三〇七号室の見えない先輩

 それから二年が経った。

 毎晩のメッセージは、途切れたり、短くなったり、また長くなったりしながら続いた。

 俺が定期試験で沈んだ夜には、朔が「生きて」と送ってきた。

『朔が言うと重いです』
『じゃあ、ちゃんと寝て』
『それは普通に正論です』

 朔のリハビリが進んだ日には、写真が送られてきた。

 庭のベンチ。
 施設の廊下。
 春の花壇。
 杖をついて立つ、朔の足元。

 最初は短い距離だった。
 それが少しずつ長くなっていった。

 半年が過ぎるころには、朔は車椅子を使わなくなった。
 一年が経つころには、療養施設を出て、家から通院するようになった。

 その頃から、メッセージの内容も少し変わった。

『今日、面接だった』
『え、面接?』
『就職の』
『急に現実ですね』
『俺もそう思う』

 五年眠っていた人が、履歴書を書いて、面接へ行って、通勤の練習をしている。

 それは嬉しかった。
 嬉しかったのに、少しだけ怖かった。

 朔が現実に戻っていく。

 病室でも、外階段でも、俺の中だけでもない場所へ。
 俺の知らない朝に起きて、俺の知らない人たちと話して、俺の知らない場所で一日を過ごすようになる。

 仕事を始めたら、高校生の俺のことなんて、少しずつ薄れていくのかもしれない。

 外階段で会ったことも。
 俺が名前を呼んだことも。
 朔が、俺を特別だと言ってくれたことも。

 いつか、長い夢だったみたいに遠くなるのかもしれない。

 そう思う自分が嫌だった。

 朔が元気になることを、俺は心から望んでいる。
 それなのに、朔の世界が広がるたびに、俺の知らない朔が増えていく気がした。

 でも、朔は忘れなかった。

 仕事を始めても、メッセージは続いた。

『初出勤、終わった』
『どうでしたか』
『疲れた』
『お疲れさまです』
『でも、帰る場所があるのはいいね』

 その言葉を見て、少し泣きそうになった。

 週末には、ちゃんと会ってくれた。

 駅前の喫茶店。
 公園のベンチ。
 学校から少し離れた川沿いの道。

 会うたびに、朔は俺を見て笑った。

「待ってるよ」

 何度も、そう言ってくれた。

 昔の「待ってる」とは違う。

 外階段の夜から伸びてくる言葉じゃない。
 俺を引き止めるための言葉でもない。

 今の朔が、今の時間の中で言ってくれる言葉だった。

 それでも、朔は抱きしめる以上のことはしなかった。

 手を握る。
 短く抱きしめる。
 帰り際に、髪に触れそうになって、途中でやめる。

 それだけ。

 時々、少しだけ物足りないと思った。

 思ってしまう自分が、恥ずかしかった。

 でも、朔はたぶん気づいていた。

「透」
「はい」
「卒業したら、ちゃんと始めよう」

 ある日、帰り際にそう言われた。

「ちゃんと、ですか」
「うん」

 朔は少しだけ笑った。

「外階段の続きじゃなくて。
 病室の続きでもなくて。
 透が卒業して、俺も今の生活にちゃんと立ってから」

 朔は、俺をじっと見た。

「その時、もう一度、好きだって言わせて」

 胸の奥が熱くなった。

「……今は?」
「今も好きだよ」

 朔は、迷わず言った。

「でも、今は待つ」

 伸ばしかけた手が、俺に触れる前に止まる。

「大事にしたいから」

 その言葉が、苦しいくらい嬉しかった。
 欲しがられているのに、急がれない。
 好きだと言われているのに、閉じ込められない。

 そのことが、少しずつ俺を安心させていった。

 卒業式が近づいた頃、朔からメッセージが来た。
 その画面を見た瞬間、胸が大きく鳴った。

『来てくれるんですか』
『透が嫌じゃなければ』

 嫌なわけがなかった。

 でも、すぐには返せなかった。

 二年前、俺は外階段で朔を見つけた。
 病室で、本当の朔に会った。
 それから毎晩、少しずつ言葉を重ねてきた。

 好きだとは何度も言った。
 でも、恋人にはならなかった。

 朔がそう言ったからだ。

『透が卒業するまでは、待つ』

 理由は、ちゃんと分かっていた。

 俺はまだ学生で。
 朔は五年眠っていて、戻ってきたばかりで。
 俺たちは、外階段の夜から始まってしまったから。

 だから、ちゃんと明るい場所で始め直す必要があった。

 俺は、スマホを握りしめた。

『来てください』

 送信する。

 すぐに既読がついた。

『行く。卒業、お祝いさせて』

 その夜、俺はなかなか眠れなかった。

 怖いわけじゃない。
 寂しいわけでもない。

 ただ、待っていた時間が、ようやくひとつの場所へ着くのだと思った。

 名前を呼ぶことから始まった恋が。

 毎晩のメッセージと、週末の面会と、触れても消えない手を通って。
 卒業式の日へ向かっている。

 そう思うと、胸の奥が熱くなって、なかなか眠れなかった。

***

 卒業式のあと、楠寮へ戻る途中で、懐かしい声がした。

「柏木」

 振り向くと、真田先輩がいた。

 スーツ姿だった。
 見慣れないはずなのに、笑い方だけは少しも変わっていない。

 その隣に、榊も立っていた。

 三年生になった榊は制服だった。
 相変わらず、少し怖い顔をしている。

「真田先輩。榊」
「卒業おめでとう、柏木」

 真田先輩が、花束を差し出してくれた。

「ありがとうございます。……来てくれたんですか」
「来るだろ、そりゃ。元生徒会長だぞ」
「それ、関係あります?」
「ある。後輩の卒業式を見届けるのも、元生徒会長の業務範囲」
「そんな業務あります?」
「今つくった」

 真田先輩は、昔と同じ顔で笑った。

 その隣で、榊が小さくため息をつく。

「榊も、来てくれたんだ……」
「真田が来いってうるさくて」
「嘘つけ。前日から時間確認してただろ」
「黙れ」

 そのやりとりが懐かしくて、胸の奥が温かくなった。

 あの夜も、二人はこうだった。
 真田先輩は少し軽くて、でも絶対に離さなかった。
 榊は怖くて、でも絶対に見捨てなかった。

「でも、来てくれて嬉しいです」

 そう言うと、真田先輩は少しだけ照れたように笑った。

「そりゃ、見るだろ」
「何をですか」
「柏木が、ちゃんと卒業するところ」

 その言い方に、胸が詰まった。

 ちゃんと卒業するところ。

 たぶん、真田先輩にとっては軽い言葉じゃない。

 あの日、俺は外階段へ行きかけた。
 朔に呼ばれて、ふらふらと部屋を抜け出して、戻れなくなりかけた。

 その俺が、今ここにいる。
 卒業式を終えて、花を胸につけて、楠寮の前に立っている。

 そのことを、真田先輩は見に来てくれたのだと思った。

「……ありがとうございます」
「おう」

 真田先輩は、いつもの調子で頷いた。

 でも、その目は少しだけやさしかった。

「藤代先輩は?」
「もうすぐ来ます」
「そっか」

 真田先輩は、少しだけ目を細めた。

「二年、ちゃんと待ったな」
「……はい」
「やるじゃん」
「軽いですね」
「重く言ったら泣くだろ」
「泣きません」
「嘘つけ。柏木、泣く時は静かに泣くタイプだろ」
「分析しないでください」
「元同室の先輩だからな。多少は分かる」

 真田先輩が笑う。

 榊は、楠寮の三階へ続く階段を見上げた。

「外階段へ行くのか」
「うん」
「二人で?」
「うん」
「……そうか」

 短い沈黙が落ちた。

 少しだけ、怒られるかと思った。
 けれど、榊は何も言わなかった。

 ただ、低い声で言った。

「もう、連れていかれるなよ」

 胸が詰まった。

「うん」
「今度は、自分で歩け」
「うん」

 真田先輩が、ぽん、と俺の肩を叩いた。

「でも、転びそうになったら抱き止めてもらえ」
「何ですか、それ」
「いや、たぶん藤代先輩ならやる」

 真田先輩が笑う。
 榊はため息をついた。

「お前は余計なことを言うな」
「でもさ」

 真田先輩は、少しだけ声を柔らかくした。

「あの時、柏木を離さなくてよかったって、今でも思うんだよ」

 俺は、何も言えなかった。

「悪い。卒業式に湿っぽいこと言った」
「……ありがとうございます」
「おう」

 榊が、俺を見る。

「柏木」
「うん」
「幸せになれ」

 あまりにも短い言葉だった。
 でも、榊らしい言葉だった。

 胸の奥が熱くなった。

「ありがとう」

 ちゃんと返事をした。

「幸せになる」

 榊は、少しだけ目を逸らした。

「ならいい」

 その時、廊下の向こうから足音がした。

 振り向く前に分かった。

 朔だ。

 真田先輩が、そっと俺の背中を押した。

「行ってこい、柏木」

 榊も、短く言った。

「今度は、ちゃんと帰ってこい」
「うん」

 俺は花束を抱え直して、春の光の差す渡り廊下へ向かった。

***

 卒業式の午後、楠寮三階の渡り廊下は、春の光で少し眩しかった。

 胸につけた花が、歩くたびに小さく揺れる。
 校舎の方からは、まだ写真を撮る声や、誰かの笑い声が聞こえていた。

 でも、ここだけは静かだった。

 外階段の前に、黄色いロープはもうない。
 古い手すりは塗り直されていて、途中だけ新しかった板も、今では周りと同じ色に馴染んでいる。

 俺は、そこをしばらく見ていた。

「怖い?」

 隣から声がした。

 振り向くと、朔が立っていた。

 病室で初めて会った時とは、もう全然違う。

 髪は少し長めのまま、後ろへゆるく流している。
 顔色も戻っていて、痩せていた頬にはちゃんと血色があった。

 何より、立っている姿が違った。

 肩幅がある。
 首から肩にかけての線も、腕も、もう頼りなさだけではない。

 長く眠っていた名残は、まだどこかにある。
 それでも、今の朔はちゃんと自分の身体で立っていた。

「……怖くないです」
「本当に?」
「少しだけ」

 そう言うと、朔は小さく笑った。

「正直」
「朔には言います。最近は」
「いい子」
「子ども扱いしないでください。今日、卒業したんですけど」
「じゃあ、大人扱い?」
「それも何か嫌です」

 朔が笑う。

 その笑い方は、外階段で見た十七歳の朔とも、病室で目を覚ましたばかりの朔とも違っていた。

 今の朔の笑い方だった。

 俺は外階段を見た。

「ここで、転びかけたんです」
「覚えてる」
「覚えてるんですか」
「全部じゃない。でも、そこは少し」

 朔は手すりへ視線を向けた。

「君が落ちそうになって、俺が抱き止めた」
「はい」
「俺、かっこよかった?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとか」
「だいぶ怖かったので」
「それは、ごめん」

 朔の声が少しだけ低くなる。

 俺は首を横に振った。

「でも、あの時、初めてちゃんと見つけられた気がしました」

 言ってから、胸が少し熱くなる。

「誰かに見られてるって、怖いことでもあるけど、嬉しいことでもあるんだって」

 朔は、しばらく何も言わなかった。

 春の風が、渡り廊下を抜ける。

 俺は一歩、外階段へ近づいた。
 その時、床の段差に足先が引っかかった。

「あ」

 身体が少し傾く。

 次の瞬間、朔の腕が俺を受け止めていた。

 胸に、ふわりと抱き込まれる。

 昔と同じだった。

 でも、全然違った。

 冷たくない。
 消えそうでもない。
 連れていかれそうでもない。

 ちゃんと温かい。

「危ない」

 耳元で、朔が言った。

「……今のは、わざとじゃないです」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」

 朔の腕は、俺を閉じ込めるほど強くはなかった。
 でも、離す気がないくらいには、ちゃんと支えてくれていた。

 俺は、その腕の中で息をした。

「あの時とは、違いますね」
「うん」
「今は、怖くないです」

 朔の腕が、ほんの少しだけ強くなる。

「俺、君を連れて行こうとしたんだよね」

 静かな声だった。

 俺は、少しだけ黙った。

「……はい」
「全部は覚えてない。でも、夢みたいに残ってる」

 朔は、俺を抱きしめたまま言った。

「君が怖がってたことも。
 それでも、俺のところに来ようとしたことも」
「はい」
「連れていかなくてよかった」

 その声は、冗談ではなかった。

「透が、ちゃんと戻ってくれてよかった」

 胸の奥が痛くなる。
 でも、それはもう苦しいだけの痛みじゃなかった。

「俺も、戻れてよかったです」

 朔が俺を離す。

 目が合う。

 この人は、もう外階段にだけいる人じゃない。
 病室にだけいる人でもない。

 今、ここにいる。

 俺の前に。

「透」
「はい」
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「待ってたよ」

 その言葉に、息が止まりそうになった。

 昔の朔が言った「待ってる」とは違う。
 今の朔は、時間の中で待ってくれていた。

 俺が卒業するまで。
 俺がここに戻ってくるまで。

「俺も、待ってました」

 声が震えた。

「もう、待たなくていいですか」

 朔は、少しだけ目を伏せて笑った。

「うん」

 春の光が、外階段に差している。

「透」
「はい」
「俺と、付き合ってください」

 涙が出そうになった。
 でも、泣くより先に笑ってしまった。

「はい」

 朔の顔が、少しだけ崩れる。

「即答」
「二年待ちましたから」
「そっか」
「はい」

 朔は、俺の手を取った。

 今度は、連れていくためじゃない。
 一緒に歩くための手だった。

 外階段は、もう封鎖されていなかった。
 点呼は、もう四人ではない。

 でも俺は知っている。

 あの夜、確かに四人目がいたことを。
 誰にも数えられなかった名前を、俺たちが呼んだことを。

 俺は手を握り返した。

「朔」
「うん」
「好きです」

 朔は、静かに笑った。

「俺も。透は、ずっと特別だよ」

 その言葉は、まだ甘かった。
 胸の奥を、そっと絡め取られるような甘さだった。

 でも、もう怖くはなかった。

 俺を閉じ込める言葉じゃない。
 俺を見つけてくれる言葉だった。

 朔の手が、俺の指をそっと握り直す。

「……キスしてもいい?」

 聞かれて、胸の奥が熱くなった。

 外階段の前で。
 あの夜の続きみたいな場所で。

 でも、もう何も怖くなかった。

「してください」

 答えると、朔は少しだけ目を細めた。

「ちゃんと聞いた」
「はい」
「勝手に連れていかない」
「はい」
「ここにいる透に、キスする」

 その言い方に、泣きそうになった。

「……はい」

 朔が、ゆっくり顔を近づける。

 触れた唇は、温かかった。

 冷たくない。
 消えそうでもない。
 夜の底へ引き込むものでもない。

 春の光の中で、ただ静かに重なるキスだった。

 短く触れて、離れる。
 それだけなのに、胸の奥がいっぱいになった。

 朔は額が触れそうな距離で、少し照れたように笑う。

「透」
「はい」
「見つけてくれて、ありがとう」
「朔も」
「うん?」
「俺を、見つけてくれてありがとうございます」

 朔の目が、少しだけ揺れた。

 それから、もう一度だけ、今度は俺から名前を呼んだ。

「朔」
「うん」

 返事がある。
 ちゃんと、ここにいる声だった。

 朔が俺の手を取る。
 指と指が、ゆっくり絡む。

 ただ握るだけじゃない。
 恋人みたいなつなぎ方だった。

 そう思った瞬間、顔が熱くなる。

「透」
「はい」
「今日は、帰さなくてもいい?」

 胸の奥が、甘く跳ねた。

 言葉の意味が分からないほど、子どもじゃない。
 でも、すぐに頷けるほど、慣れてもいない。

 朔は俺の指を絡めたまま、親指でそっと撫でた。

 指先から、変な熱が上がってくる。

 急かされているわけじゃない。
 でも、欲しがられていないわけでもない。

 それでも朔は、ちゃんと俺の答えを待っていた。

 昔みたいに、連れていこうとはしない。
 俺が答えるまで、ただ待っている。

「……聞き方がずるいです」
「うん」
「分かってて言ってますよね」
「うん」

 朔は少しだけ笑った。

「透が嫌なら、帰す」

 その言い方に、胸が苦しくなる。

 帰す、という言葉が、もう怖くない。
 俺を引き戻す言葉でも、閉じ込める言葉でもない。

 選ばせてくれる言葉だった。

 俺は、絡められた指を握り返した。

「……嫌じゃないです」

 朔の目が、静かに揺れた。

「本当に?」
「はい」

 声が少し震えた。

「今日は、帰りたくないです」

 言ってから、顔が熱くなる。

 朔は一瞬だけ息を止めた。
 それから、泣きそうなくらいやさしく笑った。

「うん」

 指先に、少しだけ力がこもる。

「じゃあ、帰さない」

 その言葉は、まだ甘かった。
 でも、もう怖くはなかった。

 今度は、俺が選んだ夜だった。

 俺は朔の手を握り返して、春の光の中へ一歩踏み出した。