三〇七号室の見えない先輩

 翌朝、目が覚めた時、部屋には俺しかいなかった。
 カーテンの隙間から白い光が差している。枕元のスマホを見ると、六時半。目覚ましより少し早い。

 昨夜は結局、寝つきが浅かった。

 藤代先輩のことを考えていたせいだと思う。

 玄関で札を掛けた時の立ちくらみとか、破れた紙の感触とか、真田先輩が三人部屋か四人部屋か分からなくなったこととか。
 なんだか気になることがいくつかあった。

 それなのに一番はっきり残っているのは、外階段で抱き留められた時の感触だった。

 胸元にぶつかった衝撃。
 肩から背中に回った腕の熱。
 落ちる、と思った直後に、近すぎる距離で止められたこと。

 思い出すと、怖いのとは少し違うところで心臓がうるさくなる。

 それが、落ち着かなかった。

 ベッドから下りて支度をしていると、扉が開いた。真田先輩がタオルを首にかけたまま入ってくる。

「起きてた?」
「今ちょうど」
「えらい。朝飯、早めに行くとまだ空いてる」

 そう言って、自分のロッカーを開ける手際がやたらいい。昨日も思ったけれど、この人は生活の段取りが頭に入っている。

「榊さんって、まだ戻らないんですか」

 つい口にすると、真田先輩は寝癖を直しながら鏡越しにこっちを見た。

「一週間くらいかな。実家の手伝いってことになってる」
「……ってことになってる?」
「表向きは、っていうか。もともとちょっと無理してたし、今は休ませといたほうがいいんだよ」
「体調悪いんですか」
「悪いっていうか、疲れてる。あいつ、変に頑張るから。
 まあ、帰ってきたら分かるよ。あいつ、存在感あるし」

 昨日より少しだけ情報は増えたけれど、結局それ以上は聞けなかった。

 食堂へ向かう途中、渡り廊下の窓から外階段が見えた。
 昨日、藤代先輩に近道だと教えられた階段だ。

 けれど今朝のそこには、黄色いロープが張られていた。

「あれ」

 思わず立ち止まると、真田先輩が振り返る。

「どうした」
「外階段、使えないんですか」

 窓の向こうを指さすと、真田先輩は少しだけ目を細めた。

「ああ、あそこはだいぶ前から封鎖されてる。危ないから近づくなって言われてるやつ」

 どういうことだろう。

 食堂で藤代先輩を探したけれど、見当たらなかった。
 昨日あれだけ自然にいた人がいないだけで、少しだけ席の周りが広く感じる。

 朝食を終えると、真田先輩はトレーを片づけながらスマホを見た。

「悪い、俺ちょっと早めに行くわ。生徒会で呼ばれてる」
「分かりました」
「教室の場所は分かる?」
「たぶん」
「迷ったら人に聞けよ。たぶんで突っ込むな」

 そう言って、真田先輩は先に食堂を出ていった。

 気配りの人だ。
 生徒会長になるのも分かる。

 そうは言うけど。

 こういう時、俺はたいてい自分で先に覚えようとする。
 誰かに聞くより、迷いながらでも一度やってみたほうが、次からは楽だ。

 転校が多かったからかもしれない。
 というより、頼るのが苦手だった。

 朝食を終えて教室へ向かい、先生に紹介され、簡単な自己紹介をして、配られたプリントと教科書を受け取る。珍しい、と何人かに言われた。六月の転校なんて初めて見た、とも。

 昼休みにはもう少し話しかけられたけれど、悪い感じではなかった。真田先輩が同じクラスに知り合いが多いらしく、遠くから手を振ってきたおかげもあるかもしれない。

 ただ、その一日のどこかで藤代先輩に会うだろうと思っていたのに、昼のあいだ、姿は見なかった。

 会わないと、少し拍子抜けする。

 そんなふうに思った自分に気づいて、変な気分になった。

***

 放課後、寮に戻ると、真田先輩はまだ帰っていなかった。

 部屋はしんとしている。夕方の光が窓から斜めに差して、昨日より少しだけ見慣れた家具の輪郭を浮かせていた。

 今日は最低限の荷物だけ解いて、残りはあとでやろうと思っていたけれど、部屋に誰もいないと、逆に今のうちに片づけてしまいたくなる。

 制服をハンガーにかけ、教科書を机に積み、タオル類をロッカーへ入れる。あとは、いちばん上の棚にボストンバッグを押し込めばひとまず終わりだった。

 ベッドの柵に足をかけて、少し背伸びする。

 もう少し。

 そう思って腕を伸ばした時だった。

「危ない」

 低い声と一緒に、腰に手が回った。

「うわ」

 足が滑りかけたのを、その手に支えられる。咄嗟に壁へ手をついたけれど、もし支えられていなければ、そのままベッドの角に腰を打っていたと思う。

 振り向くと、藤代先輩がすぐ後ろにいた。

「大丈夫?」
「……びっくりした」
「それはごめん。柏木、よく転びそうになるね」
「……しっかりしてるはずだったんですけど」
「疲れてるのかな? それとも、俺がいる時に限って危なっかしい?」

 言い返そうとして、藤代先輩の手がまだ腰にあることに気づいた。

 近い、と思った。

 昨日も近い人だとは思ったけれど、こうして触れられると、近いでは済まない。制服越しでも、手のひらの熱が分かる。息が変に浅くなる。

 危なっかしい、という言い方も変だった。
 でも、否定しようとすると、その手の熱まで意識してしまう。

 腰に回った手は、押さえつけるほど強くない。
 ただ、俺がもう一度ふらついたらすぐ支えられる場所にある。

 それが分かるせいで、余計に落ち着かなかった。

「もう平気です」

 言うと、藤代先輩はようやく手を離した。

「悪い。見てるほうが危なかったから」
「自分でも、まあ、ちょっと危ないとは思ってました」
「ちょっとじゃない」

 藤代先輩は笑って、俺の手からボストンバッグを取った。軽く持ち上げて、何でもない動作で棚の上へ置く。

「ありがとうございます」
「柏木って、助けてって言わないよな」

 言われて、思わず藤代先輩を見た。

「……そんなこと、ありますか」

「ある。危ないと思っても、まず自分で何とかしようとする。
 誰かを呼ぶ前に、黙ってやってみる」

 図星だった。

 頼る、という発想が、そもそも少し遅れて出てくる。
 誰かに言う前に、自分で動く。
 それでだめなら、諦める。

 ずっと、そうしてきた。
 藤代先輩はその沈黙を責めるみたいには扱わない。ただ本当に気づいたことを言った、という顔をしている。

「転校が多かったから。それに……頼っちゃいけない気がして」

 言ってから、少しだけ後悔した。
 初対面に近い先輩に、何を言っているんだろう。

「そっか」

 たった一言だった。

 かわいそう、とも、大変だったな、とも言わない。ただ、聞いたという顔で頷く。
 それから、何も聞き返さないまま、無言で俺の頭をくしゃっと撫でた。
 子ども扱いだ、と思う。
 でも嫌ではなかった。

 それが妙に楽だった。