俺が何も返せずにいると、藤代先輩は気にしたふうもなく窓際へ歩いた。
カーテンを少し開け、外の様子を見てからこちらを振り返る。
「学校どうだった」
「思ったより普通でした」
「それならよかった」
「六月に転校なんて珍しいって、今日だけで三回言われましたけど」
「少なめだな」
思わず笑ってしまう。
藤代先輩もつられたように笑った。夜に似合う顔だと思っていたけれど、夕方の光の中でもきれいだった。
「真田先輩て、生徒会長っぽいですよね」
「だろ」
「だろ、で済むんですね」
「あいつ、ああ見えてちゃんと面倒見いいから。助かるよ」
少しだけ間があってから、藤代先輩は続けた。
「俺、寮監手伝うこと多いから、部屋空けることあるし」
昨日も言っていた用事の中身が、それでやっと腑に落ちた。
「だから昨日も?」
「うん。確認とか、戸締まりとか、細かいやつ」
「先輩、便利に使われてません?」
「否定はしない」
また笑う。こういうやり取りが、もう少し続けばいいのにと思った。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「真田先輩かな」
扉が開いて、真田先輩がプリントの束を片手に入ってくる。
「ただいま。うわ、片づいてる」
「途中までですけど」
「十分十分」
真田先輩の視線が、俺の肩越しで止まった。
けれど次の瞬間には、何も見なかったみたいに逸らされる。
「どうした?」
「いえ」
答えるより先に、真田先輩が首の後ろをかいた。
「……同室、だったよな」
小さくそう呟いてから、すぐに自分でも腑に落ちていないように笑う。
「ああ、いや、ごめん。何でもない」
真田先輩は自分の机にプリントを放った。
「今日さ、寮監から新入りの点呼の説明しとけって言われてて」
「点呼?」
「平日は毎日ある。昨日は日曜だったからなし。休日は外泊届さえ出してれば自由行動扱いなんだよ」
「へえ」
「まあ、自由って言っても山奥だけどな」
その一言で、昨日、藤代先輩が言っていたことを思い出す。
めんどくさいのは点呼くらい、というやつだ。
「そんなに大変なんですか」
「大変ってほどじゃないけど、毎日あるからだるい。扉開けて、返事して終わり」
「それだけ?」
「それだけ」
真田先輩は肩をすくめた。
それから、話は夕飯の時間に流れた。
食堂で夕飯を済ませ、風呂に入り、部屋へ戻るころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
真田先輩はベッドに寝転がってスマホを見ている。
俺は机の上に明日の時間割を並べ、配られたプリントを見返した。
静かな夜だった。
ふと気配を感じて顔を上げる。
窓際。
暗がりに、藤代先輩が立っていた。
昨日と同じだ、と思う。
声をかけようとして、やめた。
そこにいるのは分かる。
真田先輩だって、さっきはたぶん見ていた。
それなのに、部屋の空気だけが、藤代先輩を数に入れていない気がした。
なんで、そんな変なことを思うんだろう。
そんなはずはない。
藤代先輩は何も言わない。
ただ、俺にだけ見えているみたいな静かな顔で、こちらを見ている。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「あ、来た来た」
真田先輩がスマホを伏せて立ち上がる。
扉が二度、叩かれた。
「三〇七、点呼」
低い声がする。
寮監だ。
真田先輩が扉を開ける。
廊下に立っていたのは、寮監の小野寺さんだった。
白髪交じりの短い髪に、古いジャージ。片手には、使い込まれたバインダーを持っている。
小野寺さんは、部屋の中を一度だけ見た。
真田先輩。
俺。
窓際の藤代先輩。
その視線の動きは、あまりにも自然だった。
「真田」
「はい」
「柏木」
「はい」
小野寺さんは、バインダーに目を落とした。
「榊は不在だな」
「はい。まだ戻ってません」
「そうか」
真田先輩の返事に、小野寺さんは短く頷いた。
それから、ごく普通の声で続けた。
「藤代」
「はい、います」
窓際で、藤代先輩が返事をした。
低くて、やわらかい声だった。
その瞬間、小野寺さんの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
バインダーを持つ指先が、わずかに強張ったように見えた。
「……」
小野寺さんは、ゆっくり顔を上げた。
窓際を見る。
藤代先輩は、そこにいる。
小野寺さんは、まるで今初めて何かに気づいたみたいな顔をした。
次の瞬間には、もうその表情は消えていた。
「……ああ」
低く息を吐く。
「今日は三人だな」
紙を閉じる音が、やけに大きく響いた。
「消灯後は出歩くな」
「了解です」
真田先輩が返事をする。
小野寺さんはもう一度だけ、窓際を見た。
何かを言いかけたように見えた。
でも結局、何も言わずに隣の部屋へ向かった。
足音が遠ざかっていく。
俺はゆっくり顔を上げた。
真田先輩。
俺。
窓際の藤代先輩。
数は合っている。
合っているはずなのに、どうしてこんなに胸がざわざわするんだろう。
黙ったまま藤代先輩を見ていると、藤代先輩はいつもの穏やかな顔でこっちを見返した。
「どうした?」
その言い方があまりに自然で、余計に何も言えなくなる。
真田先輩は気づいていない。
スマホを拾い上げて、「今日も一瞬」と笑っている。
俺だけが、動けなかった。
カーテンを少し開け、外の様子を見てからこちらを振り返る。
「学校どうだった」
「思ったより普通でした」
「それならよかった」
「六月に転校なんて珍しいって、今日だけで三回言われましたけど」
「少なめだな」
思わず笑ってしまう。
藤代先輩もつられたように笑った。夜に似合う顔だと思っていたけれど、夕方の光の中でもきれいだった。
「真田先輩て、生徒会長っぽいですよね」
「だろ」
「だろ、で済むんですね」
「あいつ、ああ見えてちゃんと面倒見いいから。助かるよ」
少しだけ間があってから、藤代先輩は続けた。
「俺、寮監手伝うこと多いから、部屋空けることあるし」
昨日も言っていた用事の中身が、それでやっと腑に落ちた。
「だから昨日も?」
「うん。確認とか、戸締まりとか、細かいやつ」
「先輩、便利に使われてません?」
「否定はしない」
また笑う。こういうやり取りが、もう少し続けばいいのにと思った。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「真田先輩かな」
扉が開いて、真田先輩がプリントの束を片手に入ってくる。
「ただいま。うわ、片づいてる」
「途中までですけど」
「十分十分」
真田先輩の視線が、俺の肩越しで止まった。
けれど次の瞬間には、何も見なかったみたいに逸らされる。
「どうした?」
「いえ」
答えるより先に、真田先輩が首の後ろをかいた。
「……同室、だったよな」
小さくそう呟いてから、すぐに自分でも腑に落ちていないように笑う。
「ああ、いや、ごめん。何でもない」
真田先輩は自分の机にプリントを放った。
「今日さ、寮監から新入りの点呼の説明しとけって言われてて」
「点呼?」
「平日は毎日ある。昨日は日曜だったからなし。休日は外泊届さえ出してれば自由行動扱いなんだよ」
「へえ」
「まあ、自由って言っても山奥だけどな」
その一言で、昨日、藤代先輩が言っていたことを思い出す。
めんどくさいのは点呼くらい、というやつだ。
「そんなに大変なんですか」
「大変ってほどじゃないけど、毎日あるからだるい。扉開けて、返事して終わり」
「それだけ?」
「それだけ」
真田先輩は肩をすくめた。
それから、話は夕飯の時間に流れた。
食堂で夕飯を済ませ、風呂に入り、部屋へ戻るころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
真田先輩はベッドに寝転がってスマホを見ている。
俺は机の上に明日の時間割を並べ、配られたプリントを見返した。
静かな夜だった。
ふと気配を感じて顔を上げる。
窓際。
暗がりに、藤代先輩が立っていた。
昨日と同じだ、と思う。
声をかけようとして、やめた。
そこにいるのは分かる。
真田先輩だって、さっきはたぶん見ていた。
それなのに、部屋の空気だけが、藤代先輩を数に入れていない気がした。
なんで、そんな変なことを思うんだろう。
そんなはずはない。
藤代先輩は何も言わない。
ただ、俺にだけ見えているみたいな静かな顔で、こちらを見ている。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「あ、来た来た」
真田先輩がスマホを伏せて立ち上がる。
扉が二度、叩かれた。
「三〇七、点呼」
低い声がする。
寮監だ。
真田先輩が扉を開ける。
廊下に立っていたのは、寮監の小野寺さんだった。
白髪交じりの短い髪に、古いジャージ。片手には、使い込まれたバインダーを持っている。
小野寺さんは、部屋の中を一度だけ見た。
真田先輩。
俺。
窓際の藤代先輩。
その視線の動きは、あまりにも自然だった。
「真田」
「はい」
「柏木」
「はい」
小野寺さんは、バインダーに目を落とした。
「榊は不在だな」
「はい。まだ戻ってません」
「そうか」
真田先輩の返事に、小野寺さんは短く頷いた。
それから、ごく普通の声で続けた。
「藤代」
「はい、います」
窓際で、藤代先輩が返事をした。
低くて、やわらかい声だった。
その瞬間、小野寺さんの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
バインダーを持つ指先が、わずかに強張ったように見えた。
「……」
小野寺さんは、ゆっくり顔を上げた。
窓際を見る。
藤代先輩は、そこにいる。
小野寺さんは、まるで今初めて何かに気づいたみたいな顔をした。
次の瞬間には、もうその表情は消えていた。
「……ああ」
低く息を吐く。
「今日は三人だな」
紙を閉じる音が、やけに大きく響いた。
「消灯後は出歩くな」
「了解です」
真田先輩が返事をする。
小野寺さんはもう一度だけ、窓際を見た。
何かを言いかけたように見えた。
でも結局、何も言わずに隣の部屋へ向かった。
足音が遠ざかっていく。
俺はゆっくり顔を上げた。
真田先輩。
俺。
窓際の藤代先輩。
数は合っている。
合っているはずなのに、どうしてこんなに胸がざわざわするんだろう。
黙ったまま藤代先輩を見ていると、藤代先輩はいつもの穏やかな顔でこっちを見返した。
「どうした?」
その言い方があまりに自然で、余計に何も言えなくなる。
真田先輩は気づいていない。
スマホを拾い上げて、「今日も一瞬」と笑っている。
俺だけが、動けなかった。
