「びっくりした顔してる」
「すみません。これ、勝手に触ったら破れて」
手の中の紙片を見せると、藤代先輩は一瞬だけ目を落とした。
でも、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。
「榊のやつか」
「榊さん?」
「そういうの貼るんだよね、たまに。気にしなくていい」
あっさりした言い方だった。
叱られるほどのものじゃないらしい、と少しだけ肩の力が抜ける。
藤代先輩はごく自然に部屋の中へ入ってきて、俺の手元の荷物に視線を落とした。
「片づけ、まだかかりそう?」
「最低限だけです。あとは後で」
「じゃあ、夕飯まで少しあるし、校内ざっと見る?」
案内してやるよ、でもなく、来る、でもない。
断ろうと思えば断れる言い方だった。
「……いいんですか」
「編入初日って、地味に迷うだろ」
「それは、まあ」
「だろ」
「柏木って、顔と名前すぐ覚えるタイプ?」
いきなり聞かれて、少し迷う。
「たぶん、早いほうです」
「へえ。じゃあ助かる」
変な言い方だな、と思った。
「何がですか」
「忘れられるのが嫌だから」
藤代先輩が少し笑う。
「……それ、わかります」
「柏木は、わかってくれそうな気がした」
その笑い方がやわらかくて、断る気が薄れた。
というより、たぶん俺は、もう少しこの人といたかった。
部屋を出ると、廊下は昼より少しだけ暗かった。
木の床はところどころ軋む。古い寮特有の、乾いた匂いがする。
「まず洗面所。この時間ならまだ平和」
「平和」
「朝は戦場」
「この寮って、何人くらいいるんですか」
「楠寮だけなら八十人くらい。向こうの桐寮入れたら三百弱」
「全寮制なんですね」
「山の中だからな。通学するほうが無理」
「たしかに」
「でも朝はみんなギリギリまで寝てるから、洗面所だけ急に混む」
たしかに、さっき朝使った時も、立つ位置ひとつで邪魔になる気がして落ち着かなかった。
藤代先輩は蛇口の並びを軽く示しながら言う。
「端の二つ、水圧ちょっと弱い。真ん中が当たり」
「そういう当たり外れあるんですね」
「ある。食堂でもある」
「当たり外れが?」
「あるよ。カレーの日はだいたい安全」
思わず笑うと、藤代先輩がこっちを見る。
「やっと笑った」
「え」
「ずっと不安そうな顔してたから」
そうか、ずっと気にしてくれてたんだ。
だから案内するとか言ってくれたのかも。
こんなに気にかけてもらったことがなかったから、なんだかうれしかった。
共同スペースを抜けて、食堂へ続く渡り廊下に出ると、風が少し強かった。
窓の外に、中庭の木が見える。手入れはされているのに、どこか古い写真みたいな色をしていた。
「朝はこっち通ると早い。正面玄関回ると遠いし、混む」
「先輩、詳しいですね」
「長いから」
それだけ言って、藤代先輩は手すりに軽く触れた。
「夜はここ冷えるんだよね」
「もう六月なのに、ちょっと寒いです」
「秋から先はもっとすごいよ。廊下歩いてるだけで目が覚める」
言いながら、藤代先輩は少し先の外階段へ向かう。
寮と校舎をつなぐ途中にある、鉄の手すりのついた階段だった。段の角が少し丸く削れていて、真新しい板が一枚だけ混じっている。
「こっち、近道」
「結構ぼろいですね」
「それは否定しない」
藤代先輩が先に一段下りて、振り返る。
「気をつけて。三段目、少し滑る」
「三段目?」
言われた通り足元を見る。
たしかに、そこだけ少し色が違った。補修したのか、木目が新しい。
慎重に下りたつもりだった。
なのに、三段目に足をかけた瞬間、くるぶしのあたりをひやりと掴まれた気がした。
次の一歩が消える。
身体がふっと前に浮いて、心臓が止まった。
「うわ」
次の瞬間、藤代先輩の胸にぶつかった。
そのまま抱き留められて、踏み外しかけた足がようやく止まる。
胸元にぶつかった衝撃と、肩から背中に回った腕の熱が、一拍遅れていっしょに来た。
「だから言ったのに」
「……すみません」
「謝るとこじゃない」
近い、と思った。
顔が近いとか、そういうことじゃなくて、距離の内側にあっさり入ってくる。
でも不思議と嫌じゃなかった。
藤代先輩は俺が立て直したのを確かめてから、ゆっくり手を離した。
「怪我してない?」
「してません」
「ならよかった」
その言い方に、大げさな心配の色はなかった。
かわいそうがるでもなく、笑いものにするでもなく、本当に確認だけして終わる。
それが妙に楽だった。
「先輩、こういうの慣れてるんですか」
「何が」
「人を助けるの」
「助けるってほどじゃないよ」
藤代先輩は少しだけ目を細める。
「落ちるの、好きじゃないんだよね」
変な言い方だ、と思った。
好きなやつなんて、たぶんいない。
でも、それが気にならないくらい、この人のことが気になった。
階段を下りきった先は、本校舎の裏手だった。
昼休みに見た正面側より静かで、壁際に古いベンチが置いてある。誰もいない。
「こっち、朝は意外と使える」
「先輩、本当に何でも知ってますね」
「住んでると嫌でも覚える」
その時、藤代先輩がふと校舎の角へ視線をやった。
先生でも来たのかと思ってそっちを見たけれど、誰もいない。
「どうしました」
「いや。なんでもない」
すぐに笑って、視線を戻す。
「職員室の前はあとでいいや。今日は場所だけ分かれば十分だろ」
「先輩、先生苦手なんですか」
「捕まると長いから」
「それはちょっと分かります」
「だろ」
また軽く笑い合う。
たぶん、大した話はしていない。
洗面所の蛇口のこととか、食堂の当たり外れとか、混まない近道とか。そういう、誰でも知っていそうで、でも最初の日には助かることばかりだった。
なのに、そういうことを一つずつ教えられるたび、少しずつ肩の力が抜けていくのが分かった。
この人といると、楽だ。
そう思った瞬間、自分で少しだけ驚く。
転校先で、初日にそんなふうに思うことはあまりなかったからだ。
楠寮へ戻る途中、さっきの外階段の前でもう一度足が止まる。
「帰りは玄関から帰ろうか」
藤代先輩がそう言った。
「使わないんですか」
「近道だから教えただけ。暗いとこっちは危ないし」
その言い方は自然だった。
さっきあれだけ危ない思いをしたあとなら、なおさらだ。
なのに、外階段を横目で通り過ぎる瞬間だけ、背中のあたりが落ち着かなかった。
でも、その落ち着かなさは、ただ嫌というわけではなかった。
夕食は、食堂で真田先輩と合流した。
藤代先輩も自然に同じ卓についた。真田先輩は「あ、柏木。そっちもいたんだ」と軽く手を上げて、食堂の当たりメニューの話をそのまま続けた。
何を食べて、何を話したかは、正直あまり覚えていない。
頭の片隅に、ずっと藤代先輩がいた。
部屋までの道も、もう迷わなかった。
部屋に戻ると、真田先輩はドアの前で止まった。
「あれ」
真田先輩がふと顔を上げて、部屋をぐるりと見回す。
「どうしました」
「いや、なんか」
そこで言葉を切って、首の後ろをかいた。
「三〇七って、三人部屋だっけ。四人部屋だっけ」
軽い調子だった。冗談みたいにも聞こえる。
でも、言われた瞬間、胸の奥がひやりとした。
「四人、ですよね」
「だよな。ベッド四つあるし」
真田先輩は自分で言って、自分で納得したように笑う。
「なんか今日、変に忙しくて頭回ってねえわ」
真田先輩が電気を消して、それぞれが寝る支度を始めても、俺はなんとなく落ち着かなかった。
古い紙が裂けた感触が、まだ指先に残っている気がした。
「すみません。これ、勝手に触ったら破れて」
手の中の紙片を見せると、藤代先輩は一瞬だけ目を落とした。
でも、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。
「榊のやつか」
「榊さん?」
「そういうの貼るんだよね、たまに。気にしなくていい」
あっさりした言い方だった。
叱られるほどのものじゃないらしい、と少しだけ肩の力が抜ける。
藤代先輩はごく自然に部屋の中へ入ってきて、俺の手元の荷物に視線を落とした。
「片づけ、まだかかりそう?」
「最低限だけです。あとは後で」
「じゃあ、夕飯まで少しあるし、校内ざっと見る?」
案内してやるよ、でもなく、来る、でもない。
断ろうと思えば断れる言い方だった。
「……いいんですか」
「編入初日って、地味に迷うだろ」
「それは、まあ」
「だろ」
「柏木って、顔と名前すぐ覚えるタイプ?」
いきなり聞かれて、少し迷う。
「たぶん、早いほうです」
「へえ。じゃあ助かる」
変な言い方だな、と思った。
「何がですか」
「忘れられるのが嫌だから」
藤代先輩が少し笑う。
「……それ、わかります」
「柏木は、わかってくれそうな気がした」
その笑い方がやわらかくて、断る気が薄れた。
というより、たぶん俺は、もう少しこの人といたかった。
部屋を出ると、廊下は昼より少しだけ暗かった。
木の床はところどころ軋む。古い寮特有の、乾いた匂いがする。
「まず洗面所。この時間ならまだ平和」
「平和」
「朝は戦場」
「この寮って、何人くらいいるんですか」
「楠寮だけなら八十人くらい。向こうの桐寮入れたら三百弱」
「全寮制なんですね」
「山の中だからな。通学するほうが無理」
「たしかに」
「でも朝はみんなギリギリまで寝てるから、洗面所だけ急に混む」
たしかに、さっき朝使った時も、立つ位置ひとつで邪魔になる気がして落ち着かなかった。
藤代先輩は蛇口の並びを軽く示しながら言う。
「端の二つ、水圧ちょっと弱い。真ん中が当たり」
「そういう当たり外れあるんですね」
「ある。食堂でもある」
「当たり外れが?」
「あるよ。カレーの日はだいたい安全」
思わず笑うと、藤代先輩がこっちを見る。
「やっと笑った」
「え」
「ずっと不安そうな顔してたから」
そうか、ずっと気にしてくれてたんだ。
だから案内するとか言ってくれたのかも。
こんなに気にかけてもらったことがなかったから、なんだかうれしかった。
共同スペースを抜けて、食堂へ続く渡り廊下に出ると、風が少し強かった。
窓の外に、中庭の木が見える。手入れはされているのに、どこか古い写真みたいな色をしていた。
「朝はこっち通ると早い。正面玄関回ると遠いし、混む」
「先輩、詳しいですね」
「長いから」
それだけ言って、藤代先輩は手すりに軽く触れた。
「夜はここ冷えるんだよね」
「もう六月なのに、ちょっと寒いです」
「秋から先はもっとすごいよ。廊下歩いてるだけで目が覚める」
言いながら、藤代先輩は少し先の外階段へ向かう。
寮と校舎をつなぐ途中にある、鉄の手すりのついた階段だった。段の角が少し丸く削れていて、真新しい板が一枚だけ混じっている。
「こっち、近道」
「結構ぼろいですね」
「それは否定しない」
藤代先輩が先に一段下りて、振り返る。
「気をつけて。三段目、少し滑る」
「三段目?」
言われた通り足元を見る。
たしかに、そこだけ少し色が違った。補修したのか、木目が新しい。
慎重に下りたつもりだった。
なのに、三段目に足をかけた瞬間、くるぶしのあたりをひやりと掴まれた気がした。
次の一歩が消える。
身体がふっと前に浮いて、心臓が止まった。
「うわ」
次の瞬間、藤代先輩の胸にぶつかった。
そのまま抱き留められて、踏み外しかけた足がようやく止まる。
胸元にぶつかった衝撃と、肩から背中に回った腕の熱が、一拍遅れていっしょに来た。
「だから言ったのに」
「……すみません」
「謝るとこじゃない」
近い、と思った。
顔が近いとか、そういうことじゃなくて、距離の内側にあっさり入ってくる。
でも不思議と嫌じゃなかった。
藤代先輩は俺が立て直したのを確かめてから、ゆっくり手を離した。
「怪我してない?」
「してません」
「ならよかった」
その言い方に、大げさな心配の色はなかった。
かわいそうがるでもなく、笑いものにするでもなく、本当に確認だけして終わる。
それが妙に楽だった。
「先輩、こういうの慣れてるんですか」
「何が」
「人を助けるの」
「助けるってほどじゃないよ」
藤代先輩は少しだけ目を細める。
「落ちるの、好きじゃないんだよね」
変な言い方だ、と思った。
好きなやつなんて、たぶんいない。
でも、それが気にならないくらい、この人のことが気になった。
階段を下りきった先は、本校舎の裏手だった。
昼休みに見た正面側より静かで、壁際に古いベンチが置いてある。誰もいない。
「こっち、朝は意外と使える」
「先輩、本当に何でも知ってますね」
「住んでると嫌でも覚える」
その時、藤代先輩がふと校舎の角へ視線をやった。
先生でも来たのかと思ってそっちを見たけれど、誰もいない。
「どうしました」
「いや。なんでもない」
すぐに笑って、視線を戻す。
「職員室の前はあとでいいや。今日は場所だけ分かれば十分だろ」
「先輩、先生苦手なんですか」
「捕まると長いから」
「それはちょっと分かります」
「だろ」
また軽く笑い合う。
たぶん、大した話はしていない。
洗面所の蛇口のこととか、食堂の当たり外れとか、混まない近道とか。そういう、誰でも知っていそうで、でも最初の日には助かることばかりだった。
なのに、そういうことを一つずつ教えられるたび、少しずつ肩の力が抜けていくのが分かった。
この人といると、楽だ。
そう思った瞬間、自分で少しだけ驚く。
転校先で、初日にそんなふうに思うことはあまりなかったからだ。
楠寮へ戻る途中、さっきの外階段の前でもう一度足が止まる。
「帰りは玄関から帰ろうか」
藤代先輩がそう言った。
「使わないんですか」
「近道だから教えただけ。暗いとこっちは危ないし」
その言い方は自然だった。
さっきあれだけ危ない思いをしたあとなら、なおさらだ。
なのに、外階段を横目で通り過ぎる瞬間だけ、背中のあたりが落ち着かなかった。
でも、その落ち着かなさは、ただ嫌というわけではなかった。
夕食は、食堂で真田先輩と合流した。
藤代先輩も自然に同じ卓についた。真田先輩は「あ、柏木。そっちもいたんだ」と軽く手を上げて、食堂の当たりメニューの話をそのまま続けた。
何を食べて、何を話したかは、正直あまり覚えていない。
頭の片隅に、ずっと藤代先輩がいた。
部屋までの道も、もう迷わなかった。
部屋に戻ると、真田先輩はドアの前で止まった。
「あれ」
真田先輩がふと顔を上げて、部屋をぐるりと見回す。
「どうしました」
「いや、なんか」
そこで言葉を切って、首の後ろをかいた。
「三〇七って、三人部屋だっけ。四人部屋だっけ」
軽い調子だった。冗談みたいにも聞こえる。
でも、言われた瞬間、胸の奥がひやりとした。
「四人、ですよね」
「だよな。ベッド四つあるし」
真田先輩は自分で言って、自分で納得したように笑う。
「なんか今日、変に忙しくて頭回ってねえわ」
真田先輩が電気を消して、それぞれが寝る支度を始めても、俺はなんとなく落ち着かなかった。
古い紙が裂けた感触が、まだ指先に残っている気がした。
