それから二年が経った。
毎晩のメッセージは、途切れたり、短くなったり、また長くなったりしながら続いた。
俺が定期試験で沈んだ夜には、朔が「生きて」と送ってきた。
『朔が言うと重いです』
『じゃあ、ちゃんと寝て』
『それは普通に正論です』
朔のリハビリが進んだ日には、写真が送られてきた。
庭のベンチ。
施設の廊下。
春の花壇。
杖をついて立つ、朔の足元。
最初は短い距離だった。
それが少しずつ長くなっていった。
半年が過ぎるころには、朔は車椅子を使わなくなった。
一年が経つころには、療養施設を出て、家から通院するようになった。
その頃から、メッセージの内容も少し変わった。
『今日、面接だった』
『え、面接?』
『就職の』
『急に現実ですね』
『俺もそう思う』
五年眠っていた人が、履歴書を書いて、面接へ行って、通勤の練習をしている。
それは嬉しかった。
嬉しかったのに、少しだけ怖かった。
朔が現実に戻っていく。
病室でも、外階段でも、俺の中だけでもない場所へ。
俺の知らない朝に起きて、俺の知らない人たちと話して、俺の知らない場所で一日を過ごすようになる。
仕事を始めたら、高校生の俺のことなんて、少しずつ薄れていくのかもしれない。
外階段で会ったことも。
俺が名前を呼んだことも。
朔が、俺を特別だと言ってくれたことも。
いつか、長い夢だったみたいに遠くなるのかもしれない。
そう思う自分が嫌だった。
朔が元気になることを、俺は心から望んでいる。
それなのに、朔の世界が広がるたびに、俺の知らない朔が増えていく気がした。
でも、朔は忘れなかった。
仕事を始めても、メッセージは続いた。
『初出勤、終わった』
『どうでしたか』
『疲れた』
『お疲れさまです』
『でも、帰る場所があるのはいいね』
その言葉を見て、少し泣きそうになった。
週末には、ちゃんと会ってくれた。
駅前の喫茶店。
公園のベンチ。
学校から少し離れた川沿いの道。
会うたびに、朔は俺を見て笑った。
「待ってるよ」
何度も、そう言ってくれた。
昔の「待ってる」とは違う。
外階段の夜から伸びてくる言葉じゃない。
俺を引き止めるための言葉でもない。
今の朔が、今の時間の中で言ってくれる言葉だった。
それでも、朔は抱きしめる以上のことはしなかった。
手を握る。
短く抱きしめる。
帰り際に、髪に触れそうになって、途中でやめる。
それだけ。
時々、少しだけ物足りないと思った。
思ってしまう自分が、恥ずかしかった。
でも、朔はたぶん気づいていた。
「透」
「はい」
「卒業したら、ちゃんと始めよう」
ある日、帰り際にそう言われた。
「ちゃんと、ですか」
「うん」
朔は少しだけ笑った。
「外階段の続きじゃなくて。
病室の続きでもなくて。
透が卒業して、俺も今の生活にちゃんと立ってから」
朔は、俺をじっと見た。
「その時、もう一度、好きだって言わせて」
胸の奥が熱くなった。
「……今は?」
「今も好きだよ」
朔は、迷わず言った。
「でも、今は待つ」
伸ばしかけた手が、俺に触れる前に止まる。
「大事にしたいから」
その言葉が、苦しいくらい嬉しかった。
欲しがられているのに、急がれない。
好きだと言われているのに、閉じ込められない。
そのことが、少しずつ俺を安心させていった。
卒業式が近づいた頃、朔からメッセージが来た。
その画面を見た瞬間、胸が大きく鳴った。
『来てくれるんですか』
『透が嫌じゃなければ』
嫌なわけがなかった。
でも、すぐには返せなかった。
二年前、俺は外階段で朔を見つけた。
病室で、本当の朔に会った。
それから毎晩、少しずつ言葉を重ねてきた。
好きだとは何度も言った。
でも、恋人にはならなかった。
朔がそう言ったからだ。
『透が卒業するまでは、待つ』
理由は、ちゃんと分かっていた。
俺はまだ学生で。
朔は五年眠っていて、戻ってきたばかりで。
俺たちは、外階段の夜から始まってしまったから。
だから、ちゃんと明るい場所で始め直す必要があった。
俺は、スマホを握りしめた。
『来てください』
送信する。
すぐに既読がついた。
『行く。卒業、お祝いさせて』
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
怖いわけじゃない。
寂しいわけでもない。
ただ、待っていた時間が、ようやくひとつの場所へ着くのだと思った。
名前を呼ぶことから始まった恋が。
毎晩のメッセージと、週末の面会と、触れても消えない手を通って。
卒業式の日へ向かっている。
そう思うと、胸の奥が熱くなって、なかなか眠れなかった。
***
卒業式のあと、楠寮へ戻る途中で、懐かしい声がした。
「柏木」
振り向くと、真田先輩がいた。
スーツ姿だった。
見慣れないはずなのに、笑い方だけは少しも変わっていない。
その隣に、榊も立っていた。
三年生になった榊は制服だった。
相変わらず、少し怖い顔をしている。
「真田先輩。榊」
「卒業おめでとう、柏木」
真田先輩が、花束を差し出してくれた。
「ありがとうございます。……来てくれたんですか」
「来るだろ、そりゃ。元生徒会長だぞ」
「それ、関係あります?」
「ある。後輩の卒業式を見届けるのも、元生徒会長の業務範囲」
「そんな業務あります?」
「今つくった」
真田先輩は、昔と同じ顔で笑った。
その隣で、榊が小さくため息をつく。
「榊も、来てくれたんだ……」
「真田が来いってうるさくて」
「嘘つけ。前日から時間確認してただろ」
「黙れ」
そのやりとりが懐かしくて、胸の奥が温かくなった。
あの夜も、二人はこうだった。
真田先輩は少し軽くて、でも絶対に離さなかった。
榊は怖くて、でも絶対に見捨てなかった。
「でも、来てくれて嬉しいです」
そう言うと、真田先輩は少しだけ照れたように笑った。
「そりゃ、見るだろ」
「何をですか」
「柏木が、ちゃんと卒業するところ」
その言い方に、胸が詰まった。
ちゃんと卒業するところ。
たぶん、真田先輩にとっては軽い言葉じゃない。
あの日、俺は外階段へ行きかけた。
朔に呼ばれて、ふらふらと部屋を抜け出して、戻れなくなりかけた。
その俺が、今ここにいる。
卒業式を終えて、花を胸につけて、楠寮の前に立っている。
そのことを、真田先輩は見に来てくれたのだと思った。
「……ありがとうございます」
「おう」
真田先輩は、いつもの調子で頷いた。
でも、その目は少しだけやさしかった。
「藤代先輩は?」
「もうすぐ来ます」
「そっか」
真田先輩は、少しだけ目を細めた。
「二年、ちゃんと待ったな」
「……はい」
「やるじゃん」
「軽いですね」
「重く言ったら泣くだろ」
「泣きません」
「嘘つけ。柏木、泣く時は静かに泣くタイプだろ」
「分析しないでください」
「元同室の先輩だからな。多少は分かる」
真田先輩が笑う。
榊は、楠寮の三階へ続く階段を見上げた。
「外階段へ行くのか」
「うん」
「二人で?」
「うん」
「……そうか」
短い沈黙が落ちた。
少しだけ、怒られるかと思った。
けれど、榊は何も言わなかった。
ただ、低い声で言った。
「もう、連れていかれるなよ」
胸が詰まった。
「うん」
「今度は、自分で歩け」
「うん」
真田先輩が、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「でも、転びそうになったら抱き止めてもらえ」
「何ですか、それ」
「いや、たぶん藤代先輩ならやる」
真田先輩が笑う。
榊はため息をついた。
「お前は余計なことを言うな」
「でもさ」
真田先輩は、少しだけ声を柔らかくした。
「あの時、柏木を離さなくてよかったって、今でも思うんだよ」
俺は、何も言えなかった。
「悪い。卒業式に湿っぽいこと言った」
「……ありがとうございます」
「おう」
榊が、俺を見る。
「柏木」
「うん」
「幸せになれ」
あまりにも短い言葉だった。
でも、榊らしい言葉だった。
胸の奥が熱くなった。
「ありがとう」
ちゃんと返事をした。
「幸せになる」
榊は、少しだけ目を逸らした。
「ならいい」
その時、廊下の向こうから足音がした。
振り向く前に分かった。
朔だ。
真田先輩が、そっと俺の背中を押した。
「行ってこい、柏木」
榊も、短く言った。
「今度は、ちゃんと帰ってこい」
「うん」
俺は花束を抱え直して、春の光の差す渡り廊下へ向かった。
***
卒業式の午後、楠寮三階の渡り廊下は、春の光で少し眩しかった。
胸につけた花が、歩くたびに小さく揺れる。
校舎の方からは、まだ写真を撮る声や、誰かの笑い声が聞こえていた。
でも、ここだけは静かだった。
外階段の前に、黄色いロープはもうない。
古い手すりは塗り直されていて、途中だけ新しかった板も、今では周りと同じ色に馴染んでいる。
俺は、そこをしばらく見ていた。
「怖い?」
隣から声がした。
振り向くと、朔が立っていた。
病室で初めて会った時とは、もう全然違う。
髪は少し長めのまま、後ろへゆるく流している。
顔色も戻っていて、痩せていた頬にはちゃんと血色があった。
何より、立っている姿が違った。
肩幅がある。
首から肩にかけての線も、腕も、もう頼りなさだけではない。
長く眠っていた名残は、まだどこかにある。
それでも、今の朔はちゃんと自分の身体で立っていた。
「……怖くないです」
「本当に?」
「少しだけ」
そう言うと、朔は小さく笑った。
「正直」
「朔には言います。最近は」
「いい子」
「子ども扱いしないでください。今日、卒業したんですけど」
「じゃあ、大人扱い?」
「それも何か嫌です」
朔が笑う。
その笑い方は、外階段で見た十七歳の朔とも、病室で目を覚ましたばかりの朔とも違っていた。
今の朔の笑い方だった。
俺は外階段を見た。
「ここで、転びかけたんです」
「覚えてる」
「覚えてるんですか」
「全部じゃない。でも、そこは少し」
朔は手すりへ視線を向けた。
「君が落ちそうになって、俺が抱き止めた」
「はい」
「俺、かっこよかった?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとか」
「だいぶ怖かったので」
「それは、ごめん」
朔の声が少しだけ低くなる。
俺は首を横に振った。
「でも、あの時、初めてちゃんと見つけられた気がしました」
言ってから、胸が少し熱くなる。
「誰かに見られてるって、怖いことでもあるけど、嬉しいことでもあるんだって」
朔は、しばらく何も言わなかった。
春の風が、渡り廊下を抜ける。
俺は一歩、外階段へ近づいた。
その時、床の段差に足先が引っかかった。
「あ」
身体が少し傾く。
次の瞬間、朔の腕が俺を受け止めていた。
胸に、ふわりと抱き込まれる。
昔と同じだった。
でも、全然違った。
冷たくない。
消えそうでもない。
連れていかれそうでもない。
ちゃんと温かい。
「危ない」
耳元で、朔が言った。
「……今のは、わざとじゃないです」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
朔の腕は、俺を閉じ込めるほど強くはなかった。
でも、離す気がないくらいには、ちゃんと支えてくれていた。
俺は、その腕の中で息をした。
「あの時とは、違いますね」
「うん」
「今は、怖くないです」
朔の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「俺、君を連れて行こうとしたんだよね」
静かな声だった。
俺は、少しだけ黙った。
「……はい」
「全部は覚えてない。でも、夢みたいに残ってる」
朔は、俺を抱きしめたまま言った。
「君が怖がってたことも。
それでも、俺のところに来ようとしたことも」
「はい」
「連れていかなくてよかった」
その声は、冗談ではなかった。
「透が、ちゃんと戻ってくれてよかった」
胸の奥が痛くなる。
でも、それはもう苦しいだけの痛みじゃなかった。
「俺も、戻れてよかったです」
朔が俺を離す。
目が合う。
この人は、もう外階段にだけいる人じゃない。
病室にだけいる人でもない。
今、ここにいる。
俺の前に。
「透」
「はい」
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「待ってたよ」
その言葉に、息が止まりそうになった。
昔の朔が言った「待ってる」とは違う。
今の朔は、時間の中で待ってくれていた。
俺が卒業するまで。
俺がここに戻ってくるまで。
「俺も、待ってました」
声が震えた。
「もう、待たなくていいですか」
朔は、少しだけ目を伏せて笑った。
「うん」
春の光が、外階段に差している。
「透」
「はい」
「俺と、付き合ってください」
涙が出そうになった。
でも、泣くより先に笑ってしまった。
「はい」
朔の顔が、少しだけ崩れる。
「即答」
「二年待ちましたから」
「そっか」
「はい」
朔は、俺の手を取った。
今度は、連れていくためじゃない。
一緒に歩くための手だった。
外階段は、もう封鎖されていなかった。
点呼は、もう四人ではない。
でも俺は知っている。
あの夜、確かに四人目がいたことを。
誰にも数えられなかった名前を、俺たちが呼んだことを。
俺は手を握り返した。
「朔」
「うん」
「好きです」
朔は、静かに笑った。
「俺も。透は、ずっと特別だよ」
その言葉は、まだ甘かった。
胸の奥を、そっと絡め取られるような甘さだった。
でも、もう怖くはなかった。
俺を閉じ込める言葉じゃない。
俺を見つけてくれる言葉だった。
朔の手が、俺の指をそっと握り直す。
「……キスしてもいい?」
聞かれて、胸の奥が熱くなった。
外階段の前で。
あの夜の続きみたいな場所で。
でも、もう何も怖くなかった。
「してください」
答えると、朔は少しだけ目を細めた。
「ちゃんと聞いた」
「はい」
「勝手に連れていかない」
「はい」
「ここにいる透に、キスする」
その言い方に、泣きそうになった。
「……はい」
朔が、ゆっくり顔を近づける。
触れた唇は、温かかった。
冷たくない。
消えそうでもない。
夜の底へ引き込むものでもない。
春の光の中で、ただ静かに重なるキスだった。
短く触れて、離れる。
それだけなのに、胸の奥がいっぱいになった。
朔は額が触れそうな距離で、少し照れたように笑う。
「透」
「はい」
「見つけてくれて、ありがとう」
「朔も」
「うん?」
「俺を、見つけてくれてありがとうございます」
朔の目が、少しだけ揺れた。
それから、もう一度だけ、今度は俺から名前を呼んだ。
「朔」
「うん」
返事がある。
ちゃんと、ここにいる声だった。
朔が俺の手を取る。
指と指が、ゆっくり絡む。
ただ握るだけじゃない。
恋人みたいなつなぎ方だった。
そう思った瞬間、顔が熱くなる。
「透」
「はい」
「今日は、帰さなくてもいい?」
胸の奥が、甘く跳ねた。
言葉の意味が分からないほど、子どもじゃない。
でも、すぐに頷けるほど、慣れてもいない。
朔は俺の指を絡めたまま、親指でそっと撫でた。
指先から、変な熱が上がってくる。
急かされているわけじゃない。
でも、欲しがられていないわけでもない。
それでも朔は、ちゃんと俺の答えを待っていた。
昔みたいに、連れていこうとはしない。
俺が答えるまで、ただ待っている。
「……聞き方がずるいです」
「うん」
「分かってて言ってますよね」
「うん」
朔は少しだけ笑った。
「透が嫌なら、帰す」
その言い方に、胸が苦しくなる。
帰す、という言葉が、もう怖くない。
俺を引き戻す言葉でも、閉じ込める言葉でもない。
選ばせてくれる言葉だった。
俺は、絡められた指を握り返した。
「……嫌じゃないです」
朔の目が、静かに揺れた。
「本当に?」
「はい」
声が少し震えた。
「今日は、帰りたくないです」
言ってから、顔が熱くなる。
朔は一瞬だけ息を止めた。
それから、泣きそうなくらいやさしく笑った。
「うん」
指先に、少しだけ力がこもる。
「じゃあ、帰さない」
その言葉は、まだ甘かった。
でも、もう怖くはなかった。
今度は、俺が選んだ夜だった。
俺は朔の手を握り返して、春の光の中へ一歩踏み出した。
毎晩のメッセージは、途切れたり、短くなったり、また長くなったりしながら続いた。
俺が定期試験で沈んだ夜には、朔が「生きて」と送ってきた。
『朔が言うと重いです』
『じゃあ、ちゃんと寝て』
『それは普通に正論です』
朔のリハビリが進んだ日には、写真が送られてきた。
庭のベンチ。
施設の廊下。
春の花壇。
杖をついて立つ、朔の足元。
最初は短い距離だった。
それが少しずつ長くなっていった。
半年が過ぎるころには、朔は車椅子を使わなくなった。
一年が経つころには、療養施設を出て、家から通院するようになった。
その頃から、メッセージの内容も少し変わった。
『今日、面接だった』
『え、面接?』
『就職の』
『急に現実ですね』
『俺もそう思う』
五年眠っていた人が、履歴書を書いて、面接へ行って、通勤の練習をしている。
それは嬉しかった。
嬉しかったのに、少しだけ怖かった。
朔が現実に戻っていく。
病室でも、外階段でも、俺の中だけでもない場所へ。
俺の知らない朝に起きて、俺の知らない人たちと話して、俺の知らない場所で一日を過ごすようになる。
仕事を始めたら、高校生の俺のことなんて、少しずつ薄れていくのかもしれない。
外階段で会ったことも。
俺が名前を呼んだことも。
朔が、俺を特別だと言ってくれたことも。
いつか、長い夢だったみたいに遠くなるのかもしれない。
そう思う自分が嫌だった。
朔が元気になることを、俺は心から望んでいる。
それなのに、朔の世界が広がるたびに、俺の知らない朔が増えていく気がした。
でも、朔は忘れなかった。
仕事を始めても、メッセージは続いた。
『初出勤、終わった』
『どうでしたか』
『疲れた』
『お疲れさまです』
『でも、帰る場所があるのはいいね』
その言葉を見て、少し泣きそうになった。
週末には、ちゃんと会ってくれた。
駅前の喫茶店。
公園のベンチ。
学校から少し離れた川沿いの道。
会うたびに、朔は俺を見て笑った。
「待ってるよ」
何度も、そう言ってくれた。
昔の「待ってる」とは違う。
外階段の夜から伸びてくる言葉じゃない。
俺を引き止めるための言葉でもない。
今の朔が、今の時間の中で言ってくれる言葉だった。
それでも、朔は抱きしめる以上のことはしなかった。
手を握る。
短く抱きしめる。
帰り際に、髪に触れそうになって、途中でやめる。
それだけ。
時々、少しだけ物足りないと思った。
思ってしまう自分が、恥ずかしかった。
でも、朔はたぶん気づいていた。
「透」
「はい」
「卒業したら、ちゃんと始めよう」
ある日、帰り際にそう言われた。
「ちゃんと、ですか」
「うん」
朔は少しだけ笑った。
「外階段の続きじゃなくて。
病室の続きでもなくて。
透が卒業して、俺も今の生活にちゃんと立ってから」
朔は、俺をじっと見た。
「その時、もう一度、好きだって言わせて」
胸の奥が熱くなった。
「……今は?」
「今も好きだよ」
朔は、迷わず言った。
「でも、今は待つ」
伸ばしかけた手が、俺に触れる前に止まる。
「大事にしたいから」
その言葉が、苦しいくらい嬉しかった。
欲しがられているのに、急がれない。
好きだと言われているのに、閉じ込められない。
そのことが、少しずつ俺を安心させていった。
卒業式が近づいた頃、朔からメッセージが来た。
その画面を見た瞬間、胸が大きく鳴った。
『来てくれるんですか』
『透が嫌じゃなければ』
嫌なわけがなかった。
でも、すぐには返せなかった。
二年前、俺は外階段で朔を見つけた。
病室で、本当の朔に会った。
それから毎晩、少しずつ言葉を重ねてきた。
好きだとは何度も言った。
でも、恋人にはならなかった。
朔がそう言ったからだ。
『透が卒業するまでは、待つ』
理由は、ちゃんと分かっていた。
俺はまだ学生で。
朔は五年眠っていて、戻ってきたばかりで。
俺たちは、外階段の夜から始まってしまったから。
だから、ちゃんと明るい場所で始め直す必要があった。
俺は、スマホを握りしめた。
『来てください』
送信する。
すぐに既読がついた。
『行く。卒業、お祝いさせて』
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
怖いわけじゃない。
寂しいわけでもない。
ただ、待っていた時間が、ようやくひとつの場所へ着くのだと思った。
名前を呼ぶことから始まった恋が。
毎晩のメッセージと、週末の面会と、触れても消えない手を通って。
卒業式の日へ向かっている。
そう思うと、胸の奥が熱くなって、なかなか眠れなかった。
***
卒業式のあと、楠寮へ戻る途中で、懐かしい声がした。
「柏木」
振り向くと、真田先輩がいた。
スーツ姿だった。
見慣れないはずなのに、笑い方だけは少しも変わっていない。
その隣に、榊も立っていた。
三年生になった榊は制服だった。
相変わらず、少し怖い顔をしている。
「真田先輩。榊」
「卒業おめでとう、柏木」
真田先輩が、花束を差し出してくれた。
「ありがとうございます。……来てくれたんですか」
「来るだろ、そりゃ。元生徒会長だぞ」
「それ、関係あります?」
「ある。後輩の卒業式を見届けるのも、元生徒会長の業務範囲」
「そんな業務あります?」
「今つくった」
真田先輩は、昔と同じ顔で笑った。
その隣で、榊が小さくため息をつく。
「榊も、来てくれたんだ……」
「真田が来いってうるさくて」
「嘘つけ。前日から時間確認してただろ」
「黙れ」
そのやりとりが懐かしくて、胸の奥が温かくなった。
あの夜も、二人はこうだった。
真田先輩は少し軽くて、でも絶対に離さなかった。
榊は怖くて、でも絶対に見捨てなかった。
「でも、来てくれて嬉しいです」
そう言うと、真田先輩は少しだけ照れたように笑った。
「そりゃ、見るだろ」
「何をですか」
「柏木が、ちゃんと卒業するところ」
その言い方に、胸が詰まった。
ちゃんと卒業するところ。
たぶん、真田先輩にとっては軽い言葉じゃない。
あの日、俺は外階段へ行きかけた。
朔に呼ばれて、ふらふらと部屋を抜け出して、戻れなくなりかけた。
その俺が、今ここにいる。
卒業式を終えて、花を胸につけて、楠寮の前に立っている。
そのことを、真田先輩は見に来てくれたのだと思った。
「……ありがとうございます」
「おう」
真田先輩は、いつもの調子で頷いた。
でも、その目は少しだけやさしかった。
「藤代先輩は?」
「もうすぐ来ます」
「そっか」
真田先輩は、少しだけ目を細めた。
「二年、ちゃんと待ったな」
「……はい」
「やるじゃん」
「軽いですね」
「重く言ったら泣くだろ」
「泣きません」
「嘘つけ。柏木、泣く時は静かに泣くタイプだろ」
「分析しないでください」
「元同室の先輩だからな。多少は分かる」
真田先輩が笑う。
榊は、楠寮の三階へ続く階段を見上げた。
「外階段へ行くのか」
「うん」
「二人で?」
「うん」
「……そうか」
短い沈黙が落ちた。
少しだけ、怒られるかと思った。
けれど、榊は何も言わなかった。
ただ、低い声で言った。
「もう、連れていかれるなよ」
胸が詰まった。
「うん」
「今度は、自分で歩け」
「うん」
真田先輩が、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「でも、転びそうになったら抱き止めてもらえ」
「何ですか、それ」
「いや、たぶん藤代先輩ならやる」
真田先輩が笑う。
榊はため息をついた。
「お前は余計なことを言うな」
「でもさ」
真田先輩は、少しだけ声を柔らかくした。
「あの時、柏木を離さなくてよかったって、今でも思うんだよ」
俺は、何も言えなかった。
「悪い。卒業式に湿っぽいこと言った」
「……ありがとうございます」
「おう」
榊が、俺を見る。
「柏木」
「うん」
「幸せになれ」
あまりにも短い言葉だった。
でも、榊らしい言葉だった。
胸の奥が熱くなった。
「ありがとう」
ちゃんと返事をした。
「幸せになる」
榊は、少しだけ目を逸らした。
「ならいい」
その時、廊下の向こうから足音がした。
振り向く前に分かった。
朔だ。
真田先輩が、そっと俺の背中を押した。
「行ってこい、柏木」
榊も、短く言った。
「今度は、ちゃんと帰ってこい」
「うん」
俺は花束を抱え直して、春の光の差す渡り廊下へ向かった。
***
卒業式の午後、楠寮三階の渡り廊下は、春の光で少し眩しかった。
胸につけた花が、歩くたびに小さく揺れる。
校舎の方からは、まだ写真を撮る声や、誰かの笑い声が聞こえていた。
でも、ここだけは静かだった。
外階段の前に、黄色いロープはもうない。
古い手すりは塗り直されていて、途中だけ新しかった板も、今では周りと同じ色に馴染んでいる。
俺は、そこをしばらく見ていた。
「怖い?」
隣から声がした。
振り向くと、朔が立っていた。
病室で初めて会った時とは、もう全然違う。
髪は少し長めのまま、後ろへゆるく流している。
顔色も戻っていて、痩せていた頬にはちゃんと血色があった。
何より、立っている姿が違った。
肩幅がある。
首から肩にかけての線も、腕も、もう頼りなさだけではない。
長く眠っていた名残は、まだどこかにある。
それでも、今の朔はちゃんと自分の身体で立っていた。
「……怖くないです」
「本当に?」
「少しだけ」
そう言うと、朔は小さく笑った。
「正直」
「朔には言います。最近は」
「いい子」
「子ども扱いしないでください。今日、卒業したんですけど」
「じゃあ、大人扱い?」
「それも何か嫌です」
朔が笑う。
その笑い方は、外階段で見た十七歳の朔とも、病室で目を覚ましたばかりの朔とも違っていた。
今の朔の笑い方だった。
俺は外階段を見た。
「ここで、転びかけたんです」
「覚えてる」
「覚えてるんですか」
「全部じゃない。でも、そこは少し」
朔は手すりへ視線を向けた。
「君が落ちそうになって、俺が抱き止めた」
「はい」
「俺、かっこよかった?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとか」
「だいぶ怖かったので」
「それは、ごめん」
朔の声が少しだけ低くなる。
俺は首を横に振った。
「でも、あの時、初めてちゃんと見つけられた気がしました」
言ってから、胸が少し熱くなる。
「誰かに見られてるって、怖いことでもあるけど、嬉しいことでもあるんだって」
朔は、しばらく何も言わなかった。
春の風が、渡り廊下を抜ける。
俺は一歩、外階段へ近づいた。
その時、床の段差に足先が引っかかった。
「あ」
身体が少し傾く。
次の瞬間、朔の腕が俺を受け止めていた。
胸に、ふわりと抱き込まれる。
昔と同じだった。
でも、全然違った。
冷たくない。
消えそうでもない。
連れていかれそうでもない。
ちゃんと温かい。
「危ない」
耳元で、朔が言った。
「……今のは、わざとじゃないです」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
朔の腕は、俺を閉じ込めるほど強くはなかった。
でも、離す気がないくらいには、ちゃんと支えてくれていた。
俺は、その腕の中で息をした。
「あの時とは、違いますね」
「うん」
「今は、怖くないです」
朔の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「俺、君を連れて行こうとしたんだよね」
静かな声だった。
俺は、少しだけ黙った。
「……はい」
「全部は覚えてない。でも、夢みたいに残ってる」
朔は、俺を抱きしめたまま言った。
「君が怖がってたことも。
それでも、俺のところに来ようとしたことも」
「はい」
「連れていかなくてよかった」
その声は、冗談ではなかった。
「透が、ちゃんと戻ってくれてよかった」
胸の奥が痛くなる。
でも、それはもう苦しいだけの痛みじゃなかった。
「俺も、戻れてよかったです」
朔が俺を離す。
目が合う。
この人は、もう外階段にだけいる人じゃない。
病室にだけいる人でもない。
今、ここにいる。
俺の前に。
「透」
「はい」
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「待ってたよ」
その言葉に、息が止まりそうになった。
昔の朔が言った「待ってる」とは違う。
今の朔は、時間の中で待ってくれていた。
俺が卒業するまで。
俺がここに戻ってくるまで。
「俺も、待ってました」
声が震えた。
「もう、待たなくていいですか」
朔は、少しだけ目を伏せて笑った。
「うん」
春の光が、外階段に差している。
「透」
「はい」
「俺と、付き合ってください」
涙が出そうになった。
でも、泣くより先に笑ってしまった。
「はい」
朔の顔が、少しだけ崩れる。
「即答」
「二年待ちましたから」
「そっか」
「はい」
朔は、俺の手を取った。
今度は、連れていくためじゃない。
一緒に歩くための手だった。
外階段は、もう封鎖されていなかった。
点呼は、もう四人ではない。
でも俺は知っている。
あの夜、確かに四人目がいたことを。
誰にも数えられなかった名前を、俺たちが呼んだことを。
俺は手を握り返した。
「朔」
「うん」
「好きです」
朔は、静かに笑った。
「俺も。透は、ずっと特別だよ」
その言葉は、まだ甘かった。
胸の奥を、そっと絡め取られるような甘さだった。
でも、もう怖くはなかった。
俺を閉じ込める言葉じゃない。
俺を見つけてくれる言葉だった。
朔の手が、俺の指をそっと握り直す。
「……キスしてもいい?」
聞かれて、胸の奥が熱くなった。
外階段の前で。
あの夜の続きみたいな場所で。
でも、もう何も怖くなかった。
「してください」
答えると、朔は少しだけ目を細めた。
「ちゃんと聞いた」
「はい」
「勝手に連れていかない」
「はい」
「ここにいる透に、キスする」
その言い方に、泣きそうになった。
「……はい」
朔が、ゆっくり顔を近づける。
触れた唇は、温かかった。
冷たくない。
消えそうでもない。
夜の底へ引き込むものでもない。
春の光の中で、ただ静かに重なるキスだった。
短く触れて、離れる。
それだけなのに、胸の奥がいっぱいになった。
朔は額が触れそうな距離で、少し照れたように笑う。
「透」
「はい」
「見つけてくれて、ありがとう」
「朔も」
「うん?」
「俺を、見つけてくれてありがとうございます」
朔の目が、少しだけ揺れた。
それから、もう一度だけ、今度は俺から名前を呼んだ。
「朔」
「うん」
返事がある。
ちゃんと、ここにいる声だった。
朔が俺の手を取る。
指と指が、ゆっくり絡む。
ただ握るだけじゃない。
恋人みたいなつなぎ方だった。
そう思った瞬間、顔が熱くなる。
「透」
「はい」
「今日は、帰さなくてもいい?」
胸の奥が、甘く跳ねた。
言葉の意味が分からないほど、子どもじゃない。
でも、すぐに頷けるほど、慣れてもいない。
朔は俺の指を絡めたまま、親指でそっと撫でた。
指先から、変な熱が上がってくる。
急かされているわけじゃない。
でも、欲しがられていないわけでもない。
それでも朔は、ちゃんと俺の答えを待っていた。
昔みたいに、連れていこうとはしない。
俺が答えるまで、ただ待っている。
「……聞き方がずるいです」
「うん」
「分かってて言ってますよね」
「うん」
朔は少しだけ笑った。
「透が嫌なら、帰す」
その言い方に、胸が苦しくなる。
帰す、という言葉が、もう怖くない。
俺を引き戻す言葉でも、閉じ込める言葉でもない。
選ばせてくれる言葉だった。
俺は、絡められた指を握り返した。
「……嫌じゃないです」
朔の目が、静かに揺れた。
「本当に?」
「はい」
声が少し震えた。
「今日は、帰りたくないです」
言ってから、顔が熱くなる。
朔は一瞬だけ息を止めた。
それから、泣きそうなくらいやさしく笑った。
「うん」
指先に、少しだけ力がこもる。
「じゃあ、帰さない」
その言葉は、まだ甘かった。
でも、もう怖くはなかった。
今度は、俺が選んだ夜だった。
俺は朔の手を握り返して、春の光の中へ一歩踏み出した。
