三〇七号室の見えない先輩

 翌日、藤代先輩を校舎で見かけた。

 休み時間の渡り廊下だった。
 窓際に立って、外を見ている。

 見つけた瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。

 きゅっとするのに、ふわふわする。
 変な感じだった。

 昨日の点呼のあと、俺はなかなか眠れなかった。

 三人で合っているはずなのに、小野寺さんが一瞬だけ、あれっという顔をしたこと。
 それなのに、夜の終わりには藤代先輩の腕の中で眠ってしまったこと。

 どう考えればいいのか、まだ分からない。

 ただ、渡り廊下の向こうに藤代先輩がいるのを見た時、また会えた、と思ってしまった。

 四時間目が終わって、教室の空気が一気に緩む。
 椅子を引く音、机の中から財布を出す音、食堂の混み具合をぼやく声。
 廊下には、もう昼飯へ向かう生徒たちが流れ始めていた。

「柏木、一緒に食堂行く?」

 前の席の男子が振り向いて訊いた。
 昨日、数学のノートを見せてくれたやつだ。

 長谷川陸斗。

 出席番号と、席順と、名前。
 そういうものを覚えるのは、昔から早かった。

「あ、うん」

 断る理由もなかった。
 まだ完全に馴染んだわけじゃないけれど、こういう誘いには乗っておいたほうが楽だと知っている。

「じゃ、ちょっと待って。あと二人呼ぶから」

 長谷川が隣の列に声をかける。
 それにつられて、二人ほどこっちへ寄ってきた。

「柏木ってさ、思ったより普通だよな」
「どういう意味」
「もっと静かだと思ってた」
「それ、昨日も言われた」
「顔がきれいなやつって勝手に壁ある感じしない?」
「失礼だな、お前」

 笑いながら適当に返す。
 こういう会話は、嫌いじゃない。
 踏み込みすぎなければ、むしろ楽だった。

 その時、廊下側の席のやつが、ふと入口のほうを見た。

「あれ、柏木のこと見てる?」

 つられて顔を上げる。

 教室の後ろの扉のところに、藤代先輩が立っていた。
 昼の光の中でも、すぐ目につく。
 制服の着方はきちんとしているのに、堅く見えない。背が高くて、廊下のざわついた光景の中でも輪郭だけきれいに浮いて見えた。

 目が合うと、藤代先輩がほんの少し笑う。

「ごめん、柏木いる?」

 教室の何人かがいっせいにそっちを見た。

「いるいる」
「柏木、呼ばれてる」
「先輩?」

 長谷川に肘で軽くつつかれる。

「行ってこいよ」

 立ち上がって教室の後ろへ向かうあいだも、視線が少し集まっているのが分かった。
 藤代先輩はそれを気にしたふうもなく、廊下側へ半歩下がる。

「どうしたんですか」

「五限の教科書、部屋に置いていっただろ」
「え」

 思わず自分の机を振り返った。

 教科書。
 ノート。
 筆箱。

 たしかに、五限で使うはずの化学の教科書だけが、なかった。

「……本当だ」

 変だった。

 俺は、こういう忘れ方をあまりしない。
 転校が多かったせいか、持ち物や時間割は先に確認しておく癖がついている。
 知らない場所で困らないように。
 誰かに迷惑をかけないように。

 それに。

 この人、俺の時間割まで把握してるのか。
 そう思ったのに、藤代先輩が差し出した教科書を見た瞬間、その違和感は少し薄れた。

「渡しに来た」
「……ありがとうございます」

 受け取ると、胸の奥が変にゆるんだ。

「柏木って、ちゃんとしてるから」
「……はい」
「たまには忘れてもいいよ」

 藤代先輩は、少しだけ笑った。

「俺が気づくから」

 おかしいはずなのに。
 その言葉の甘さに、頭がくらっとした。

「じゃ、また」
「はい」

 軽く手を上げて、藤代先輩は廊下の向こうへ歩いていく。

 教室へ戻ると、案の定、長谷川たちの視線が集まった。

「誰?」
「先輩」
「それは見れば分かる」
「同じ部屋」

 そう答えると、長谷川がへえ、と妙に納得した顔をする。

「なんか分かる」
「何が」
「仲いい感じ」
「いや、昨日来たばっかだし」
「でもあの人、柏木のことめっちゃ見てなかった?」

 言われて、少しだけ言葉に詰まる。

 見られていた気がする。
 でもそれを、そのまま肯定するのも変な気がした。

「気のせいじゃない?」
「えー、どうだろ」

 長谷川の隣を歩いていたやつが、食堂へ向かう廊下で笑った。

「ていうか、あの先輩、普通にかっこよくない?」
「分かる。目立つ」
「でも俺、見たことないかも」
「三年だよな?」
「寮違うと案外知らなくね?」

 長谷川がそう言って、少し首をかしげた。

「あんな人いたら、もうちょい噂になってそうだけど」

 その言い方が、妙に引っかかった。
 たしかに、藤代先輩は目立つ。
 廊下に立っているだけで、視線を集めるような人だ。

 なのに、誰の記憶にもまだきちんと引っかかっていない。

「柏木、あの人なんて名前?」
「藤代朔先輩」
「へー、藤代先輩」

 そのまま話題は、食堂の混み具合に流れた。
 何もおかしくないみたいに。

 でも俺だけが、さっきの小さな違和感を引きずっていた。

 藤代先輩は、あんなに目立つのに。

 どうして、誰も知らないんだろう。