昼休みの終わり、教室へ戻る途中の渡り廊下で、俺は窓際に立つ藤代先輩を見つけた。
風が強くて、ガラスが細かく鳴っている。
「藤代先輩」
声をかけると、藤代先輩は振り向いた。
「食堂、混んでた?」
「混んでたけど、座れました」
「よかった」
そこで話が終わりそうになって、少しだけ困る。
聞きたいことはあるはずなのに、うまく言葉にならない。
結局、先に出たのは別のことだった。
「教室、来るんですね」
「行っちゃ悪かった?」
「そういう意味じゃなくて」
藤代先輩は手すりに肩を預けるみたいにして、こっちを見た。
「柏木の顔、見たかっただけ」
さらっと言う。
あまりに自然で、からかわれているのか本気なのか分からない。
「そういうこと、よく言うんですか」
「柏木には」
返事が早すぎて、何も言えなくなる。
藤代先輩は少しだけ目を細めた。
「教室、平気そうだったから安心した」
「子どもじゃないんですけど」
「知ってる」
「じゃあ、そんな確認しなくても」
「でも甘やかしたいから」
低くてやわらかい声だった。
押しつける感じはないのに、言葉だけはまっすぐ入ってくる。
胸の奥が、ぬるい光に浸されたみたいにほどけていく。
考えなきゃいけないことがあるのに、その輪郭が少しずつ曖昧になった。
この人の声を聞いていると、この人以外のことはどうでもいいような気がしてしまう。
「クラスの人、先輩のこと見てましたよ」
「へえ」
「仲が良くて、かっこいいって」
「柏木は?」
聞き返されて、足が止まる。
「何がですか」
「俺のこと、かっこいいって思ってる?」
逃げ道のない訊き方だった。
でも、答えないほうがよほど不自然だ。
「……思ってます」
「うれしい」
たったそれだけで、耳が熱くなる。
廊下の向こうから誰かの足音がして、俺は慌てて視線を逸らした。
「あと」
藤代先輩が、少しだけ声を落とす。
「仲いいって言われたのも、うれしかった」
心臓が、また変な音を立てた。
笑って流せばいいのに、それもできない。
授業の始まりを告げる予鈴が鳴って、ようやく息をつく。
「戻らないと」
「うん」
なのに、すぐには足が動かなかった。
俺が立ち去るのを待つみたいに、藤代先輩がそこにいる。
その視線のやわらかさが、かえって落ち着かない。
「柏木」
「はい」
「今夜も、ちゃんと寝かせてあげる」
冗談みたいな口調だった。
けれど言い終わったあと、藤代先輩の目だけは少しも笑っていなかった。
胸の奥が、くすぐったいのと怖いのの間で、微妙に揺れる。
「……先輩、それ、言い方ずるいです」
「そう?」
そう言って笑う顔は、またいつもの穏やかなものに戻っていた。
午後の授業は、あまり頭に入らなかった。
ノートは取っている。
黒板も見ている。
でも、ずっと藤代先輩のことを考えている。
昼休みに教室まで来たこと。
クラスメイトがかっこいいと言ったこと。
そのくせ、誰も知らなかったこと。
そして、今夜も、と言われたこと。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、長谷川がまた話しかけてきた。
「柏木」
「うん」
「今日の先輩、何か用だったの」
「教科書忘れたって」
「それだけ?」
「たぶん」
長谷川は笑ってから、少しだけ声を潜めた。
「やっぱ仲いいじゃん」
否定しようとして、できなかった。
昨日会ったばかりの相手なのに、たしかに近すぎる空気がもうある。
それを自覚している自分がいちばん困る。
「……どうだろ」
「まあ、いいけどさ」
長谷川はそう言って、すぐに別の友達のほうへ走っていく。
残された俺は、その背中を見送りながら、昨日までの自分ならこんなふうに言われる位置には立たなかっただろうと思った。
転校先では、最初はなるべく目立たないようにしている。
誰かひとりと急に近くなりすぎない。
それが一番、あとで面倒がないからだ。
なのに、もう遅い気がした。
寮へ向かう坂道の途中、木立の影がアスファルトに細く落ちている。
その先に、藤代先輩が立っていた。
待ち合わせをしたわけでもないのに、俺はまっすぐそっちへ歩いていく。
「早かったね」
「先輩も」
「うん。今日はあんまり呼ばれてない」
並んで歩き出す。
肩が触れるわけでもないのに、ひとりで帰る時より足取りが軽い。
夕方の光は、昼よりやわらかい。
楠寮の屋根が見えてくるころには、胸の奥のざわつきも少しだけ静まっていた。
怖さが消えたわけじゃない。
何が起きているのかも、まだ分からない。
それでも、藤代先輩と並んで歩いている今だけは、違和感より先に安心が来る。
それが、いちばん危ないのかもしれないと、ふと思った。
風が強くて、ガラスが細かく鳴っている。
「藤代先輩」
声をかけると、藤代先輩は振り向いた。
「食堂、混んでた?」
「混んでたけど、座れました」
「よかった」
そこで話が終わりそうになって、少しだけ困る。
聞きたいことはあるはずなのに、うまく言葉にならない。
結局、先に出たのは別のことだった。
「教室、来るんですね」
「行っちゃ悪かった?」
「そういう意味じゃなくて」
藤代先輩は手すりに肩を預けるみたいにして、こっちを見た。
「柏木の顔、見たかっただけ」
さらっと言う。
あまりに自然で、からかわれているのか本気なのか分からない。
「そういうこと、よく言うんですか」
「柏木には」
返事が早すぎて、何も言えなくなる。
藤代先輩は少しだけ目を細めた。
「教室、平気そうだったから安心した」
「子どもじゃないんですけど」
「知ってる」
「じゃあ、そんな確認しなくても」
「でも甘やかしたいから」
低くてやわらかい声だった。
押しつける感じはないのに、言葉だけはまっすぐ入ってくる。
胸の奥が、ぬるい光に浸されたみたいにほどけていく。
考えなきゃいけないことがあるのに、その輪郭が少しずつ曖昧になった。
この人の声を聞いていると、この人以外のことはどうでもいいような気がしてしまう。
「クラスの人、先輩のこと見てましたよ」
「へえ」
「仲が良くて、かっこいいって」
「柏木は?」
聞き返されて、足が止まる。
「何がですか」
「俺のこと、かっこいいって思ってる?」
逃げ道のない訊き方だった。
でも、答えないほうがよほど不自然だ。
「……思ってます」
「うれしい」
たったそれだけで、耳が熱くなる。
廊下の向こうから誰かの足音がして、俺は慌てて視線を逸らした。
「あと」
藤代先輩が、少しだけ声を落とす。
「仲いいって言われたのも、うれしかった」
心臓が、また変な音を立てた。
笑って流せばいいのに、それもできない。
授業の始まりを告げる予鈴が鳴って、ようやく息をつく。
「戻らないと」
「うん」
なのに、すぐには足が動かなかった。
俺が立ち去るのを待つみたいに、藤代先輩がそこにいる。
その視線のやわらかさが、かえって落ち着かない。
「柏木」
「はい」
「今夜も、ちゃんと寝かせてあげる」
冗談みたいな口調だった。
けれど言い終わったあと、藤代先輩の目だけは少しも笑っていなかった。
胸の奥が、くすぐったいのと怖いのの間で、微妙に揺れる。
「……先輩、それ、言い方ずるいです」
「そう?」
そう言って笑う顔は、またいつもの穏やかなものに戻っていた。
午後の授業は、あまり頭に入らなかった。
ノートは取っている。
黒板も見ている。
でも、ずっと藤代先輩のことを考えている。
昼休みに教室まで来たこと。
クラスメイトがかっこいいと言ったこと。
そのくせ、誰も知らなかったこと。
そして、今夜も、と言われたこと。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、長谷川がまた話しかけてきた。
「柏木」
「うん」
「今日の先輩、何か用だったの」
「教科書忘れたって」
「それだけ?」
「たぶん」
長谷川は笑ってから、少しだけ声を潜めた。
「やっぱ仲いいじゃん」
否定しようとして、できなかった。
昨日会ったばかりの相手なのに、たしかに近すぎる空気がもうある。
それを自覚している自分がいちばん困る。
「……どうだろ」
「まあ、いいけどさ」
長谷川はそう言って、すぐに別の友達のほうへ走っていく。
残された俺は、その背中を見送りながら、昨日までの自分ならこんなふうに言われる位置には立たなかっただろうと思った。
転校先では、最初はなるべく目立たないようにしている。
誰かひとりと急に近くなりすぎない。
それが一番、あとで面倒がないからだ。
なのに、もう遅い気がした。
寮へ向かう坂道の途中、木立の影がアスファルトに細く落ちている。
その先に、藤代先輩が立っていた。
待ち合わせをしたわけでもないのに、俺はまっすぐそっちへ歩いていく。
「早かったね」
「先輩も」
「うん。今日はあんまり呼ばれてない」
並んで歩き出す。
肩が触れるわけでもないのに、ひとりで帰る時より足取りが軽い。
夕方の光は、昼よりやわらかい。
楠寮の屋根が見えてくるころには、胸の奥のざわつきも少しだけ静まっていた。
怖さが消えたわけじゃない。
何が起きているのかも、まだ分からない。
それでも、藤代先輩と並んで歩いている今だけは、違和感より先に安心が来る。
それが、いちばん危ないのかもしれないと、ふと思った。
