翌日、藤代先輩を校舎で見かけた。
休み時間の渡り廊下だった。
窓際に立って、外を見ている。
見つけた瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。
きゅっとするのに、ふわふわする。
変な感じだった。
昨日の点呼のあと、俺はなかなか眠れなかった。
三人で合っているはずなのに、小野寺さんが一瞬だけ、あれっという顔をしたこと。
それなのに、夜の終わりには藤代先輩の腕の中で眠ってしまったこと。
どう考えればいいのか、まだ分からない。
ただ、渡り廊下の向こうに藤代先輩がいるのを見た時、また会えた、と思ってしまった。
四時間目が終わって、教室の空気が一気に緩む。
椅子を引く音、机の中から財布を出す音、食堂の混み具合をぼやく声。
廊下には、もう昼飯へ向かう生徒たちが流れ始めていた。
「柏木、一緒に食堂行く?」
前の席の男子が振り向いて訊いた。
昨日、数学のノートを見せてくれたやつだ。
長谷川陸斗。
出席番号と、席順と、名前。
そういうものを覚えるのは、昔から早かった。
「あ、うん」
断る理由もなかった。
まだ完全に馴染んだわけじゃないけれど、こういう誘いには乗っておいたほうが楽だと知っている。
「じゃ、ちょっと待って。あと二人呼ぶから」
長谷川が隣の列に声をかける。
それにつられて、二人ほどこっちへ寄ってきた。
「柏木ってさ、思ったより普通だよな」
「どういう意味」
「もっと静かだと思ってた」
「それ、昨日も言われた」
「顔がきれいなやつって勝手に壁ある感じしない?」
「失礼だな、お前」
笑いながら適当に返す。
こういう会話は、嫌いじゃない。
踏み込みすぎなければ、むしろ楽だった。
その時、廊下側の席のやつが、ふと入口のほうを見た。
「あれ、柏木のこと見てる?」
つられて顔を上げる。
教室の後ろの扉のところに、藤代先輩が立っていた。
昼の光の中でも、すぐ目につく。
制服の着方はきちんとしているのに、堅く見えない。背が高くて、廊下のざわついた光景の中でも輪郭だけきれいに浮いて見えた。
目が合うと、藤代先輩がほんの少し笑う。
「ごめん、柏木いる?」
教室の何人かがいっせいにそっちを見た。
「いるいる」
「柏木、呼ばれてる」
「先輩?」
長谷川に肘で軽くつつかれる。
「行ってこいよ」
立ち上がって教室の後ろへ向かうあいだも、視線が少し集まっているのが分かった。
藤代先輩はそれを気にしたふうもなく、廊下側へ半歩下がる。
「どうしたんですか」
「五限の教科書、部屋に置いていっただろ」
「え」
思わず自分の机を振り返った。
教科書。
ノート。
筆箱。
たしかに、五限で使うはずの化学の教科書だけが、なかった。
「……本当だ」
変だった。
俺は、こういう忘れ方をあまりしない。
転校が多かったせいか、持ち物や時間割は先に確認しておく癖がついている。
知らない場所で困らないように。
誰かに迷惑をかけないように。
それに。
この人、俺の時間割まで把握してるのか。
そう思ったのに、藤代先輩が差し出した教科書を見た瞬間、その違和感は少し薄れた。
「渡しに来た」
「……ありがとうございます」
受け取ると、胸の奥が変にゆるんだ。
「柏木って、ちゃんとしてるから」
「……はい」
「たまには忘れてもいいよ」
藤代先輩は、少しだけ笑った。
「俺が気づくから」
おかしいはずなのに。
その言葉の甘さに、頭がくらっとした。
「じゃ、また」
「はい」
軽く手を上げて、藤代先輩は廊下の向こうへ歩いていく。
教室へ戻ると、案の定、長谷川たちの視線が集まった。
「誰?」
「先輩」
「それは見れば分かる」
「同じ部屋」
そう答えると、長谷川がへえ、と妙に納得した顔をする。
「なんか分かる」
「何が」
「仲いい感じ」
「いや、昨日来たばっかだし」
「でもあの人、柏木のことめっちゃ見てなかった?」
言われて、少しだけ言葉に詰まる。
見られていた気がする。
でもそれを、そのまま肯定するのも変な気がした。
「気のせいじゃない?」
「えー、どうだろ」
長谷川の隣を歩いていたやつが、食堂へ向かう廊下で笑った。
「ていうか、あの先輩、普通にかっこよくない?」
「分かる。目立つ」
「でも俺、見たことないかも」
「三年だよな?」
「寮違うと案外知らなくね?」
長谷川がそう言って、少し首をかしげた。
「あんな人いたら、もうちょい噂になってそうだけど」
その言い方が、妙に引っかかった。
たしかに、藤代先輩は目立つ。
廊下に立っているだけで、視線を集めるような人だ。
なのに、誰の記憶にもまだきちんと引っかかっていない。
「柏木、あの人なんて名前?」
「藤代朔先輩」
「へー、藤代先輩」
そのまま話題は、食堂の混み具合に流れた。
何もおかしくないみたいに。
でも俺だけが、さっきの小さな違和感を引きずっていた。
藤代先輩は、あんなに目立つのに。
どうして、誰も知らないんだろう。
休み時間の渡り廊下だった。
窓際に立って、外を見ている。
見つけた瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。
きゅっとするのに、ふわふわする。
変な感じだった。
昨日の点呼のあと、俺はなかなか眠れなかった。
三人で合っているはずなのに、小野寺さんが一瞬だけ、あれっという顔をしたこと。
それなのに、夜の終わりには藤代先輩の腕の中で眠ってしまったこと。
どう考えればいいのか、まだ分からない。
ただ、渡り廊下の向こうに藤代先輩がいるのを見た時、また会えた、と思ってしまった。
四時間目が終わって、教室の空気が一気に緩む。
椅子を引く音、机の中から財布を出す音、食堂の混み具合をぼやく声。
廊下には、もう昼飯へ向かう生徒たちが流れ始めていた。
「柏木、一緒に食堂行く?」
前の席の男子が振り向いて訊いた。
昨日、数学のノートを見せてくれたやつだ。
長谷川陸斗。
出席番号と、席順と、名前。
そういうものを覚えるのは、昔から早かった。
「あ、うん」
断る理由もなかった。
まだ完全に馴染んだわけじゃないけれど、こういう誘いには乗っておいたほうが楽だと知っている。
「じゃ、ちょっと待って。あと二人呼ぶから」
長谷川が隣の列に声をかける。
それにつられて、二人ほどこっちへ寄ってきた。
「柏木ってさ、思ったより普通だよな」
「どういう意味」
「もっと静かだと思ってた」
「それ、昨日も言われた」
「顔がきれいなやつって勝手に壁ある感じしない?」
「失礼だな、お前」
笑いながら適当に返す。
こういう会話は、嫌いじゃない。
踏み込みすぎなければ、むしろ楽だった。
その時、廊下側の席のやつが、ふと入口のほうを見た。
「あれ、柏木のこと見てる?」
つられて顔を上げる。
教室の後ろの扉のところに、藤代先輩が立っていた。
昼の光の中でも、すぐ目につく。
制服の着方はきちんとしているのに、堅く見えない。背が高くて、廊下のざわついた光景の中でも輪郭だけきれいに浮いて見えた。
目が合うと、藤代先輩がほんの少し笑う。
「ごめん、柏木いる?」
教室の何人かがいっせいにそっちを見た。
「いるいる」
「柏木、呼ばれてる」
「先輩?」
長谷川に肘で軽くつつかれる。
「行ってこいよ」
立ち上がって教室の後ろへ向かうあいだも、視線が少し集まっているのが分かった。
藤代先輩はそれを気にしたふうもなく、廊下側へ半歩下がる。
「どうしたんですか」
「五限の教科書、部屋に置いていっただろ」
「え」
思わず自分の机を振り返った。
教科書。
ノート。
筆箱。
たしかに、五限で使うはずの化学の教科書だけが、なかった。
「……本当だ」
変だった。
俺は、こういう忘れ方をあまりしない。
転校が多かったせいか、持ち物や時間割は先に確認しておく癖がついている。
知らない場所で困らないように。
誰かに迷惑をかけないように。
それに。
この人、俺の時間割まで把握してるのか。
そう思ったのに、藤代先輩が差し出した教科書を見た瞬間、その違和感は少し薄れた。
「渡しに来た」
「……ありがとうございます」
受け取ると、胸の奥が変にゆるんだ。
「柏木って、ちゃんとしてるから」
「……はい」
「たまには忘れてもいいよ」
藤代先輩は、少しだけ笑った。
「俺が気づくから」
おかしいはずなのに。
その言葉の甘さに、頭がくらっとした。
「じゃ、また」
「はい」
軽く手を上げて、藤代先輩は廊下の向こうへ歩いていく。
教室へ戻ると、案の定、長谷川たちの視線が集まった。
「誰?」
「先輩」
「それは見れば分かる」
「同じ部屋」
そう答えると、長谷川がへえ、と妙に納得した顔をする。
「なんか分かる」
「何が」
「仲いい感じ」
「いや、昨日来たばっかだし」
「でもあの人、柏木のことめっちゃ見てなかった?」
言われて、少しだけ言葉に詰まる。
見られていた気がする。
でもそれを、そのまま肯定するのも変な気がした。
「気のせいじゃない?」
「えー、どうだろ」
長谷川の隣を歩いていたやつが、食堂へ向かう廊下で笑った。
「ていうか、あの先輩、普通にかっこよくない?」
「分かる。目立つ」
「でも俺、見たことないかも」
「三年だよな?」
「寮違うと案外知らなくね?」
長谷川がそう言って、少し首をかしげた。
「あんな人いたら、もうちょい噂になってそうだけど」
その言い方が、妙に引っかかった。
たしかに、藤代先輩は目立つ。
廊下に立っているだけで、視線を集めるような人だ。
なのに、誰の記憶にもまだきちんと引っかかっていない。
「柏木、あの人なんて名前?」
「藤代朔先輩」
「へー、藤代先輩」
そのまま話題は、食堂の混み具合に流れた。
何もおかしくないみたいに。
でも俺だけが、さっきの小さな違和感を引きずっていた。
藤代先輩は、あんなに目立つのに。
どうして、誰も知らないんだろう。
