三〇七号室の見えない先輩

 その夜も、なかなか眠れなかった。

 古い寮は、電気を消してしまうと昼よりずっと古くなる。
 どこかでベッドの軋む音がして、少し遅れて廊下を歩く足音が響く。
 木の匂いのする暗がりの中で、俺は布団を引き上げた。

 昼間は平気だったはずなのに、夜になると、知らない場所にいることだけが妙にはっきりする。
 隣のベッドからは真田先輩の寝息が落ちてきて、それがかえって、自分だけ眠れていないことを際立たせた。

 いつのまにか、浅い眠りに沈んでいた。

 夢の中で、俺は前の学校の教室に立っていた。

 扉を開けても、誰も驚かない。
 前に話していたはずの男子が、俺の顔を見て、少し首をかしげる。

「誰だっけ」

 自分の席があった場所には、知らない机が置かれていた。
 黒板の出席番号にも、柏木透の名前はない。

 名乗らなきゃいけないのに、声が出ない。

 場面が変わる。
 祖父母の家の玄関だった。
 出てきた祖母は、俺を見て、困ったように笑う。

「……どちらさん?」

 俺です。
 透です。

 そう言いたいのに、喉が動かない。

 祖母の奥、居間の方に父がいた。

 こちらに気づいているはずだった。
 気づいていないはずがない距離だった。

 なのに、父は顔を上げなかった。

 テレビの方を見ている。
 手元の湯呑みを見ている。
 俺の方だけを、見ない。

 忘れられるより、ずっと嫌だった。

 知らない人みたいに首をかしげられるより。
 名前を間違えられるより。
 そこにいると分かっているのに、目を合わせてもらえないことの方が、ずっと。

「父さん」

 声は出なかった。

 父の横顔は、夢の中でも遠かった。

 俺は玄関に立ったまま、靴も脱げずにいる。
 祖母はまだ、困った顔で俺を見ている。

「どちらさん?」

 もう一度、そう聞かれた。

 その奥で、父は一度もこちらを見なかった。

「大丈夫? 柏木」

 低い声が、すぐそばでした。

 そこで俺は目を開けた。
 暗い部屋だった。寮の天井がぼんやり見える。
 胸の奥がまだ苦しくて、うまく息が整わない。

 視界の端に、藤代先輩がいた。

「俺のこと、覚えて」

 自分でも、子どもみたいだと思った。
 けれど止められなかった。
 夢の中で、誰の中にも自分が残っていない気がして、怖かった。

 藤代先輩は少しも笑わなかった。

「うん、覚えてるよ」

 静かな声だった。
 その一言で、張りつめていたものが少しだけゆるむ。

 藤代先輩の手が、そっと俺の背中に触れる。

「……忘れられるの、怖い?」

 その言葉で、俺ははっとした。

 そうか、と思った。
 俺は、怖かったんだ。

「……怖い」
「そっか。大丈夫」

 抱きしめるというより、そこにいると確かめるみたいに、藤代先輩の腕が背中に回る。
 強くはないのに、その体温だけで、ばらばらだった呼吸が少しずつ整っていった。

 俺は無意識に、藤代先輩の袖をつかんだ。
 離せとも、どうしたとも言われない。

 ただ静かに、背中を撫でられる。

 この人といると、楽だと思った。

 まだ、どうしてかは分からない。
 ただ今だけは、離れないでほしかった。

 抱きしめられたまま、俺は安心して眠りに落ちた。
 胸の奥に、くすぐったいみたいな熱だけが、そっと残っていた。

***

 翌朝。

 洗面所は、この時間ならまだ空いていた。
 蛇口をひねって、冷たい水で顔を洗う。
 目が覚める。

 昨夜のことが、水と一緒に少し遠くなる気がした。
 顔を上げて、鏡を見た。
 おかしかった。
 見えている。目も、鼻も、口も、ちゃんとそこにある。

 でも、それが「柏木透」だと分からない。
 パーツだけがばらばらに並んでいて、人の顔として結べない。自分の顔のはずなのに、知らない誰かの顔みたいに浮いている。

 瞬きをした。

 二回。三回。

 鏡の中の顔が、少しずつ戻ってくる。目が、鼻が、輪郭が、「俺」として繋がっていく。

 十秒も経たなかったと思う。
 でも、水を止めた手が、かすかに震えていた。
 寝不足だ、と思った。
 昨日は、なかなか眠れなかった。
 藤代先輩のことを考えていた。
 点呼の時の、小野寺さんの一瞬の表情を考えていた。

 それだけのことだ。

 洗面台の端を握って、もう一度だけ鏡を見る。
 今度は、ちゃんと俺だった。
 柏木透。二年生。楠寮三〇七。
 名前を、頭の中で繰り返した。
 当たり前のことを確かめるみたいに、もう一度。

 柏木透。

 それだけで、なぜか少しだけ怖かった。