その夜も、なかなか眠れなかった。
古い寮は、電気を消してしまうと昼よりずっと古くなる。
どこかでベッドの軋む音がして、少し遅れて廊下を歩く足音が響く。
木の匂いのする暗がりの中で、俺は布団を引き上げた。
昼間は平気だったはずなのに、夜になると、知らない場所にいることだけが妙にはっきりする。
隣のベッドからは真田先輩の寝息が落ちてきて、それがかえって、自分だけ眠れていないことを際立たせた。
いつのまにか、浅い眠りに沈んでいた。
夢の中で、俺は前の学校の教室に立っていた。
扉を開けても、誰も驚かない。
前に話していたはずの男子が、俺の顔を見て、少し首をかしげる。
「誰だっけ」
自分の席があった場所には、知らない机が置かれていた。
黒板の出席番号にも、柏木透の名前はない。
名乗らなきゃいけないのに、声が出ない。
場面が変わる。
祖父母の家の玄関だった。
出てきた祖母は、俺を見て、困ったように笑う。
「……どちらさん?」
俺です。
透です。
そう言いたいのに、喉が動かない。
祖母の奥、居間の方に父がいた。
こちらに気づいているはずだった。
気づいていないはずがない距離だった。
なのに、父は顔を上げなかった。
テレビの方を見ている。
手元の湯呑みを見ている。
俺の方だけを、見ない。
忘れられるより、ずっと嫌だった。
知らない人みたいに首をかしげられるより。
名前を間違えられるより。
そこにいると分かっているのに、目を合わせてもらえないことの方が、ずっと。
「父さん」
声は出なかった。
父の横顔は、夢の中でも遠かった。
俺は玄関に立ったまま、靴も脱げずにいる。
祖母はまだ、困った顔で俺を見ている。
「どちらさん?」
もう一度、そう聞かれた。
その奥で、父は一度もこちらを見なかった。
「大丈夫? 柏木」
低い声が、すぐそばでした。
そこで俺は目を開けた。
暗い部屋だった。寮の天井がぼんやり見える。
胸の奥がまだ苦しくて、うまく息が整わない。
視界の端に、藤代先輩がいた。
「俺のこと、覚えて」
自分でも、子どもみたいだと思った。
けれど止められなかった。
夢の中で、誰の中にも自分が残っていない気がして、怖かった。
藤代先輩は少しも笑わなかった。
「うん、覚えてるよ」
静かな声だった。
その一言で、張りつめていたものが少しだけゆるむ。
藤代先輩の手が、そっと俺の背中に触れる。
「……忘れられるの、怖い?」
その言葉で、俺ははっとした。
そうか、と思った。
俺は、怖かったんだ。
「……怖い」
「そっか。大丈夫」
抱きしめるというより、そこにいると確かめるみたいに、藤代先輩の腕が背中に回る。
強くはないのに、その体温だけで、ばらばらだった呼吸が少しずつ整っていった。
俺は無意識に、藤代先輩の袖をつかんだ。
離せとも、どうしたとも言われない。
ただ静かに、背中を撫でられる。
この人といると、楽だと思った。
まだ、どうしてかは分からない。
ただ今だけは、離れないでほしかった。
抱きしめられたまま、俺は安心して眠りに落ちた。
胸の奥に、くすぐったいみたいな熱だけが、そっと残っていた。
***
翌朝。
洗面所は、この時間ならまだ空いていた。
蛇口をひねって、冷たい水で顔を洗う。
目が覚める。
昨夜のことが、水と一緒に少し遠くなる気がした。
顔を上げて、鏡を見た。
おかしかった。
見えている。目も、鼻も、口も、ちゃんとそこにある。
でも、それが「柏木透」だと分からない。
パーツだけがばらばらに並んでいて、人の顔として結べない。自分の顔のはずなのに、知らない誰かの顔みたいに浮いている。
瞬きをした。
二回。三回。
鏡の中の顔が、少しずつ戻ってくる。目が、鼻が、輪郭が、「俺」として繋がっていく。
十秒も経たなかったと思う。
でも、水を止めた手が、かすかに震えていた。
寝不足だ、と思った。
昨日は、なかなか眠れなかった。
藤代先輩のことを考えていた。
点呼の時の、小野寺さんの一瞬の表情を考えていた。
それだけのことだ。
洗面台の端を握って、もう一度だけ鏡を見る。
今度は、ちゃんと俺だった。
柏木透。二年生。楠寮三〇七。
名前を、頭の中で繰り返した。
当たり前のことを確かめるみたいに、もう一度。
柏木透。
それだけで、なぜか少しだけ怖かった。
古い寮は、電気を消してしまうと昼よりずっと古くなる。
どこかでベッドの軋む音がして、少し遅れて廊下を歩く足音が響く。
木の匂いのする暗がりの中で、俺は布団を引き上げた。
昼間は平気だったはずなのに、夜になると、知らない場所にいることだけが妙にはっきりする。
隣のベッドからは真田先輩の寝息が落ちてきて、それがかえって、自分だけ眠れていないことを際立たせた。
いつのまにか、浅い眠りに沈んでいた。
夢の中で、俺は前の学校の教室に立っていた。
扉を開けても、誰も驚かない。
前に話していたはずの男子が、俺の顔を見て、少し首をかしげる。
「誰だっけ」
自分の席があった場所には、知らない机が置かれていた。
黒板の出席番号にも、柏木透の名前はない。
名乗らなきゃいけないのに、声が出ない。
場面が変わる。
祖父母の家の玄関だった。
出てきた祖母は、俺を見て、困ったように笑う。
「……どちらさん?」
俺です。
透です。
そう言いたいのに、喉が動かない。
祖母の奥、居間の方に父がいた。
こちらに気づいているはずだった。
気づいていないはずがない距離だった。
なのに、父は顔を上げなかった。
テレビの方を見ている。
手元の湯呑みを見ている。
俺の方だけを、見ない。
忘れられるより、ずっと嫌だった。
知らない人みたいに首をかしげられるより。
名前を間違えられるより。
そこにいると分かっているのに、目を合わせてもらえないことの方が、ずっと。
「父さん」
声は出なかった。
父の横顔は、夢の中でも遠かった。
俺は玄関に立ったまま、靴も脱げずにいる。
祖母はまだ、困った顔で俺を見ている。
「どちらさん?」
もう一度、そう聞かれた。
その奥で、父は一度もこちらを見なかった。
「大丈夫? 柏木」
低い声が、すぐそばでした。
そこで俺は目を開けた。
暗い部屋だった。寮の天井がぼんやり見える。
胸の奥がまだ苦しくて、うまく息が整わない。
視界の端に、藤代先輩がいた。
「俺のこと、覚えて」
自分でも、子どもみたいだと思った。
けれど止められなかった。
夢の中で、誰の中にも自分が残っていない気がして、怖かった。
藤代先輩は少しも笑わなかった。
「うん、覚えてるよ」
静かな声だった。
その一言で、張りつめていたものが少しだけゆるむ。
藤代先輩の手が、そっと俺の背中に触れる。
「……忘れられるの、怖い?」
その言葉で、俺ははっとした。
そうか、と思った。
俺は、怖かったんだ。
「……怖い」
「そっか。大丈夫」
抱きしめるというより、そこにいると確かめるみたいに、藤代先輩の腕が背中に回る。
強くはないのに、その体温だけで、ばらばらだった呼吸が少しずつ整っていった。
俺は無意識に、藤代先輩の袖をつかんだ。
離せとも、どうしたとも言われない。
ただ静かに、背中を撫でられる。
この人といると、楽だと思った。
まだ、どうしてかは分からない。
ただ今だけは、離れないでほしかった。
抱きしめられたまま、俺は安心して眠りに落ちた。
胸の奥に、くすぐったいみたいな熱だけが、そっと残っていた。
***
翌朝。
洗面所は、この時間ならまだ空いていた。
蛇口をひねって、冷たい水で顔を洗う。
目が覚める。
昨夜のことが、水と一緒に少し遠くなる気がした。
顔を上げて、鏡を見た。
おかしかった。
見えている。目も、鼻も、口も、ちゃんとそこにある。
でも、それが「柏木透」だと分からない。
パーツだけがばらばらに並んでいて、人の顔として結べない。自分の顔のはずなのに、知らない誰かの顔みたいに浮いている。
瞬きをした。
二回。三回。
鏡の中の顔が、少しずつ戻ってくる。目が、鼻が、輪郭が、「俺」として繋がっていく。
十秒も経たなかったと思う。
でも、水を止めた手が、かすかに震えていた。
寝不足だ、と思った。
昨日は、なかなか眠れなかった。
藤代先輩のことを考えていた。
点呼の時の、小野寺さんの一瞬の表情を考えていた。
それだけのことだ。
洗面台の端を握って、もう一度だけ鏡を見る。
今度は、ちゃんと俺だった。
柏木透。二年生。楠寮三〇七。
名前を、頭の中で繰り返した。
当たり前のことを確かめるみたいに、もう一度。
柏木透。
それだけで、なぜか少しだけ怖かった。
