三〇七号室の見えない先輩

「びっくりした顔してる」
「すみません。これ、勝手に触ったら破れて」

 手の中の紙片を見せると、藤代先輩は一瞬だけ目を落とした。
 でも、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。

「榊のやつか」
「榊さん?」
「そういうの貼るんだよね、たまに。気にしなくていい」

 あっさりした言い方だった。
 叱られるほどのものじゃないらしい、と少しだけ肩の力が抜ける。

 藤代先輩はごく自然に部屋の中へ入ってきて、俺の手元の荷物に視線を落とした。

「片づけ、まだかかりそう?」
「最低限だけです。あとは後で」
「じゃあ、夕飯まで少しあるし、校内ざっと見る?」

 案内してやるよ、でもなく、来る、でもない。
 断ろうと思えば断れる言い方だった。

「……いいんですか」
「編入初日って、地味に迷うだろ」
「それは、まあ」
「だろ」
「柏木って、顔と名前すぐ覚えるタイプ?」

 いきなり聞かれて、少し迷う。

「たぶん、早いほうです」
「へえ。じゃあ助かる」

 変な言い方だな、と思った。

「何がですか」
「忘れられるのが嫌だから」

 藤代先輩が少し笑う。

「……それ、わかります」
「柏木は、わかってくれそうな気がした」

 その笑い方がやわらかくて、断る気が薄れた。
 というより、たぶん俺は、もう少しこの人といたかった。

 部屋を出ると、廊下は昼より少しだけ暗かった。

 木の床はところどころ軋む。古い寮特有の、乾いた匂いがする。

「まず洗面所。この時間ならまだ平和」
「平和」
「朝は戦場」
「この寮って、何人くらいいるんですか」
「楠寮だけなら八十人くらい。向こうの桐寮入れたら三百弱」
「全寮制なんですね」
「山の中だからな。通学するほうが無理」
「たしかに」
「でも朝はみんなギリギリまで寝てるから、洗面所だけ急に混む」

 たしかに、さっき朝使った時も、立つ位置ひとつで邪魔になる気がして落ち着かなかった。
 藤代先輩は蛇口の並びを軽く示しながら言う。

「端の二つ、水圧ちょっと弱い。真ん中が当たり」
「そういう当たり外れあるんですね」
「ある。食堂でもある」
「当たり外れが?」
「あるよ。カレーの日はだいたい安全」

 思わず笑うと、藤代先輩がこっちを見る。

「やっと笑った」
「え」
「ずっと不安そうな顔してたから」

 そうか、ずっと気にしてくれてたんだ。
 だから案内するとか言ってくれたのかも。
 こんなに気にかけてもらったことがなかったから、なんだかうれしかった。

 共同スペースを抜けて、食堂へ続く渡り廊下に出ると、風が少し強かった。

 窓の外に、中庭の木が見える。手入れはされているのに、どこか古い写真みたいな色をしていた。

「朝はこっち通ると早い。正面玄関回ると遠いし、混む」
「先輩、詳しいですね」
「長いから」

 それだけ言って、藤代先輩は手すりに軽く触れた。

「夜はここ冷えるんだよね」
「もう六月なのに、ちょっと寒いです」
「秋から先はもっとすごいよ。廊下歩いてるだけで目が覚める」

 言いながら、藤代先輩は少し先の外階段へ向かう。

 寮と校舎をつなぐ途中にある、鉄の手すりのついた階段だった。段の角が少し丸く削れていて、真新しい板が一枚だけ混じっている。

「こっち、近道」
「結構ぼろいですね」
「それは否定しない」

 藤代先輩が先に一段下りて、振り返る。

「気をつけて。三段目、少し滑る」
「三段目?」

 言われた通り足元を見る。

 たしかに、そこだけ少し色が違った。補修したのか、木目が新しい。
 慎重に下りたつもりだった。

 なのに、三段目に足をかけた瞬間、くるぶしのあたりをひやりと掴まれた気がした。

 次の一歩が消える。
 身体がふっと前に浮いて、心臓が止まった。

「うわ」

 次の瞬間、藤代先輩の胸にぶつかった。
 そのまま抱き留められて、踏み外しかけた足がようやく止まる。
 胸元にぶつかった衝撃と、肩から背中に回った腕の熱が、一拍遅れていっしょに来た。

「だから言ったのに」
「……すみません」
「謝るとこじゃない」

 近い、と思った。

 顔が近いとか、そういうことじゃなくて、距離の内側にあっさり入ってくる。

 でも不思議と嫌じゃなかった。

 藤代先輩は俺が立て直したのを確かめてから、ゆっくり手を離した。

「怪我してない?」
「してません」
「ならよかった」

 その言い方に、大げさな心配の色はなかった。
 かわいそうがるでもなく、笑いものにするでもなく、本当に確認だけして終わる。
 それが妙に楽だった。

「先輩、こういうの慣れてるんですか」
「何が」
「人を助けるの」
「助けるってほどじゃないよ」

 藤代先輩は少しだけ目を細める。

「落ちるの、好きじゃないんだよね」

 変な言い方だ、と思った。
 好きなやつなんて、たぶんいない。
 でも、それが気にならないくらい、この人のことが気になった。

 階段を下りきった先は、本校舎の裏手だった。
 昼休みに見た正面側より静かで、壁際に古いベンチが置いてある。誰もいない。

「こっち、朝は意外と使える」
「先輩、本当に何でも知ってますね」
「住んでると嫌でも覚える」

 その時、藤代先輩がふと校舎の角へ視線をやった。
 先生でも来たのかと思ってそっちを見たけれど、誰もいない。

「どうしました」
「いや。なんでもない」

 すぐに笑って、視線を戻す。

「職員室の前はあとでいいや。今日は場所だけ分かれば十分だろ」
「先輩、先生苦手なんですか」
「捕まると長いから」
「それはちょっと分かります」
「だろ」

 また軽く笑い合う。

 たぶん、大した話はしていない。

 洗面所の蛇口のこととか、食堂の当たり外れとか、混まない近道とか。そういう、誰でも知っていそうで、でも最初の日には助かることばかりだった。

 なのに、そういうことを一つずつ教えられるたび、少しずつ肩の力が抜けていくのが分かった。

 この人といると、楽だ。
 そう思った瞬間、自分で少しだけ驚く。
 転校先で、初日にそんなふうに思うことはあまりなかったからだ。

 楠寮へ戻る途中、さっきの外階段の前でもう一度足が止まる。

「帰りは玄関から帰ろうか」

 藤代先輩がそう言った。

「使わないんですか」
「近道だから教えただけ。暗いとこっちは危ないし」

 その言い方は自然だった。
 さっきあれだけ危ない思いをしたあとなら、なおさらだ。

 なのに、外階段を横目で通り過ぎる瞬間だけ、背中のあたりが落ち着かなかった。
 でも、その落ち着かなさは、ただ嫌というわけではなかった。

 夕食は、食堂で真田先輩と合流した。

 藤代先輩も自然に同じ卓についた。真田先輩は「あ、柏木。そっちもいたんだ」と軽く手を上げて、食堂の当たりメニューの話をそのまま続けた。

 何を食べて、何を話したかは、正直あまり覚えていない。

 頭の片隅に、ずっと藤代先輩がいた。
 部屋までの道も、もう迷わなかった。

 部屋に戻ると、真田先輩はドアの前で止まった。

「あれ」

 真田先輩がふと顔を上げて、部屋をぐるりと見回す。

「どうしました」
「いや、なんか」

 そこで言葉を切って、首の後ろをかいた。

「三〇七って、三人部屋だっけ。四人部屋だっけ」

 軽い調子だった。冗談みたいにも聞こえる。

 でも、言われた瞬間、胸の奥がひやりとした。

「四人、ですよね」
「だよな。ベッド四つあるし」

 真田先輩は自分で言って、自分で納得したように笑う。

「なんか今日、変に忙しくて頭回ってねえわ」

 真田先輩が電気を消して、それぞれが寝る支度を始めても、俺はなんとなく落ち着かなかった。
 古い紙が裂けた感触が、まだ指先に残っている気がした。