それから数日で、夜の気配はすっかり変わった。
消灯後、古い寮がきしみ始めるころになると、俺は無意識に窓際を見るようになった。
そこに藤代先輩が立っていることが、もう半分は前提になっていた。
最初は、そんな自分がおかしいと思った。
なのに、夜になると、それより先に別のことを思う。
今日も来るかな、ということだ。
来てしまえば、もっと困る。
藤代先輩は何かを奪うみたいな触れ方はしない。
布団の端を少し持ち上げて、当たり前みたいに俺の隣に入り込み、低い声で「おやすみ」と言うだけだ。
それだけなのに、眠れる。
知らない寮の軋みも、遠くの部屋の笑い声も、廊下を歩く足音も、その声を聞くと急に遠くなる。
ある夜、俺がうまく寝つけずにいると、藤代先輩の手がそっと背中に触れた。
「起きてる?」
「……まあ」
「寝れない?」
答えないでいると、背中を一定の間で軽く叩かれる。
子どもを寝かしつけるみたいな、ゆっくりしたリズムだった。
「先輩」
「うん」
「それ、ちょっと子ども扱いじゃないですか」
「柏木には、これくらいでいい気がした」
むかつく、とは思わなかった。
むしろ、その単調な手つきに合わせるみたいに呼吸が整っていくのが悔しい。
「なんで、こんなことするんですか」
暗がりの中で訊くと、藤代先輩の手が一度だけ止まった。
「柏木は、特別だから」
特別。
その言葉に、身体の奥から甘く痺れた。
おかしいはずだった。
まだ会って数日しか経っていない。
こんなふうに言われて、安心していいはずがない。
それなのに、身体の力が抜ける。
ずっと欲しかった言葉だと思った。
「……特別って、何ですか」
声が、自分でも頼りなかった。
藤代先輩は答えなかった。
ただ、背中を撫でる手が少しだけゆっくりになる。
代わりに、吐息が近くなった。
暗闇に慣れた瞳が、至近距離で藤代先輩の輪郭を捉える。
「先輩……」
「……キスしていい?」
低くて、湿度を帯びた声だった。
心臓が跳ねる。断らなきゃいけない。ここは寮で、すぐ隣には真田先輩が眠っているはずなのだ。
「……でも」
拒絶というには、あまりに熱を帯びすぎた拒否。
藤代先輩は、くすっと喉を鳴らして笑った。
「キスだけ。……ね、透」
初めて、名前を呼ばれた。
その瞬間、頭の芯が真っ白に弾ける。
気が付けば、自分から顔を近づけていた。
重なった唇は、驚くほど柔らかかった。
けれど、どこかひやりとした冷たさがあった。
その温度が、触れた場所からじわりと全身へ広がっていく。
冷たいはずなのに、心地いい。
深い水底へ沈んでいくような、静かな浮遊感に包まれる。
「……ん」
心臓の音が遠くなる。
代わりに、藤代先輩の指先がこめかみをなぞる感触だけが、妙に鮮明だった。
「いい子だ、透。……おやすみ」
耳元で囁かれたその声が、最後だった。
返事をしようとした唇は動かず、重たい瞼が勝手に落ちる。
逃げなきゃいけないような気がした。
でも、離したくない。
俺はそのまま、底のない眠りの中へすとんと落ちた。
***
朝、真田先輩に「柏木、なんか変な顔してる」と言われて、味噌汁を吹きそうになった。
「なんですか、それ」
「いや、前より顔つきはやわらかいのに、目の下に隈できてる」
返す言葉に詰まった。
思い当たることは、一つだけあった。
藤代先輩とのキス。
夜、布団の中で、低い声で名前を呼ばれて。
特別だと言われて。
触れるだけのキスをされた。
思い出すたびに、身体の奥が甘く痺れる。
でも、朝起きると、藤代先輩はいつもいない。
残っているのは、その甘さと、身体の芯に沈む重さだけだった。
「……寝てますよ」
「寝てる顔じゃないんだよな」
眠れていないわけではない。
むしろ、藤代先輩が来るようになってから、夜中に何度も目を覚ますことは減った。
それなのに、朝になると身体の芯に重さが残っている。
ちゃんと眠ったはずなのに、どこかが回復しきっていない。
真田先輩は、少しだけ眉を寄せた。
「なんか、削れてる」
その言い方に、箸を持つ手が止まった。
真田先輩が、顔を上げて、ふと首をかしげた。
「あれ」
箸を持ったまま、少し考える顔になる。
「どうしました」
「いや」
そこで言葉が途切れる。
「誰だっけ、あの」
真田先輩の視線が、俺の肩のあたりを曖昧に泳いだ。
食堂の入口で、藤代先輩が手を挙げていた。
でも真田先輩は、不思議そうな顔をしていた。
「同じ部屋の」
そこまで言って、また止まる。
喉の奥がひやりとした。
「藤代先輩?」
俺が口にすると、真田先輩はすぐに頷いた。
「ああ、そう」
でも、その頷き方が軽すぎる。
思い出したというより、その場だけ形を合わせたみたいだった。
「なんだろ。名前出ると分かるんだけどな」
「……そうなんですね」
「悪い。別に忘れてるとかじゃないんだけど」
たぶん、本当にそうなんだろう。
悪意はない。
だけど、違和感がある。
似たことは、他にも何度かあった。
洗面所で会った同級生に「柏木、もう慣れた?」と聞かれて、「まあ、藤代先輩がいろいろ教えてくれるんで」と答える。
すると相手は一瞬だけ曖昧な顔をして、それから「ああ、藤代先輩な」と笑って話を続ける。
藤代先輩の名前だけ、みんながいつも少し引っかかる。
顔も、声も、立っている感じも、見えていないわけじゃない。
かっこいいとか、感じいいとか、俺と一緒にいるとか、そういう輪郭は普通に受け取られている。
なのに、「藤代」という名前にだけ、小さな空白がある。
その空白を埋めるみたいに、俺ばかりが何度もその名前を口にしている気がした。
消灯後、古い寮がきしみ始めるころになると、俺は無意識に窓際を見るようになった。
そこに藤代先輩が立っていることが、もう半分は前提になっていた。
最初は、そんな自分がおかしいと思った。
なのに、夜になると、それより先に別のことを思う。
今日も来るかな、ということだ。
来てしまえば、もっと困る。
藤代先輩は何かを奪うみたいな触れ方はしない。
布団の端を少し持ち上げて、当たり前みたいに俺の隣に入り込み、低い声で「おやすみ」と言うだけだ。
それだけなのに、眠れる。
知らない寮の軋みも、遠くの部屋の笑い声も、廊下を歩く足音も、その声を聞くと急に遠くなる。
ある夜、俺がうまく寝つけずにいると、藤代先輩の手がそっと背中に触れた。
「起きてる?」
「……まあ」
「寝れない?」
答えないでいると、背中を一定の間で軽く叩かれる。
子どもを寝かしつけるみたいな、ゆっくりしたリズムだった。
「先輩」
「うん」
「それ、ちょっと子ども扱いじゃないですか」
「柏木には、これくらいでいい気がした」
むかつく、とは思わなかった。
むしろ、その単調な手つきに合わせるみたいに呼吸が整っていくのが悔しい。
「なんで、こんなことするんですか」
暗がりの中で訊くと、藤代先輩の手が一度だけ止まった。
「柏木は、特別だから」
特別。
その言葉に、身体の奥から甘く痺れた。
おかしいはずだった。
まだ会って数日しか経っていない。
こんなふうに言われて、安心していいはずがない。
それなのに、身体の力が抜ける。
ずっと欲しかった言葉だと思った。
「……特別って、何ですか」
声が、自分でも頼りなかった。
藤代先輩は答えなかった。
ただ、背中を撫でる手が少しだけゆっくりになる。
代わりに、吐息が近くなった。
暗闇に慣れた瞳が、至近距離で藤代先輩の輪郭を捉える。
「先輩……」
「……キスしていい?」
低くて、湿度を帯びた声だった。
心臓が跳ねる。断らなきゃいけない。ここは寮で、すぐ隣には真田先輩が眠っているはずなのだ。
「……でも」
拒絶というには、あまりに熱を帯びすぎた拒否。
藤代先輩は、くすっと喉を鳴らして笑った。
「キスだけ。……ね、透」
初めて、名前を呼ばれた。
その瞬間、頭の芯が真っ白に弾ける。
気が付けば、自分から顔を近づけていた。
重なった唇は、驚くほど柔らかかった。
けれど、どこかひやりとした冷たさがあった。
その温度が、触れた場所からじわりと全身へ広がっていく。
冷たいはずなのに、心地いい。
深い水底へ沈んでいくような、静かな浮遊感に包まれる。
「……ん」
心臓の音が遠くなる。
代わりに、藤代先輩の指先がこめかみをなぞる感触だけが、妙に鮮明だった。
「いい子だ、透。……おやすみ」
耳元で囁かれたその声が、最後だった。
返事をしようとした唇は動かず、重たい瞼が勝手に落ちる。
逃げなきゃいけないような気がした。
でも、離したくない。
俺はそのまま、底のない眠りの中へすとんと落ちた。
***
朝、真田先輩に「柏木、なんか変な顔してる」と言われて、味噌汁を吹きそうになった。
「なんですか、それ」
「いや、前より顔つきはやわらかいのに、目の下に隈できてる」
返す言葉に詰まった。
思い当たることは、一つだけあった。
藤代先輩とのキス。
夜、布団の中で、低い声で名前を呼ばれて。
特別だと言われて。
触れるだけのキスをされた。
思い出すたびに、身体の奥が甘く痺れる。
でも、朝起きると、藤代先輩はいつもいない。
残っているのは、その甘さと、身体の芯に沈む重さだけだった。
「……寝てますよ」
「寝てる顔じゃないんだよな」
眠れていないわけではない。
むしろ、藤代先輩が来るようになってから、夜中に何度も目を覚ますことは減った。
それなのに、朝になると身体の芯に重さが残っている。
ちゃんと眠ったはずなのに、どこかが回復しきっていない。
真田先輩は、少しだけ眉を寄せた。
「なんか、削れてる」
その言い方に、箸を持つ手が止まった。
真田先輩が、顔を上げて、ふと首をかしげた。
「あれ」
箸を持ったまま、少し考える顔になる。
「どうしました」
「いや」
そこで言葉が途切れる。
「誰だっけ、あの」
真田先輩の視線が、俺の肩のあたりを曖昧に泳いだ。
食堂の入口で、藤代先輩が手を挙げていた。
でも真田先輩は、不思議そうな顔をしていた。
「同じ部屋の」
そこまで言って、また止まる。
喉の奥がひやりとした。
「藤代先輩?」
俺が口にすると、真田先輩はすぐに頷いた。
「ああ、そう」
でも、その頷き方が軽すぎる。
思い出したというより、その場だけ形を合わせたみたいだった。
「なんだろ。名前出ると分かるんだけどな」
「……そうなんですね」
「悪い。別に忘れてるとかじゃないんだけど」
たぶん、本当にそうなんだろう。
悪意はない。
だけど、違和感がある。
似たことは、他にも何度かあった。
洗面所で会った同級生に「柏木、もう慣れた?」と聞かれて、「まあ、藤代先輩がいろいろ教えてくれるんで」と答える。
すると相手は一瞬だけ曖昧な顔をして、それから「ああ、藤代先輩な」と笑って話を続ける。
藤代先輩の名前だけ、みんながいつも少し引っかかる。
顔も、声も、立っている感じも、見えていないわけじゃない。
かっこいいとか、感じいいとか、俺と一緒にいるとか、そういう輪郭は普通に受け取られている。
なのに、「藤代」という名前にだけ、小さな空白がある。
その空白を埋めるみたいに、俺ばかりが何度もその名前を口にしている気がした。
