時、その痛みに寄り添える柔軟性に欠けていたんだって」
「……」
「それから俺にこうも言ってくれたよな。『大切なものが傷ついたってことは、お前も少なからず傷ついたんだよな? 大丈夫か?』って。その一言でお前は弱いと自分を責め続けていた、俺の傷を照らして、慰めてくれた」
その時の色々な記憶が蘇る。こいつの膝から降りた白猫が俺の方を向いて『にゃーん』って鳴いた。真ん丸の目をした可愛い子だ。まるでご主人を慰めてやってくれ、ってお願いされてるみたいに聞こえたんだ。
「お前がなんか辛そうな顔してたから『まあ、元気出しなよ』とか、そんな軽い調子で言ったのかも。ごめんな。赤桐が元気出すといいなって思ったのは覚えてるよ。それで、お前に渡したストラップ。ちょうど持ってたから、これあげたらいいなって思ったんだよ。お前が連れてた首輪した白猫がさ、目の色もちょうどオッドアイだったろ? そっくりだったから。『古来より金目銀目の猫は幸福を招く縁起のいい猫』って説明書き読み上げたよな」
「ああ」
「お前にはこの子がついてるから絶対大丈夫……、絶対ラッキー! いい方向に進めるよ、とか言っちゃったかも。すまん。なんかお前がどんだけ落ち込んでるのかもわからずに、勝手なこと言ってたかも」
「いや……。救われたよ。あの日俺が落ち込んでたのは新人戦に行くことを選んで、なにより大切で大好きだった飼い猫の死に目に会えなかったことだ」
『えっ!』
クミも悲鳴を上げてる。ぞく、どき、両方一遍に襲ってきて鳥肌がぶわっと二の腕に立った。
「え……、ウソだろ……。だってあの時、白猫が……」
夕暮れ時に白い被毛が輝くように視えていた。ほっそり華奢な可愛らしい猫。
「俺はお前に猫を飼っていると話した覚えはない。だけどお前は目の色が違う白猫とまで言い当てた。あの時はもう、チロは死んでたんだ」
赤桐の膝から降りた後も、こいつの足元にすり寄って愛おしそうに『にゃーん』と鳴き、長い尻尾を優雅に振っていた。あの猫は……。
「新人戦の前の日から、チロの容体が良くなくて、家族からは俺は予定通り大会に出る様にって言われて、俺も自分で決めて参加した。チロの為にも頑張ろうって、必死で走って、結果も出せた。でも……」
ぐっと拳を握った赤桐は、苦々しげな表情を見せた後、悔しそうに眉根を寄せた。
「どこかで、チロは俺の帰りを待っていてくれるんじゃないかって思ってたんだ。浅はかだったよ……。家に帰って大好きな毛布に包まったチロはもう、冷たくなってて……。俺は死ぬほど後悔した」
もう駄目だった。辛いのは赤桐なのに、涙がこみ上げてきて、誤魔化せない程にみるみる俺の視界を歪ませた。
「チロは、最初は祖母ちゃんの飼い猫だったんだ。祖母ちゃんが入院してうちにチロが来た。俺は祖母ちゃんに亡くなる前に『チロを俺が最後まで面倒見る。絶対に寂しい思いをさせない』そう約束したのに、守れなかった」
「……」
動揺とは無縁な赤桐が見せる、哀し気に歪んだ表情に言葉が出ない。
「……本当は死に際まで、チロについていてあげたかった。祖母ちゃんとの約束も守りたかった。あの時、試合なんてでないで家にいなさいって、なんで止めてくれなかったんだって、家族に当たりそうになって」
「大葵……」
「でもそんなこと、絶対に言えるはずない。俺の代わりに看取ってくれたんだ。俺が自分で試合に出るって決めたんだ。だから傷ついていることを、家族にも、誰にも悟られたくない。我慢して、平静を保って、いつも通りであろうって……。だけどよく眠れなくなって、結局タイムに影響が出始めた。情けないよな?」
俺は堪らなくなって、赤桐の広い胸に飛び込んで、腕を回してぎゅうっと力の限り抱きしめた。
「情けなくなんてないよ! 大葵は誰よりも強くて誰よりも動じない。だけど、とても心が優しくて、繊細だよね。大葵が俺に触れてくれる手は、なんだかんだ言っていつもすごく優しい。俺は分かるよ。だから苦しんだんだろ」
赤桐も俺の背中に長い腕を回して、俺はすっぽりとあいつの腕の中に抱きかかえられた。あったかくて、シトラス系のいい匂いがして、ほっとして心地よいのになぜか泣きたくなる。
「ごめっ……、あの時もっと色々お前にしてあげられたら良かったのに!」
涙が後から後から零れて、鼻をすすっていたら赤桐が俺の頭を撫ぜてくれた。
「いや、夕雨があの時も今も、こうして励まして傍にいてくれるから、俺はもう大丈夫だ」
「こんな俺でも、お前の役に立てるのか?」
「当然だろ。お前のその力のお陰で、俺はチロがまだ俺の傍にいるって知って、……申し訳なく思った。俺が迷っているから、チロが天国にも行けてないって。だからもう、ちゃんと前を向こうって思ったんだ。チロがいなくなってどんなに寂しくても、それが自分がした選択に責任を持つことだって思った。吹っ切れてから、タイムも順調に上がってきた。きっかけをくれたのはお前だよ。夕雨」
「……俺の、お陰?」
「そうだ。お前はなんで自分なんかに構うんだっていうけど、俺にとってはお前は迷いを断ち切ってくれるきっかけをくれた恩人だ。それと……」
抱きしめていた腕を解かれて、俺はおずおずと赤桐の顔を見上げた。窓の外は夕立のような強い雨脚が緩まり、雲の切れ間から光が差してきたようだ。眩い光に俺は目をしばたたいた。
「俺もお前に話していなかったことがあるな。お前とこうしていたら、もしかしたらまたお前を通じてまたチロに会えるんじゃないかと思ったんだ」
「そうだったんだ」
俺はきょろきょろと周りを見渡す。あの日の白い猫はどこにもいない。カウンターの下を覗き込んで周りを探しているクミも首を振っていた。
「チロはすごくヤキモチ焼きだから、俺がもう一匹家にいる、黒いオス猫に餌を上げたり構ったりすると寄ってきて邪魔をするんだ。だから俺が夕雨の事を沢山構うから、邪魔しに来るんじゃないかと思ってたんだ」
「あー。だから俺にべたべたしてきたんだ。そういうことか」
「まあ……。そればっかりじゃないんだけどな」
そう言いながら、赤桐はまた指先で優しく俺の額にかかった髪を払った。
「単純に、俺はお前に触れたくなる」
赤桐の甘い仕草と切ない思い。そのどちらにも触れて、胸がぎゅうっとなる。
「俺の力で、大葵をもう一度チロに会わせてあげられたら良かったのにな……。そしたらこの無駄な力にも何か意味があったかもしれないのに」
「十分意味があったよ。でももう、俺の傍にはチロはいないんだろ?」
「いないよ。居たら大葵はチロに何て言ってあげたかった?」
「最後までついていてあげられなくて、ごめんってちゃんと謝りたかった」
「そっか。でもきっとね、今の大葵の姿を見たら、チロはもう自分は天国に行ってもいいって思ったんだと思うよ」
「……そうか、ありがとう夕雨」
大葵はそう言って、俺をやんわり抱きしめたまま空を見上げてた。雨がやんで早く動く白いふわふわの雲が、その奥に見える青空の前を横切っていった。
「いつかまた、俺のところに来てほしいな」
「そうだね……。いつかまた。来てくれるといいね」
周りが明るくなったら、公共の場で抱き合っていたことに俺は猛烈に恥ずかしくなってしまった。
「か、カフェオレ飲もうかな。お腹もすいたし……」
赤桐の腕から身を起こしたら、ちょうど『ぐーっ』とお腹までなってしまった。赤桐も俺から手を離してスマホを手にした。
「ちょっと待ってろ、さっきの店で何か買ってくる。何がいい?」
「あ……。なんにしよ」
(な、なんで俺ナチュラルにあいつに抱きしめられてたんだ……)
大体話はこれで良かったんだろうか? メニューを探してくれている赤桐の横顔は心なしか晴れ晴れとして見えた。
「なあ、大葵」
「んっ、なんだ?」
「俺の話の続きなんだけど」
「ああ」
「教室のオバケ、柳木久美子って名前なんだけど、どうも俺の父さんの事好きだったらしいんだよね」
「……はあ?」
流石の大葵もスマホを持ったまま固まってる。
「かいつまんで話すと……」
俺はクミが教室に現れるまでの話を事細かく話していった。クミが隣で大げさに注釈をつけるものだから、無駄に話が長くなってしまった。
『ついに大葵と話ができて嬉しいんだもん!』
「なんか、お前と話ができて嬉しいって言ってる」
「そうか」
クミは赤桐の隣に腕組みして立って、なんでか口を尖らせて、ちょっとだけむすっとしてる。
『……知ってはいたんだけど、大葵ってさ。夕雨と夕雨以外だとあからさまに態度違い過ぎるよね』
「そうかなあ?」
「なんて言ってるんだ?」
そのまんま伝えるのが恥ずかしくて、「いや、大したことじゃない」って言葉を濁した。
「それでさ。俺、名古屋に単身赴任してる父さんのところに行ってクミのこと聞いてきたいって思ってるんだ」
「俺も一緒に行く」
すぐさま答えた赤桐に、俺は顔がにやけるのを抑えられなかった。
「お前ならそういうんじゃないかって思ってた。でも、今週の金曜の夜に行こうと思ってるんだ。先生たちの都合で四時間授業じゃん? お金もかかるし、お前は部活があるだろうからまた休ませるわけには……」
「土曜日は部活があるが、金曜は同じ理由で全部活休業だ」
「そう……、なんだ。」
まるでそこで動けって、神様が言ってるみたいに俺には感じた。
「なあ、クミは今どこに立ってる?」
「ええと、俺の隣」
「そうか」
赤桐が視えないはずのクミの姿を探して、少しだけ頭を上へと傾けた。クミが動いていないにもかかわらず、それは正しくクミの顔が見える位置だった。
「一つ確認したい」
『なによ』
「お前、本当に話をするだけだよな? 夕雨や夕雨の父親に何か危害を加えたりはしないよな?」
「おい、赤桐……」
『す、するわけないじゃない!』
クミは腰に手を当てて頬を膨らませて仁王立ちになる。
『大葵、やっぱ佐藤君に全然似てないよ。全然優しくない! 夕雨のが似てる。ハートが似てる』
「クミ……」
『この堅物に言ってやって! 初恋の人の息子に、悪いことなんてしないもん! 私だって、ちゃんと成仏して生まれ変わって、今度は夕雨と大葵みたいに何でも話せる彼氏作るんだから!』
「しないって」
「そうか。なら良かった。約束だぞ。……夕雨、それでも体調が悪くなったり様子が変わったらいつでも言ってくれ。俺がお前をなんとかして護るから」
「わ、分かった」
赤桐ならなんか本当に「なんとか」しそうな気がしてくるから不思議だ。
『あーあ、見つめあっちゃって。早く付き合っちゃえばいいのに』
そういわれてはたと気が付いた。
(あれ、もしかしてだけどさ……。俺ってデートの日に赤桐に言われた「いつかお前の気持ちを聞かせて欲しい」ってやつ、伝えられてないまま? 俺は今の状態だと、ただ単にオバケに頼まれて赤桐のことデートに誘っただけってだけで……。赤桐にとってはただ思わせぶりな態度を取ってきただけの友達のまんま?)
何もかも打ち明けあって、こんなに近づいたのに、肝心なことが何も伝えられていない。俺は頭からさあっと血の気が引いて来た。
「なあ、赤桐、俺達ってさ……」
「なんだ?」
ぐーっとまた腹の音が盛大に鳴ってしまって、赤桐が微笑んでクミが大笑いを始めた。
(し、しまらない……。こんな状態じゃ真面目な話なんて出来ない)
「甘いもの追加で買うか? それとも名古屋行きの打ち合わせもかねて、移動してどこかで飯食うか?」
「い、いいねえ」
飲み物を手にして立ち上がった赤桐はここに来た時よりもずっといい顔をしていて、俺に向かって力強く手を差し伸べてくれた。
「ほら、行くぞ」
その手を取ったらぐっと引っ張られて、俺も勢いをつけて立ち上がる。
「甘いもの食べたい、肉も食べたい」
「贅沢だな、お前」
「ひつまぶし食べたい、味噌カツ食べたい」
「名古屋か。色々店、調べておくか」
普段通りの赤桐とは対照的に、今度は俺の方が動作一つ一つを意識してドキドキしてしまう。
(とりあえず名古屋に行こう。名古屋に行って……。父さんに会って……)
人の目もあるのになぜだか赤桐と繋がった手は振り解けない。このままでいいやって思いながら、俺は名古屋へ行くことがただの使命感だけじゃなく、楽しみになってきた。



