「会いに行きましょう」
言った瞬間、朔が俺を見た。
外階段の前には、夜が濃く溜まっていた。
非常灯の赤い光が壁を濡らし、黄色いロープが暗がりでかすかに揺れている。
さっきまで聞こえていた電話の声は、もうない。
「誰に?」
朔の声は低かった。
「朔に」
「俺は、ここにいる」
「はい」
「じゃあ、どうして」
朔の顔から、少しずつ表情が消えていく。
「どうして、そっちの俺に会いに行くの」
初めて聞く、怒った声だった。
甘えるみたいに名前を呼ぶ声でも、寂しそうに笑う声でもない。
低く、冷たく、奥に黒いものを沈めた声。
どす黒い空気が、朔の足元からじわりと広がった。
「俺は、ここにいるのに」
外階段の手すりが、ぎし、と鳴る。
「透を呼んだのは俺だ。
透に触れたのも、名前を呼んだのも、好きだって言ったのも俺だ」
朔の目が、暗く揺れた。
「なのに、どうして今さら、そっちの俺を探すの」
「ここにいる朔を、なかったことにしたくないからです」
「だったら、ここにいて」
「でも、今もどこかで生きている朔も、なかったことにできません」
「それは俺じゃない」
朔が言った瞬間、外階段の方から音が消えた。
風の音も、遠くの車の音も、誰かの息遣いも。
全部、薄い膜の向こうへ押し込められたみたいに遠くなる。
「それは俺じゃない」
二度目の声は、さっきより低かった。
もう、ただの怒りにも聞こえなかった。
どす黒い空気が、夜より濃く床を這うみたいにこちらへ伸びてくる。
「ここにいる俺が、透を呼んだ」
外階段の手すりが、ぎし、と鳴った。
「ここにいる俺が、透に特別だって言った」
黄色いロープが、風もないのに揺れる。
「ここにいる俺が、透を好きになった」
朔の目が、暗く沈んでいた。
俺を見ているのに、俺の奥まで覗いているような目だった。
「なのに、透はそっちへ行くんだ」
「朔」
「呼ばないで」
胸が、ひやりとした。
朔が、そんな言い方をしたのは初めてだった。
「その声で呼ばないで。期待するから」
足元の影が、外階段の方へ引かれていく。
一歩も動いていないのに、身体だけが少しずつそちらへ寄せられている気がした。
「そっちの俺に会ったら、透は俺をいらなくなる」
「なりません」
「分からないだろ」
「分からないです」
朔の顔が歪んだ。
怒っている。
傷ついている。
それなのに、目だけは縋るみたいに俺を見ていた。
「じゃあ、言わないで」
声が震えた。
「分からないなら、約束しないで」
どす黒い空気が、膝のあたりまで這い上がってくる。
冷たい。
怖い。
でも、目を逸らしたら、その瞬間に朔が本当に壊れてしまう気がした。
「朔」
「行かないで」
今度の声は、泣きそうだった。
けれど、その奥にまだ怒りが残っている。
俺を責める怒りではなかった。
置いていかれることに、もう耐えられない人の怒りだった。
「本当の俺なんか、見に行かなくていい」
朔が、ゆっくり手を伸ばした。
「ここにいる俺を選んで」
息が止まった。
白い指だった。
夜の中で、その手だけが妙にはっきり見えた。
「柏木、下がれ」
榊の声が飛んだ。
真田先輩が俺の腕を掴もうとした。
けれどその前に、冷たい風が足元から跳ね上がった。
「っ」
榊の身体が横へ弾かれる。
真田先輩が膝をついた。
「榊!」
「平気だ。柏木、返事するな」
榊の声は低い。
「今のこいつは危ない」
分かっている。
それでも、俺は朔から目を逸らせなかった。
朔が俺を欲しがっている。
俺だけを見て、行かないでと言っている。
ずっと欲しかった言葉だった。
「……いいです」
口にした瞬間、背後の空気が凍った。
「柏木!」
俺は朔だけを見た。
「朔が本当にそれを望むなら、俺を連れて行ってもいいです」
朔の目が見開かれた。
「……ほんとに?」
「はい」
「俺と一緒に、ここで止まってくれる?」
「はい」
怖かった。
足元は冷たくて、指先は震えていた。
でも、一度くらい受け止めたかった。
来なかったと思っていた夜も。
消された名前も。
赦せない怒りも。
俺を連れていきたいほどの寂しさも。
それでもいいと、言ってあげたかった。
朔が近づいてくる。
「透」
「はい」
「本当に、俺と来てくれる?」
「朔が、それしか望めないなら」
朔の指が、俺の手に触れかけた。
冷たい。
たぶん、触れれば終わる。
でも、その指は止まった。
「……なんで」
朔が小さく言った。
「なんで、逃げないの」
「好きだからです」
朔の顔が、くしゃりと歪んだ。
「好きなら、来てよ」
「はい」
「だったら、手を取って」
「はい」
「透」
朔の指が震えている。
あと少しだった。
なのに、朔の手は俺を掴まなかった。
「……できない」
泣きそうな声だった。
「できないよ」
「どうしてですか」
「だって」
朔が俺を見る。
「透のことを、愛してるから」
息が止まった。
好き、ではなかった。
愛してる。
その言葉は、静かで、重かった。
「連れていけるわけない」
朔の手が、ゆっくり下がる。
その瞬間、胸の奥が痛くなった。
俺は一歩踏み出した。
「柏木」
榊の声が飛ぶ。
でも、止まれなかった。
今度は、呼ばれたからじゃない。
連れていかれるためでもない。
俺が、そうしたかった。
朔の胸に顔をうずめて、そっと背中に腕を回す。
冷たい。
でも、確かにそこにいた。
「手は取るなって、言われました」
「うん」
「でも、抱きしめるなとは言われてません」
後ろで、榊がものすごく嫌そうに息を吐いたのが耳に届いた。
「屁理屈言うな」
「榊、ごめん」
「謝るくらいなら離れろ」
「それは、今は無理です」
朔の腕が、おそるおそる俺の背中に回った。
強くは抱き返さない。
閉じ込めるみたいにはしない。
ただ、触れてくる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「俺は、ここにいる朔を好きになりました」
腕の中で、朔が息を呑む。
「怖かったです。
傷つきました。代わりだったのかもしれないって思って、すごく痛かったです」
「……透」
「でも、好きでした」
喉が震える。
「今も、好きです」
朔の腕が、ほんの少し強くなる。
「俺を、忘れないで」
「忘れません」
「名前、呼んで」
「呼びます」
「俺を、見つけて」
「見つけます」
朔はゆっくり離れた。
泣きそうに笑っていた。
「待ってる」
その声が夜に落ちた。
次の瞬間、朔の輪郭が薄くなる。
「朔」
手を伸ばしかけて、止めた。
約束した。
手は取らない。
「透は、来るって言ったから」
「はい」
「俺、信じる」
「はい」
「だから」
朔の声が遠くなる。
「本当の俺に、会いに行って」
「行きます」
「うん」
「必ず」
「うん」
完全に見えなくなる直前、朔が小さく言った。
「好きだよ」
返事をする前に、朔はいなくなった。
外階段の前には、夜だけが残っていた。
黄色いロープが外灯の下で揺れている。
腕の中には、もう何もない。
それなのに、冷たさだけが残っていた。
「柏木」
榊の声がした。
振り向くと、榊は壁に片手をついていた。
真田先輩が、その肩を支えている。
「お前、本当に馬鹿だな」
「……すみません」
「謝って済む話じゃない」
榊の声は低かった。
「今のは、運が良かっただけだ」
「運?」
「藤代が最後に止めたから、お前は戻ってこられた」
榊は外階段を見る。
「普通なら連れていかれてる。連れていかれない方が珍しい」
足元の冷たさが、今になってはっきりした。
もし、朔が手を取っていたら。
もし、俺がそのまま頷いていたら。
俺は、どこへ行っていたんだろう。
三〇七号室か。
五年前の夜か。
それとも、どこにもない場所か。
生きているのに戻れないまま、誰にも見つけられず、外階段の前で誰かを待ち続ける。
名前だけが薄れていく。
見える人を呼ぶ。
手を伸ばす。
俺はずっと、怪異としてここに囚われていたのかもしれない。
そう思った瞬間、背中が冷えた。
「……朔は、俺を連れていかなかった」
「ああ」
榊は短く答えた。
「だから危ないんだよ」
「え?」
「連れていけたのに、連れていかなかった。選んでる。迷ってる。欲しがってる。止めてる。そんなものが境に残っているのが、一番まずい」
榊のスマホが震えた。
画面を見た榊の表情が変わる。
「さっきの人からだ」
息が止まった。
「療養施設の名前が分かったって」
夜の外階段が、音もなくこちらを見ている気がした。
そこに朔はいない。
でも、待っている。
俺は冷たさの残る腕を握りしめた。
「行きます」
榊が、嫌そうに俺を見る。
「止めても行くだろ」
「はい」
「じゃあ、勝手に行くな。俺も行く」
「俺もだ」
真田先輩が言った。
「お前一人で行かせたら、また何かに手を伸ばしそうだからな」
外階段の前で、黄色いロープが揺れている。
朔はいない。
けれど、ここにいる。
そして、どこかで生きている。
その二つを、もう別々のままにはできなかった。
言った瞬間、朔が俺を見た。
外階段の前には、夜が濃く溜まっていた。
非常灯の赤い光が壁を濡らし、黄色いロープが暗がりでかすかに揺れている。
さっきまで聞こえていた電話の声は、もうない。
「誰に?」
朔の声は低かった。
「朔に」
「俺は、ここにいる」
「はい」
「じゃあ、どうして」
朔の顔から、少しずつ表情が消えていく。
「どうして、そっちの俺に会いに行くの」
初めて聞く、怒った声だった。
甘えるみたいに名前を呼ぶ声でも、寂しそうに笑う声でもない。
低く、冷たく、奥に黒いものを沈めた声。
どす黒い空気が、朔の足元からじわりと広がった。
「俺は、ここにいるのに」
外階段の手すりが、ぎし、と鳴る。
「透を呼んだのは俺だ。
透に触れたのも、名前を呼んだのも、好きだって言ったのも俺だ」
朔の目が、暗く揺れた。
「なのに、どうして今さら、そっちの俺を探すの」
「ここにいる朔を、なかったことにしたくないからです」
「だったら、ここにいて」
「でも、今もどこかで生きている朔も、なかったことにできません」
「それは俺じゃない」
朔が言った瞬間、外階段の方から音が消えた。
風の音も、遠くの車の音も、誰かの息遣いも。
全部、薄い膜の向こうへ押し込められたみたいに遠くなる。
「それは俺じゃない」
二度目の声は、さっきより低かった。
もう、ただの怒りにも聞こえなかった。
どす黒い空気が、夜より濃く床を這うみたいにこちらへ伸びてくる。
「ここにいる俺が、透を呼んだ」
外階段の手すりが、ぎし、と鳴った。
「ここにいる俺が、透に特別だって言った」
黄色いロープが、風もないのに揺れる。
「ここにいる俺が、透を好きになった」
朔の目が、暗く沈んでいた。
俺を見ているのに、俺の奥まで覗いているような目だった。
「なのに、透はそっちへ行くんだ」
「朔」
「呼ばないで」
胸が、ひやりとした。
朔が、そんな言い方をしたのは初めてだった。
「その声で呼ばないで。期待するから」
足元の影が、外階段の方へ引かれていく。
一歩も動いていないのに、身体だけが少しずつそちらへ寄せられている気がした。
「そっちの俺に会ったら、透は俺をいらなくなる」
「なりません」
「分からないだろ」
「分からないです」
朔の顔が歪んだ。
怒っている。
傷ついている。
それなのに、目だけは縋るみたいに俺を見ていた。
「じゃあ、言わないで」
声が震えた。
「分からないなら、約束しないで」
どす黒い空気が、膝のあたりまで這い上がってくる。
冷たい。
怖い。
でも、目を逸らしたら、その瞬間に朔が本当に壊れてしまう気がした。
「朔」
「行かないで」
今度の声は、泣きそうだった。
けれど、その奥にまだ怒りが残っている。
俺を責める怒りではなかった。
置いていかれることに、もう耐えられない人の怒りだった。
「本当の俺なんか、見に行かなくていい」
朔が、ゆっくり手を伸ばした。
「ここにいる俺を選んで」
息が止まった。
白い指だった。
夜の中で、その手だけが妙にはっきり見えた。
「柏木、下がれ」
榊の声が飛んだ。
真田先輩が俺の腕を掴もうとした。
けれどその前に、冷たい風が足元から跳ね上がった。
「っ」
榊の身体が横へ弾かれる。
真田先輩が膝をついた。
「榊!」
「平気だ。柏木、返事するな」
榊の声は低い。
「今のこいつは危ない」
分かっている。
それでも、俺は朔から目を逸らせなかった。
朔が俺を欲しがっている。
俺だけを見て、行かないでと言っている。
ずっと欲しかった言葉だった。
「……いいです」
口にした瞬間、背後の空気が凍った。
「柏木!」
俺は朔だけを見た。
「朔が本当にそれを望むなら、俺を連れて行ってもいいです」
朔の目が見開かれた。
「……ほんとに?」
「はい」
「俺と一緒に、ここで止まってくれる?」
「はい」
怖かった。
足元は冷たくて、指先は震えていた。
でも、一度くらい受け止めたかった。
来なかったと思っていた夜も。
消された名前も。
赦せない怒りも。
俺を連れていきたいほどの寂しさも。
それでもいいと、言ってあげたかった。
朔が近づいてくる。
「透」
「はい」
「本当に、俺と来てくれる?」
「朔が、それしか望めないなら」
朔の指が、俺の手に触れかけた。
冷たい。
たぶん、触れれば終わる。
でも、その指は止まった。
「……なんで」
朔が小さく言った。
「なんで、逃げないの」
「好きだからです」
朔の顔が、くしゃりと歪んだ。
「好きなら、来てよ」
「はい」
「だったら、手を取って」
「はい」
「透」
朔の指が震えている。
あと少しだった。
なのに、朔の手は俺を掴まなかった。
「……できない」
泣きそうな声だった。
「できないよ」
「どうしてですか」
「だって」
朔が俺を見る。
「透のことを、愛してるから」
息が止まった。
好き、ではなかった。
愛してる。
その言葉は、静かで、重かった。
「連れていけるわけない」
朔の手が、ゆっくり下がる。
その瞬間、胸の奥が痛くなった。
俺は一歩踏み出した。
「柏木」
榊の声が飛ぶ。
でも、止まれなかった。
今度は、呼ばれたからじゃない。
連れていかれるためでもない。
俺が、そうしたかった。
朔の胸に顔をうずめて、そっと背中に腕を回す。
冷たい。
でも、確かにそこにいた。
「手は取るなって、言われました」
「うん」
「でも、抱きしめるなとは言われてません」
後ろで、榊がものすごく嫌そうに息を吐いたのが耳に届いた。
「屁理屈言うな」
「榊、ごめん」
「謝るくらいなら離れろ」
「それは、今は無理です」
朔の腕が、おそるおそる俺の背中に回った。
強くは抱き返さない。
閉じ込めるみたいにはしない。
ただ、触れてくる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「俺は、ここにいる朔を好きになりました」
腕の中で、朔が息を呑む。
「怖かったです。
傷つきました。代わりだったのかもしれないって思って、すごく痛かったです」
「……透」
「でも、好きでした」
喉が震える。
「今も、好きです」
朔の腕が、ほんの少し強くなる。
「俺を、忘れないで」
「忘れません」
「名前、呼んで」
「呼びます」
「俺を、見つけて」
「見つけます」
朔はゆっくり離れた。
泣きそうに笑っていた。
「待ってる」
その声が夜に落ちた。
次の瞬間、朔の輪郭が薄くなる。
「朔」
手を伸ばしかけて、止めた。
約束した。
手は取らない。
「透は、来るって言ったから」
「はい」
「俺、信じる」
「はい」
「だから」
朔の声が遠くなる。
「本当の俺に、会いに行って」
「行きます」
「うん」
「必ず」
「うん」
完全に見えなくなる直前、朔が小さく言った。
「好きだよ」
返事をする前に、朔はいなくなった。
外階段の前には、夜だけが残っていた。
黄色いロープが外灯の下で揺れている。
腕の中には、もう何もない。
それなのに、冷たさだけが残っていた。
「柏木」
榊の声がした。
振り向くと、榊は壁に片手をついていた。
真田先輩が、その肩を支えている。
「お前、本当に馬鹿だな」
「……すみません」
「謝って済む話じゃない」
榊の声は低かった。
「今のは、運が良かっただけだ」
「運?」
「藤代が最後に止めたから、お前は戻ってこられた」
榊は外階段を見る。
「普通なら連れていかれてる。連れていかれない方が珍しい」
足元の冷たさが、今になってはっきりした。
もし、朔が手を取っていたら。
もし、俺がそのまま頷いていたら。
俺は、どこへ行っていたんだろう。
三〇七号室か。
五年前の夜か。
それとも、どこにもない場所か。
生きているのに戻れないまま、誰にも見つけられず、外階段の前で誰かを待ち続ける。
名前だけが薄れていく。
見える人を呼ぶ。
手を伸ばす。
俺はずっと、怪異としてここに囚われていたのかもしれない。
そう思った瞬間、背中が冷えた。
「……朔は、俺を連れていかなかった」
「ああ」
榊は短く答えた。
「だから危ないんだよ」
「え?」
「連れていけたのに、連れていかなかった。選んでる。迷ってる。欲しがってる。止めてる。そんなものが境に残っているのが、一番まずい」
榊のスマホが震えた。
画面を見た榊の表情が変わる。
「さっきの人からだ」
息が止まった。
「療養施設の名前が分かったって」
夜の外階段が、音もなくこちらを見ている気がした。
そこに朔はいない。
でも、待っている。
俺は冷たさの残る腕を握りしめた。
「行きます」
榊が、嫌そうに俺を見る。
「止めても行くだろ」
「はい」
「じゃあ、勝手に行くな。俺も行く」
「俺もだ」
真田先輩が言った。
「お前一人で行かせたら、また何かに手を伸ばしそうだからな」
外階段の前で、黄色いロープが揺れている。
朔はいない。
けれど、ここにいる。
そして、どこかで生きている。
その二つを、もう別々のままにはできなかった。
