三〇七号室の見えない先輩

 療養施設へ行けることになったのは、その二日後だった。

 青嶺学園から電車で一時間半。
 駅からさらにバスに乗って、丘の上にある白い建物へ向かう。
 窓の外には、低い住宅街と、春になりきれない薄い緑が流れていた。

 俺は、膝の上で手を握っていた。
 真田先輩は隣に座っている。
 榊は、ひとつ前の席でスマホを見ていた。
 いつも通りの顔をしている。
 でも、何度も施設からのメッセージを確認しているのは分かった。

 五年。

 藤代朔は、五年前の事故から、ずっと眠っている。
 俺が中学生だった頃から、朔はずっと目を覚まさなかったことになる。

 外階段にいた朔は、高校生の姿のままだった。
 俺に名前を呼ばせて。
 俺を抱きしめて。
 特別だと言って。
 好きだと言って。

 その朔と、今から会う朔は、同じ人なんだろうか。

 分からない。

 でも、会いに行くと決めた。
 呼ばれたからじゃない。
 寂しかったからでもない。
 俺が、会いたいと思ったから。

 施設の入口には、白い花が植えられていた。
 自動ドアが開くと、消毒液の匂いがした。
 その匂いだけで、胸の奥がぎゅっと縮む。

 ここに、朔がいる。

 受付で名前を告げると、職員の人が静かに頷いた。

「藤代様のご家族がお待ちです」

 案内された面談室には、ひとりの女性がいた。
 黒い髪に、少しだけ白いものが混じっている。
 姿勢はまっすぐなのに、膝の上で重ねた手だけが、かすかに震えていた。

 この人が、朔のお母さんなのだとすぐに分かった。

「柏木透さん、ですね」
「はい」

 声が少し震えた。

「藤代朔の母です」

 藤代さんは、俺をまっすぐ見た。
 その目は、朔に少し似ていた。
 静かで、奥に光を溜めている目。

「お話は、伺いました。すべてを信じられているわけではありません」
「……はい」
「でも、朔の名前を、今も呼んでくれる人がいるなら」

 藤代さんは、一度だけ息を吸った。

「会ってほしいと思いました」

 胸の奥が熱くなる。
 朔の名前が、ここでは普通に聞こえる。
 誰にも抜け落ちない。
 誰も聞き取れない顔をしない。

 それだけで、泣きそうになった。

「こちらです」

 藤代さんに案内されて、白い廊下を歩いた。
 窓の外には芝生がある。
 学校の廊下とは全然違う。
 外階段の冷たい空気とも違う。
 ここには、五年前の夜ではなく、五年分の朝が積もっている気がした。

 病室の前で、藤代さんが足を止める。

「驚かないでくださいね」

 そう言われて、喉が鳴った。
 俺は頷いた。

 扉が開く。

 薄いカーテン。
 白いベッド。
 小さく規則的に鳴る機械の音。

 そこに、朔がいた。

 でも、俺の知っている朔ではなかった。
 外階段の朔は、五年前のままだった。
 けれど、ベッドに横たわる朔は、ちゃんと五年分、大人になっていた。

 柔らかく伸びた黒髪が、枕の上に流れている。
 眠っているせいで少し乱れていて、それが妙に生々しかった。
 肩幅はある。
 骨格も、手の大きさも、本来はしっかりした人なのだと分かる。

 けれど、長く眠っていたせいで、白い寝衣の下の身体は静かに細っていた。

 それが、痛かった。

 朔は、ここにいた。
 怪異でも、噂でも、名簿から消された名前でもなく。
 眠ったまま。
 呼吸をして。
 五年分の時間を、身体だけで受け止めながら。

 ここにいた。

「……朔」

 名前が、口から零れた。
 榊が何か言いかけた気配がした。
 でも、止めなかった。
 俺はベッドのそばへ近づいた。

 ここにいる朔は、俺を知らないかもしれない。
 俺に特別だと言った朔じゃない。
 俺に好きだと言った朔じゃない。
 俺を抱きしめた朔じゃない。

 でも。

 ここにいるのも、朔だった。

「初めまして」

 俺は、小さく言った。

「柏木透です」

 自分の声が震えている。

「青嶺学園の、楠寮三〇七にいます」

 藤代さんが、後ろで息を呑んだ。

「俺、外階段で朔に会いました」

 眠っている朔は動かない。
 それでも、言わなきゃいけないと思った。

「怖かったです」

 喉の奥が熱くなる。

「でも、優しかったです。ずるくて、寂しくて、俺のことを何度も呼んで」

 涙が滲んだ。

「俺は、その朔を好きになりました」

 言葉にした瞬間、病室の空気が少しだけ変わった気がした。
 気のせいかもしれない。
 でも、窓際のカーテンが、ふわりと揺れた。
 風なんて入っていないはずだった。

 俺は、そちらを見る。

 窓際に、朔がいた。
 外階段で会った、五年前のままの朔。
 けれど、今までよりずっと薄い。
 朝の光に透けて、輪郭がほどけかけている。

 朔は、ベッドの上の自分を見ていた。
 それから、藤代さんを見た。
 長い間、動かなかった。

 その顔を見て、胸が潰れそうになった。
 たぶん、朔も初めて見たのだ。
 眠っている自分を。
 五年、待っていた母親を。
 自分が止まっていた間にも、世界が続いていたことを。

 朔の唇が震えた。
 声はしなかった。
 でも、俺には分かった。

 ごめん。

 そう言ったのだと思った。

 藤代さんには、朔の姿は見えていない。
 でも、何かを感じたのかもしれない。
 ふいに窓際を見た。

「朔?」

 母親の声だった。
 窓際の朔が、顔を歪める。
 俺は、息を吸った。

「藤代さん」
「はい」
「たぶん、ここにいます」

 藤代さんの目が、大きく見開かれた。

「朔が、ここにいます」

 藤代さんは何も言わなかった。
 ただ、ベッドの上の朔の手を握ったまま、窓際を見た。

「朔」

 その声は、震えていた。

「いるの?」

 窓際の朔は、泣きそうな顔で笑った。
 涙は落ちない。
 でも、泣いているのが分かった。

 俺は、朔を見た。

「見つけました」

 声が震えた。

「ちゃんと、見つけました」

 窓際の朔が、俺を見る。
 その目が、少しだけ細くなる。
 嬉しそうで。
 寂しそうで。
 でも、どこか安心したような顔だった。

 最後に、朔の口元が動いた。

 ありがとう。

 そう見えた。

 次の瞬間、窓際の朔の輪郭が、朝の光にほどけていく。
 怖かった。
 寂しかった。
 でも、それは消えるというより、ようやく戻っていくみたいに見えた。

 俺は、ベッドの上の朔を見る。

「朔」

 名前を呼んだ。

「俺、来ました」

 その時だった。
 白いシーツの上で、朔の指先が動いた。

 一度だけではなかった。
 何かを探すみたいに、かすかに曲がる。
 藤代さんが息を止めた。

「朔……?」

 ベッドの上の朔のまぶたが、震えた。
 俺は息をすることも忘れた。

 ゆっくりと。
 本当に、ゆっくりと。
 朔の目が開いた。

 長い眠りの底から、光を思い出すみたいに。
 焦点の合わない瞳が、天井を見て、母親を見て、それから俺の方へ動いた。

 唇が、かすかに開く。
 声になるまで、長い時間がかかった。

「……みつけた」

 掠れた声だった。
 ほとんど息みたいな声。
 でも、確かに聞こえた。

「……透」

 名前を呼ばれた瞬間、涙が落ちた。

「覚えてるんですか」

 朔は、少しだけ眉を寄せた。

「全部は……分からない」

 掠れた声だった。

「でも」

 朔の目が、ゆっくり俺を捉える。

「君が、特別だったことは覚えてる」

***

 最初に聞こえたのは、名前だった。

 朔。

 誰かが、俺を呼んでいた。
 母の声だった。
 何度も、何度も。
 途切れそうになりながら、それでも諦めずに、俺の名前を呼んでいた。

 その声は、遠くて、あたたかくて、苦しかった。

 戻らなきゃいけない。

 そう思うのに、身体の場所が分からなかった。
 自分がどこにいるのかも、どこへ戻ればいいのかも分からなかった。

 それから、もうひとつ声がした。

 透の声だった。

 朔。

 そう呼ばれた瞬間、暗い水の底みたいな場所に、小さく光が差した。

 俺は、その声を知っていた。
 俺を怖がっていた声。
 震えていた声。
 それでも、逃げなかった声。
 俺を、見つけると言った声。

 忘れられるはずがなかった。

 長い夢を見ていた。
 冷たい外階段。
 黄色いロープ。
 夜の匂い。

 待っていたはずの人は来なくて、俺だけがあの場所に残った。

 そう思っていた。
 ずっと。

 でも、その夜の中に、透が来た。
 俺の名前を呼んだ。
 消されていたはずの名前を。
 誰にも数えられなくなっていた俺を。

 透は、怖がっていた。
 震えていた。
 それでも、俺を見ていた。

 俺は、透を連れていこうとした。

 たぶん。

 夢の中のことみたいに曖昧なのに、そこだけは胸の奥が痛む。

 欲しかった。
 置いていかれたくなかった。
 忘れられたくなかった。
 俺だけを見てほしかった。
 透に、俺だけを選んでほしかった。

 だから、手を伸ばした。

 でも、掴めなかった。
 怯えているのに、俺を好きだと言ったから。
 連れていかれてもいいとまで言って、俺の全部を受け止めようとしたから。

 そんな人を、連れていけるわけがなかった。

 夢の中で、透は俺を抱きしめた。
 冷たい俺を。
 消えそうな俺を。
 五年前の夜に置いていかれたままの俺を。

 透は、ちゃんと抱きしめた。

 そして言った。

 見つけました、と。

 その声で、何かがほどけた。
 外階段の夜が、少しずつ遠ざかっていく。
 黄色いロープも。
 冷たい手すりも。
 待ち続けた足音も。

 全部が、遠くなる。

 代わりに、白い光が近づいてきた。

 目を開けるのは怖かった。
 そこに透がいなかったらどうしようと思った。
 俺の知らない世界だけが続いていて。
 俺を待っている人なんて、もうどこにもいなかったらどうしようと思った。

 でも、目を開けた。

 光の中に、透がいた。
 泣きそうな顔で、俺を見ていた。

 だから、分かった。

 夢じゃなかった。
 俺は見つけられた。
 五年前の夜に置いていかれた俺も。
 病室で眠り続けていた俺も。

 透が、ちゃんと見つけてくれた。

 そして俺も、透を見つけた。