三〇七号室の見えない先輩

 俺が何も返せずにいると、藤代先輩は気にしたふうもなく窓際へ歩いた。
 カーテンを少し開け、外の様子を見てからこちらを振り返る。

「学校どうだった」
「思ったより普通でした」
「それならよかった」
「六月に転校なんて珍しいって、今日だけで三回言われましたけど」
「少なめだな」

 思わず笑ってしまう。
 藤代先輩もつられたように笑った。夜に似合う顔だと思っていたけれど、夕方の光の中でもきれいだった。

「真田先輩て、生徒会長っぽいですよね」
「だろ」
「だろ、で済むんですね」
「あいつ、ああ見えてちゃんと面倒見いいから。助かるよ」

 少しだけ間があってから、藤代先輩は続けた。

「俺、寮監手伝うこと多いから、部屋空けることあるし」

 昨日も言っていた用事の中身が、それでやっと腑に落ちた。

「だから昨日も?」
「うん。確認とか、戸締まりとか、細かいやつ」
「先輩、便利に使われてません?」
「否定はしない」

 また笑う。こういうやり取りが、もう少し続けばいいのにと思った。

 その時、廊下から足音が近づいてきた。

「真田先輩かな」

 扉が開いて、真田先輩がプリントの束を片手に入ってくる。

「ただいま。うわ、片づいてる」
「途中までですけど」
「十分十分」

 真田先輩の視線が、俺の肩越しで止まった。
 けれど次の瞬間には、何も見なかったみたいに逸らされる。

「どうした?」
「いえ」

 答えるより先に、真田先輩が首の後ろをかいた。

「……同室、だったよな」

 小さくそう呟いてから、すぐに自分でも腑に落ちていないように笑う。

「ああ、いや、ごめん。何でもない」

 真田先輩は自分の机にプリントを放った。

「今日さ、寮監から新入りの点呼の説明しとけって言われてて」
「点呼?」
「平日は毎日ある。昨日は日曜だったからなし。休日は外泊届さえ出してれば自由行動扱いなんだよ」
「へえ」
「まあ、自由って言っても山奥だけどな」

 その一言で、昨日、藤代先輩が言っていたことを思い出す。
 めんどくさいのは点呼くらい、というやつだ。

「そんなに大変なんですか」
「大変ってほどじゃないけど、毎日あるからだるい。扉開けて、返事して終わり」
「それだけ?」
「それだけ」

 真田先輩は肩をすくめた。
 それから、話は夕飯の時間に流れた。

 食堂で夕飯を済ませ、風呂に入り、部屋へ戻るころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 真田先輩はベッドに寝転がってスマホを見ている。
 俺は机の上に明日の時間割を並べ、配られたプリントを見返した。

 静かな夜だった。

 ふと気配を感じて顔を上げる。

 窓際。

 暗がりに、藤代先輩が立っていた。

 昨日と同じだ、と思う。

 声をかけようとして、やめた。
 そこにいるのは分かる。
 真田先輩だって、さっきはたぶん見ていた。

 それなのに、部屋の空気だけが、藤代先輩を数に入れていない気がした。

 なんで、そんな変なことを思うんだろう。
 そんなはずはない。

 藤代先輩は何も言わない。
 ただ、俺にだけ見えているみたいな静かな顔で、こちらを見ている。

 その時、廊下から足音が近づいてきた。

「あ、来た来た」

 真田先輩がスマホを伏せて立ち上がる。

 扉が二度、叩かれた。

「三〇七、点呼」

 低い声がする。
 寮監だ。

 真田先輩が扉を開ける。

 廊下に立っていたのは、寮監の小野寺さんだった。
 白髪交じりの短い髪に、古いジャージ。片手には、使い込まれたバインダーを持っている。
 小野寺さんは、部屋の中を一度だけ見た。

 真田先輩。
 俺。
 窓際の藤代先輩。

 その視線の動きは、あまりにも自然だった。

「真田」
「はい」
「柏木」
「はい」

 小野寺さんは、バインダーに目を落とした。

「榊は不在だな」
「はい。まだ戻ってません」
「そうか」

 真田先輩の返事に、小野寺さんは短く頷いた。
 それから、ごく普通の声で続けた。

「藤代」
「はい、います」

 窓際で、藤代先輩が返事をした。
 低くて、やわらかい声だった。

 その瞬間、小野寺さんの手が止まった。

 ほんの一瞬だった。
 バインダーを持つ指先が、わずかに強張ったように見えた。

「……」

 小野寺さんは、ゆっくり顔を上げた。
 窓際を見る。
 藤代先輩は、そこにいる。
 小野寺さんは、まるで今初めて何かに気づいたみたいな顔をした。

 次の瞬間には、もうその表情は消えていた。

「……ああ」

 低く息を吐く。

「今日は三人だな」

 紙を閉じる音が、やけに大きく響いた。

「消灯後は出歩くな」
「了解です」

 真田先輩が返事をする。
 小野寺さんはもう一度だけ、窓際を見た。
 何かを言いかけたように見えた。

 でも結局、何も言わずに隣の部屋へ向かった。

 足音が遠ざかっていく。
 俺はゆっくり顔を上げた。

 真田先輩。
 俺。
 窓際の藤代先輩。

 数は合っている。

 合っているはずなのに、どうしてこんなに胸がざわざわするんだろう。
 黙ったまま藤代先輩を見ていると、藤代先輩はいつもの穏やかな顔でこっちを見返した。

「どうした?」

 その言い方があまりに自然で、余計に何も言えなくなる。
 真田先輩は気づいていない。
 スマホを拾い上げて、「今日も一瞬」と笑っている。

 俺だけが、動けなかった。