三〇七号室の見えない先輩

 朔が目を覚ましたあと、すぐに何かが劇的に変わったわけではなかった。

 映画みたいに、その場で起き上がることもなかった。
 全部を思い出すこともなかった。
 俺を見て、外階段にいた時みたいに笑うこともなかった。

 朔は、少しずつ戻ってきた。

 最初は、声を出すだけで疲れていた。
 水を飲むのにも時間がかかった。
 指を動かす。首を動かす。身体を起こす。
 それだけのことが、朔にとっては長いリハビリだった。

 それでも、朔は生きていた。

 青嶺学園は、少しだけざわついた。
 五年前に「転校した」とだけ説明されていた生徒が、重症を負い、生きていて、目を覚ました。
 それは学校にとっても、楠寮にとっても、なかったことにはできない出来事だった。

 けれど、何かが大きく報じられることはなかった。
 藤代家が、それを望まなかったからだ。

 代わりに、大人たちの話し合いがあった。
 五年前の記録の確認。
 外階段の正式な点検。
 藤代家への謝罪。
 当時の対応についての見直し。

 その全部を、俺は詳しく知らない。

 でも、一つだけ知っている。

 楠寮の古い入寮者控えから、修正液で潰されていた名前は、そのままにはされなかった。

 藤代朔。

 その名前が、もう一度、ちゃんと読める字で戻された。
 小野寺さんは、しばらく俺と目を合わせなかった。
 怒っているわけではない。
 たぶん、合わせられなかったのだと思う。

 ある日の夕方、寮監室の前で呼び止められた。

「柏木」
「はい」
「……藤代が目を覚ましたそうだな」
「はい」
「そうか」

 小野寺さんは、それだけ言って、長く黙った。
 それから、机の引き出しを開け、古い鍵束を出した。

「外階段の鍵だ。もう使うことはないと思っていた」

 鍵は、鈍く光っていた。

「五年前、もっと早く閉めていればよかったのか。もっと早く話を聞いていればよかったのか。今でも分からん」

 俺は何も言えなかった。

「だが、名前まで閉じ込めるべきではなかった」

 小野寺さんは、低く言った。

「それは、間違っていた」

 鍵束を握る指に、少しだけ力が入る。

「藤代にも、いつか直接謝る。……謝って済む話ではないが」

 俺は、小さく頷いた。
 外階段を閉じることと、名前を消すことは違う。
 危ない場所を封じることと、そこにいた人をいなかったことにすることは、全然違う。

 俺は、そのことをもう知っていた。

 朔が目を覚ましてから、俺たちは毎晩メッセージをした。

 長いやりとりではない。

『今日はリハビリどうでしたか』
『三歩歩いた』
『すごいです』
『褒め方が小学生』
『食堂の唐揚げ、まだ固いです』
『昔から固かった』
『改善されてません』
『青嶺、そういうところ変わらないね』

 そんな、何でもない会話ばかりだった。
 それでも、画面に朔の名前が出るたびに胸が温かくなった。

 朔は、今の時間にいる。
 夜の外階段ではなく、病室の向こうで、ちゃんと今日を生きている。

 嬉しかった。

 嬉しかったけれど、寂しくないわけではなかった。

 外階段にいた朔は、毎晩みたいに俺を抱きしめてくれた。
 背中から、腰に腕を回して。
 耳元で名前を呼んで。
 怖いくらい近くにいてくれた。

 でも、目を覚ました朔は、俺を抱きしめてくれない。

 メッセージはくれる。
 面会に行けば笑ってくれる。
 俺が帰る時には、少し寂しそうな顔もする。

 でも、それ以上はしない。

 きっと、それが正しい。

 朔は五年眠っていた。
 俺はまだ高校生で。
 俺たちは、外階段の夜から始まってしまったから。

***

 朔が初めて外に出た日、空は少し眩しかった。

 療養施設の庭には、低い植え込みと、白いベンチがあった。
 春というにはまだ風が冷たくて、でも病室の白い天井よりはずっと広かった。

 朔は車椅子に座っていた。

 病室で目を覚ました時より顔色はよくなっていたけれど、まだ少し疲れやすそうだった。
 それでも外に出たいと言ったのは、朔の方だったらしい。

「眩しい」

 朔が目を細める。

「大丈夫ですか」

「うん。五年分、まとめて浴びてる感じ」
「それは、たぶん浴びすぎです」
「透はすぐ真面目に返すね」
「心配してるんです」
「知ってる」

 朔はそう言って、少しだけ笑った。

 外階段で見た笑い方とは違う。
 病室で目を覚ましたばかりの、頼りない笑い方とも違う。

 今の朔の笑い方だった。

 俺は、車椅子の横に立っていた。

 何を話せばいいのか、まだ時々分からなくなる。
 毎晩メッセージはしているのに、実際に会うと、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。

 画面越しの朔は、ちゃんと今の時間にいる。
 でも、目の前の朔を見ると、外階段の朔も一緒に思い出してしまう。

 背中から抱きしめられた夜。
 耳元で名前を呼ばれたこと。
 冷たいのに、甘かった腕。

 あの朔は、毎晩みたいに俺を抱きしめてくれた。

 でも、目を覚ました朔は、俺を抱きしめなかった。

 それは、正しい。

 そう分かっているのに、少しだけ寂しかった。

「透」
「はい」
「今、寂しい顔してる」

 心臓が跳ねた。

「してません」
「してる」
「してません」
「じゃあ、俺の勘違い?」

 朔の声はやさしかった。

 責める声じゃない。
 ただ、見つけてしまった声だった。

 俺は少しだけ黙った。

「……少しだけ」
「うん」
「外階段の朔は、よく抱きしめてくれたので」

 言ってから、顔が熱くなった。

「すみません。変なことを」
「変じゃない」

 朔はすぐに言った。

 それから、少しだけ迷うように視線を落とした。

「俺も、ずっと思ってた」
「何をですか」
「透を、抱きしめたいって」

 息が止まった。
 朔は顔を上げる。

「抱きしめてもいい?」

 聞かれたことが、まず嬉しかった。
 外階段の朔は、俺を当然みたいに抱きしめた。
 それが怖くて、甘くて、抗えなかった。

 でも今の朔は、ちゃんと聞いてくれる。

「……はい」

 答えると、朔はゆっくり腕を伸ばした。

 車椅子に座ったまま、少し不器用に俺を抱き寄せる。

 温かかった。

 冷たくない。
 消えそうでもない。
 どこかへ連れていく腕でもない。

 ただ、ここにいる人の腕だった。

「本当は」

 朔が、俺の肩口で小さく言った。

「毎晩、こうしたい」

 喉が詰まった。

「……朔」
「でも、しない」

 その声は、思っていたより静かだった。
 俺は少しだけ身体を離して、朔を見る。

「どうしてですか」
「今は、透は高校生だから」

 胸が小さく鳴った。

「それに、俺は戻ってきたばかりだ」

 朔は、自分の膝の上に置いた手を見た。

「歩くのも、食べるのも、眠るのも、まだ少しずつ思い出してる途中で。
 透のことも、ちゃんと大事にするやり方を、間違えたくない」

 その言葉に、胸の奥が熱くなった。

 外階段の朔は、俺を欲しがった。
 俺を呼んだ。
 俺を連れて行こうとした。

 でも今の朔は、欲しいからこそ待とうとしている。

「俺、待つよ」

 朔が言った。

「透が卒業するまで」
「……二年あります」
「うん」
「長いです」
「五年眠ってたから、二年はたぶん起きて待てる」
「そういう問題ですか」
「違うかも」

 朔は少しだけ笑った。

「でも、待ちたい」

 その言い方が、あまりにも静かで、胸が痛くなった。

「透を、外階段の続きみたいに抱きしめたくない」
「……はい」
「ちゃんと、今の時間で好きになりたい」

 俺は、何も言えなくなった。

 泣きそうだった。
 でも、泣くのは少し違う気がした。

 これは悲しい言葉じゃない。

 待ってくれるという言葉だった。

「俺も、待ちます」

 やっと、それだけ言った。

 朔の腕が、ほんの少しだけ強くなる。

「うん」
「でも」

 言いかけて、少し迷った。

「たまには、こうしてほしいです」

 朔が目を細めた。

「たまにでいいの」

 その声が、少しだけ甘くて、胸が鳴った。

「……会いに来た時は」
「うん」
「いつも」

 言ってから、顔が熱くなった。

 朔はしばらく俺を見ていた。
 それから、ゆっくり笑った。

「分かった」

 腕に、ほんの少しだけ力がこもる。

「会いに来た時は、いつも抱きしめる」
「……はい」
「もちろん、透が嫌じゃない時だけ」
「嫌じゃないです」
「今は?」
「……抱きしめてほしいです」

 朔は、少しだけ困ったように笑った。

「そういう言い方されると、帰したくなくなる」

 胸が甘く痛んだ。

「帰してください」
「うん。帰す」

 朔の声は静かだった。

「ちゃんと帰すよ」

 朔は、少しだけ笑った。

 その返事だけで、胸が熱くなった。
 外階段の夜に戻るんじゃない。
 あの甘さに沈むんじゃない。

 今の時間の中で、少しずつ近づいていく。

 それでいい。

 それがいいのだと思った。