朔が目を覚ましたあと、すぐに何かが劇的に変わったわけではなかった。
映画みたいに、その場で起き上がることもなかった。
全部を思い出すこともなかった。
俺を見て、外階段にいた時みたいに笑うこともなかった。
朔は、少しずつ戻ってきた。
最初は、声を出すだけで疲れていた。
水を飲むのにも時間がかかった。
指を動かす。首を動かす。身体を起こす。
それだけのことが、朔にとっては長いリハビリだった。
それでも、朔は生きていた。
青嶺学園は、少しだけざわついた。
五年前に「転校した」とだけ説明されていた生徒が、重症を負い、生きていて、目を覚ました。
それは学校にとっても、楠寮にとっても、なかったことにはできない出来事だった。
けれど、何かが大きく報じられることはなかった。
藤代家が、それを望まなかったからだ。
代わりに、大人たちの話し合いがあった。
五年前の記録の確認。
外階段の正式な点検。
藤代家への謝罪。
当時の対応についての見直し。
その全部を、俺は詳しく知らない。
でも、一つだけ知っている。
楠寮の古い入寮者控えから、修正液で潰されていた名前は、そのままにはされなかった。
藤代朔。
その名前が、もう一度、ちゃんと読める字で戻された。
小野寺さんは、しばらく俺と目を合わせなかった。
怒っているわけではない。
たぶん、合わせられなかったのだと思う。
ある日の夕方、寮監室の前で呼び止められた。
「柏木」
「はい」
「……藤代が目を覚ましたそうだな」
「はい」
「そうか」
小野寺さんは、それだけ言って、長く黙った。
それから、机の引き出しを開け、古い鍵束を出した。
「外階段の鍵だ。もう使うことはないと思っていた」
鍵は、鈍く光っていた。
「五年前、もっと早く閉めていればよかったのか。もっと早く話を聞いていればよかったのか。今でも分からん」
俺は何も言えなかった。
「だが、名前まで閉じ込めるべきではなかった」
小野寺さんは、低く言った。
「それは、間違っていた」
鍵束を握る指に、少しだけ力が入る。
「藤代にも、いつか直接謝る。……謝って済む話ではないが」
俺は、小さく頷いた。
外階段を閉じることと、名前を消すことは違う。
危ない場所を封じることと、そこにいた人をいなかったことにすることは、全然違う。
俺は、そのことをもう知っていた。
朔が目を覚ましてから、俺たちは毎晩メッセージをした。
長いやりとりではない。
『今日はリハビリどうでしたか』
『三歩歩いた』
『すごいです』
『褒め方が小学生』
『食堂の唐揚げ、まだ固いです』
『昔から固かった』
『改善されてません』
『青嶺、そういうところ変わらないね』
そんな、何でもない会話ばかりだった。
それでも、画面に朔の名前が出るたびに胸が温かくなった。
朔は、今の時間にいる。
夜の外階段ではなく、病室の向こうで、ちゃんと今日を生きている。
嬉しかった。
嬉しかったけれど、寂しくないわけではなかった。
外階段にいた朔は、毎晩みたいに俺を抱きしめてくれた。
背中から、腰に腕を回して。
耳元で名前を呼んで。
怖いくらい近くにいてくれた。
でも、目を覚ました朔は、俺を抱きしめてくれない。
メッセージはくれる。
面会に行けば笑ってくれる。
俺が帰る時には、少し寂しそうな顔もする。
でも、それ以上はしない。
きっと、それが正しい。
朔は五年眠っていた。
俺はまだ高校生で。
俺たちは、外階段の夜から始まってしまったから。
***
朔が初めて外に出た日、空は少し眩しかった。
療養施設の庭には、低い植え込みと、白いベンチがあった。
春というにはまだ風が冷たくて、でも病室の白い天井よりはずっと広かった。
朔は車椅子に座っていた。
病室で目を覚ました時より顔色はよくなっていたけれど、まだ少し疲れやすそうだった。
それでも外に出たいと言ったのは、朔の方だったらしい。
「眩しい」
朔が目を細める。
「大丈夫ですか」
「うん。五年分、まとめて浴びてる感じ」
「それは、たぶん浴びすぎです」
「透はすぐ真面目に返すね」
「心配してるんです」
「知ってる」
朔はそう言って、少しだけ笑った。
外階段で見た笑い方とは違う。
病室で目を覚ましたばかりの、頼りない笑い方とも違う。
今の朔の笑い方だった。
俺は、車椅子の横に立っていた。
何を話せばいいのか、まだ時々分からなくなる。
毎晩メッセージはしているのに、実際に会うと、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
画面越しの朔は、ちゃんと今の時間にいる。
でも、目の前の朔を見ると、外階段の朔も一緒に思い出してしまう。
背中から抱きしめられた夜。
耳元で名前を呼ばれたこと。
冷たいのに、甘かった腕。
あの朔は、毎晩みたいに俺を抱きしめてくれた。
でも、目を覚ました朔は、俺を抱きしめなかった。
それは、正しい。
そう分かっているのに、少しだけ寂しかった。
「透」
「はい」
「今、寂しい顔してる」
心臓が跳ねた。
「してません」
「してる」
「してません」
「じゃあ、俺の勘違い?」
朔の声はやさしかった。
責める声じゃない。
ただ、見つけてしまった声だった。
俺は少しだけ黙った。
「……少しだけ」
「うん」
「外階段の朔は、よく抱きしめてくれたので」
言ってから、顔が熱くなった。
「すみません。変なことを」
「変じゃない」
朔はすぐに言った。
それから、少しだけ迷うように視線を落とした。
「俺も、ずっと思ってた」
「何をですか」
「透を、抱きしめたいって」
息が止まった。
朔は顔を上げる。
「抱きしめてもいい?」
聞かれたことが、まず嬉しかった。
外階段の朔は、俺を当然みたいに抱きしめた。
それが怖くて、甘くて、抗えなかった。
でも今の朔は、ちゃんと聞いてくれる。
「……はい」
答えると、朔はゆっくり腕を伸ばした。
車椅子に座ったまま、少し不器用に俺を抱き寄せる。
温かかった。
冷たくない。
消えそうでもない。
どこかへ連れていく腕でもない。
ただ、ここにいる人の腕だった。
「本当は」
朔が、俺の肩口で小さく言った。
「毎晩、こうしたい」
喉が詰まった。
「……朔」
「でも、しない」
その声は、思っていたより静かだった。
俺は少しだけ身体を離して、朔を見る。
「どうしてですか」
「今は、透は高校生だから」
胸が小さく鳴った。
「それに、俺は戻ってきたばかりだ」
朔は、自分の膝の上に置いた手を見た。
「歩くのも、食べるのも、眠るのも、まだ少しずつ思い出してる途中で。
透のことも、ちゃんと大事にするやり方を、間違えたくない」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
外階段の朔は、俺を欲しがった。
俺を呼んだ。
俺を連れて行こうとした。
でも今の朔は、欲しいからこそ待とうとしている。
「俺、待つよ」
朔が言った。
「透が卒業するまで」
「……二年あります」
「うん」
「長いです」
「五年眠ってたから、二年はたぶん起きて待てる」
「そういう問題ですか」
「違うかも」
朔は少しだけ笑った。
「でも、待ちたい」
その言い方が、あまりにも静かで、胸が痛くなった。
「透を、外階段の続きみたいに抱きしめたくない」
「……はい」
「ちゃんと、今の時間で好きになりたい」
俺は、何も言えなくなった。
泣きそうだった。
でも、泣くのは少し違う気がした。
これは悲しい言葉じゃない。
待ってくれるという言葉だった。
「俺も、待ちます」
やっと、それだけ言った。
朔の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「うん」
「でも」
言いかけて、少し迷った。
「たまには、こうしてほしいです」
朔が目を細めた。
「たまにでいいの」
その声が、少しだけ甘くて、胸が鳴った。
「……会いに来た時は」
「うん」
「いつも」
言ってから、顔が熱くなった。
朔はしばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくり笑った。
「分かった」
腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
「会いに来た時は、いつも抱きしめる」
「……はい」
「もちろん、透が嫌じゃない時だけ」
「嫌じゃないです」
「今は?」
「……抱きしめてほしいです」
朔は、少しだけ困ったように笑った。
「そういう言い方されると、帰したくなくなる」
胸が甘く痛んだ。
「帰してください」
「うん。帰す」
朔の声は静かだった。
「ちゃんと帰すよ」
朔は、少しだけ笑った。
その返事だけで、胸が熱くなった。
外階段の夜に戻るんじゃない。
あの甘さに沈むんじゃない。
今の時間の中で、少しずつ近づいていく。
それでいい。
それがいいのだと思った。
映画みたいに、その場で起き上がることもなかった。
全部を思い出すこともなかった。
俺を見て、外階段にいた時みたいに笑うこともなかった。
朔は、少しずつ戻ってきた。
最初は、声を出すだけで疲れていた。
水を飲むのにも時間がかかった。
指を動かす。首を動かす。身体を起こす。
それだけのことが、朔にとっては長いリハビリだった。
それでも、朔は生きていた。
青嶺学園は、少しだけざわついた。
五年前に「転校した」とだけ説明されていた生徒が、重症を負い、生きていて、目を覚ました。
それは学校にとっても、楠寮にとっても、なかったことにはできない出来事だった。
けれど、何かが大きく報じられることはなかった。
藤代家が、それを望まなかったからだ。
代わりに、大人たちの話し合いがあった。
五年前の記録の確認。
外階段の正式な点検。
藤代家への謝罪。
当時の対応についての見直し。
その全部を、俺は詳しく知らない。
でも、一つだけ知っている。
楠寮の古い入寮者控えから、修正液で潰されていた名前は、そのままにはされなかった。
藤代朔。
その名前が、もう一度、ちゃんと読める字で戻された。
小野寺さんは、しばらく俺と目を合わせなかった。
怒っているわけではない。
たぶん、合わせられなかったのだと思う。
ある日の夕方、寮監室の前で呼び止められた。
「柏木」
「はい」
「……藤代が目を覚ましたそうだな」
「はい」
「そうか」
小野寺さんは、それだけ言って、長く黙った。
それから、机の引き出しを開け、古い鍵束を出した。
「外階段の鍵だ。もう使うことはないと思っていた」
鍵は、鈍く光っていた。
「五年前、もっと早く閉めていればよかったのか。もっと早く話を聞いていればよかったのか。今でも分からん」
俺は何も言えなかった。
「だが、名前まで閉じ込めるべきではなかった」
小野寺さんは、低く言った。
「それは、間違っていた」
鍵束を握る指に、少しだけ力が入る。
「藤代にも、いつか直接謝る。……謝って済む話ではないが」
俺は、小さく頷いた。
外階段を閉じることと、名前を消すことは違う。
危ない場所を封じることと、そこにいた人をいなかったことにすることは、全然違う。
俺は、そのことをもう知っていた。
朔が目を覚ましてから、俺たちは毎晩メッセージをした。
長いやりとりではない。
『今日はリハビリどうでしたか』
『三歩歩いた』
『すごいです』
『褒め方が小学生』
『食堂の唐揚げ、まだ固いです』
『昔から固かった』
『改善されてません』
『青嶺、そういうところ変わらないね』
そんな、何でもない会話ばかりだった。
それでも、画面に朔の名前が出るたびに胸が温かくなった。
朔は、今の時間にいる。
夜の外階段ではなく、病室の向こうで、ちゃんと今日を生きている。
嬉しかった。
嬉しかったけれど、寂しくないわけではなかった。
外階段にいた朔は、毎晩みたいに俺を抱きしめてくれた。
背中から、腰に腕を回して。
耳元で名前を呼んで。
怖いくらい近くにいてくれた。
でも、目を覚ました朔は、俺を抱きしめてくれない。
メッセージはくれる。
面会に行けば笑ってくれる。
俺が帰る時には、少し寂しそうな顔もする。
でも、それ以上はしない。
きっと、それが正しい。
朔は五年眠っていた。
俺はまだ高校生で。
俺たちは、外階段の夜から始まってしまったから。
***
朔が初めて外に出た日、空は少し眩しかった。
療養施設の庭には、低い植え込みと、白いベンチがあった。
春というにはまだ風が冷たくて、でも病室の白い天井よりはずっと広かった。
朔は車椅子に座っていた。
病室で目を覚ました時より顔色はよくなっていたけれど、まだ少し疲れやすそうだった。
それでも外に出たいと言ったのは、朔の方だったらしい。
「眩しい」
朔が目を細める。
「大丈夫ですか」
「うん。五年分、まとめて浴びてる感じ」
「それは、たぶん浴びすぎです」
「透はすぐ真面目に返すね」
「心配してるんです」
「知ってる」
朔はそう言って、少しだけ笑った。
外階段で見た笑い方とは違う。
病室で目を覚ましたばかりの、頼りない笑い方とも違う。
今の朔の笑い方だった。
俺は、車椅子の横に立っていた。
何を話せばいいのか、まだ時々分からなくなる。
毎晩メッセージはしているのに、実際に会うと、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
画面越しの朔は、ちゃんと今の時間にいる。
でも、目の前の朔を見ると、外階段の朔も一緒に思い出してしまう。
背中から抱きしめられた夜。
耳元で名前を呼ばれたこと。
冷たいのに、甘かった腕。
あの朔は、毎晩みたいに俺を抱きしめてくれた。
でも、目を覚ました朔は、俺を抱きしめなかった。
それは、正しい。
そう分かっているのに、少しだけ寂しかった。
「透」
「はい」
「今、寂しい顔してる」
心臓が跳ねた。
「してません」
「してる」
「してません」
「じゃあ、俺の勘違い?」
朔の声はやさしかった。
責める声じゃない。
ただ、見つけてしまった声だった。
俺は少しだけ黙った。
「……少しだけ」
「うん」
「外階段の朔は、よく抱きしめてくれたので」
言ってから、顔が熱くなった。
「すみません。変なことを」
「変じゃない」
朔はすぐに言った。
それから、少しだけ迷うように視線を落とした。
「俺も、ずっと思ってた」
「何をですか」
「透を、抱きしめたいって」
息が止まった。
朔は顔を上げる。
「抱きしめてもいい?」
聞かれたことが、まず嬉しかった。
外階段の朔は、俺を当然みたいに抱きしめた。
それが怖くて、甘くて、抗えなかった。
でも今の朔は、ちゃんと聞いてくれる。
「……はい」
答えると、朔はゆっくり腕を伸ばした。
車椅子に座ったまま、少し不器用に俺を抱き寄せる。
温かかった。
冷たくない。
消えそうでもない。
どこかへ連れていく腕でもない。
ただ、ここにいる人の腕だった。
「本当は」
朔が、俺の肩口で小さく言った。
「毎晩、こうしたい」
喉が詰まった。
「……朔」
「でも、しない」
その声は、思っていたより静かだった。
俺は少しだけ身体を離して、朔を見る。
「どうしてですか」
「今は、透は高校生だから」
胸が小さく鳴った。
「それに、俺は戻ってきたばかりだ」
朔は、自分の膝の上に置いた手を見た。
「歩くのも、食べるのも、眠るのも、まだ少しずつ思い出してる途中で。
透のことも、ちゃんと大事にするやり方を、間違えたくない」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
外階段の朔は、俺を欲しがった。
俺を呼んだ。
俺を連れて行こうとした。
でも今の朔は、欲しいからこそ待とうとしている。
「俺、待つよ」
朔が言った。
「透が卒業するまで」
「……二年あります」
「うん」
「長いです」
「五年眠ってたから、二年はたぶん起きて待てる」
「そういう問題ですか」
「違うかも」
朔は少しだけ笑った。
「でも、待ちたい」
その言い方が、あまりにも静かで、胸が痛くなった。
「透を、外階段の続きみたいに抱きしめたくない」
「……はい」
「ちゃんと、今の時間で好きになりたい」
俺は、何も言えなくなった。
泣きそうだった。
でも、泣くのは少し違う気がした。
これは悲しい言葉じゃない。
待ってくれるという言葉だった。
「俺も、待ちます」
やっと、それだけ言った。
朔の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「うん」
「でも」
言いかけて、少し迷った。
「たまには、こうしてほしいです」
朔が目を細めた。
「たまにでいいの」
その声が、少しだけ甘くて、胸が鳴った。
「……会いに来た時は」
「うん」
「いつも」
言ってから、顔が熱くなった。
朔はしばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくり笑った。
「分かった」
腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
「会いに来た時は、いつも抱きしめる」
「……はい」
「もちろん、透が嫌じゃない時だけ」
「嫌じゃないです」
「今は?」
「……抱きしめてほしいです」
朔は、少しだけ困ったように笑った。
「そういう言い方されると、帰したくなくなる」
胸が甘く痛んだ。
「帰してください」
「うん。帰す」
朔の声は静かだった。
「ちゃんと帰すよ」
朔は、少しだけ笑った。
その返事だけで、胸が熱くなった。
外階段の夜に戻るんじゃない。
あの甘さに沈むんじゃない。
今の時間の中で、少しずつ近づいていく。
それでいい。
それがいいのだと思った。
