三〇七号室の見えない先輩

「会いに行きましょう」

 言った瞬間、朔が俺を見た。

 外階段の前には、夜が濃く溜まっていた。
 非常灯の赤い光が壁を濡らし、黄色いロープが暗がりでかすかに揺れている。
 さっきまで聞こえていた電話の声は、もうない。

「誰に?」

 朔の声は低かった。

「朔に」
「俺は、ここにいる」
「はい」
「じゃあ、どうして」

 朔の顔から、少しずつ表情が消えていく。

「どうして、そっちの俺に会いに行くの」

 初めて聞く、怒った声だった。

 甘えるみたいに名前を呼ぶ声でも、寂しそうに笑う声でもない。
 低く、冷たく、奥に黒いものを沈めた声。

 どす黒い空気が、朔の足元からじわりと広がった。

「俺は、ここにいるのに」

 外階段の手すりが、ぎし、と鳴る。

「透を呼んだのは俺だ。
 透に触れたのも、名前を呼んだのも、好きだって言ったのも俺だ」

 朔の目が、暗く揺れた。

「なのに、どうして今さら、そっちの俺を探すの」
「ここにいる朔を、なかったことにしたくないからです」
「だったら、ここにいて」
「でも、今もどこかで生きている朔も、なかったことにできません」
「それは俺じゃない」

 朔が言った瞬間、外階段の方から音が消えた。

 風の音も、遠くの車の音も、誰かの息遣いも。
 全部、薄い膜の向こうへ押し込められたみたいに遠くなる。

「それは俺じゃない」

 二度目の声は、さっきより低かった。
 もう、ただの怒りにも聞こえなかった。

 どす黒い空気が、夜より濃く床を這うみたいにこちらへ伸びてくる。

「ここにいる俺が、透を呼んだ」

 外階段の手すりが、ぎし、と鳴った。

「ここにいる俺が、透に特別だって言った」

 黄色いロープが、風もないのに揺れる。

「ここにいる俺が、透を好きになった」

 朔の目が、暗く沈んでいた。
 俺を見ているのに、俺の奥まで覗いているような目だった。

「なのに、透はそっちへ行くんだ」
「朔」
「呼ばないで」

 胸が、ひやりとした。
 朔が、そんな言い方をしたのは初めてだった。

「その声で呼ばないで。期待するから」

 足元の影が、外階段の方へ引かれていく。
 一歩も動いていないのに、身体だけが少しずつそちらへ寄せられている気がした。

「そっちの俺に会ったら、透は俺をいらなくなる」
「なりません」
「分からないだろ」
「分からないです」

 朔の顔が歪んだ。

 怒っている。
 傷ついている。
 それなのに、目だけは縋るみたいに俺を見ていた。

「じゃあ、言わないで」

 声が震えた。

「分からないなら、約束しないで」

 どす黒い空気が、膝のあたりまで這い上がってくる。
 冷たい。
 怖い。

 でも、目を逸らしたら、その瞬間に朔が本当に壊れてしまう気がした。

「朔」
「行かないで」

 今度の声は、泣きそうだった。
 けれど、その奥にまだ怒りが残っている。
 俺を責める怒りではなかった。
 置いていかれることに、もう耐えられない人の怒りだった。

「本当の俺なんか、見に行かなくていい」

 朔が、ゆっくり手を伸ばした。

「ここにいる俺を選んで」

 息が止まった。

 白い指だった。
 夜の中で、その手だけが妙にはっきり見えた。

「柏木、下がれ」

 榊の声が飛んだ。

 真田先輩が俺の腕を掴もうとした。
 けれどその前に、冷たい風が足元から跳ね上がった。

「っ」

 榊の身体が横へ弾かれる。
 真田先輩が膝をついた。

「榊!」
「平気だ。柏木、返事するな」

 榊の声は低い。

「今のこいつは危ない」

 分かっている。
 それでも、俺は朔から目を逸らせなかった。

 朔が俺を欲しがっている。
 俺だけを見て、行かないでと言っている。

 ずっと欲しかった言葉だった。

「……いいです」

 口にした瞬間、背後の空気が凍った。

「柏木!」

 俺は朔だけを見た。

「朔が本当にそれを望むなら、俺を連れて行ってもいいです」

 朔の目が見開かれた。

「……ほんとに?」
「はい」
「俺と一緒に、ここで止まってくれる?」
「はい」

 怖かった。
 足元は冷たくて、指先は震えていた。

 でも、一度くらい受け止めたかった。
 来なかったと思っていた夜も。
 消された名前も。
 赦せない怒りも。
 俺を連れていきたいほどの寂しさも。

 それでもいいと、言ってあげたかった。

 朔が近づいてくる。

「透」
「はい」
「本当に、俺と来てくれる?」
「朔が、それしか望めないなら」

 朔の指が、俺の手に触れかけた。

 冷たい。

 たぶん、触れれば終わる。

 でも、その指は止まった。

「……なんで」

 朔が小さく言った。

「なんで、逃げないの」
「好きだからです」

 朔の顔が、くしゃりと歪んだ。

「好きなら、来てよ」
「はい」
「だったら、手を取って」
「はい」
「透」

 朔の指が震えている。
 あと少しだった。

 なのに、朔の手は俺を掴まなかった。

「……できない」

 泣きそうな声だった。

「できないよ」
「どうしてですか」
「だって」

 朔が俺を見る。

「透のことを、愛してるから」

 息が止まった。

 好き、ではなかった。
 愛してる。

 その言葉は、静かで、重かった。

「連れていけるわけない」

 朔の手が、ゆっくり下がる。

 その瞬間、胸の奥が痛くなった。
 俺は一歩踏み出した。

「柏木」

 榊の声が飛ぶ。
 でも、止まれなかった。

 今度は、呼ばれたからじゃない。
 連れていかれるためでもない。

 俺が、そうしたかった。

 朔の胸に顔をうずめて、そっと背中に腕を回す。
 冷たい。
 でも、確かにそこにいた。

「手は取るなって、言われました」
「うん」
「でも、抱きしめるなとは言われてません」

 後ろで、榊がものすごく嫌そうに息を吐いたのが耳に届いた。

「屁理屈言うな」
「榊、ごめん」
「謝るくらいなら離れろ」
「それは、今は無理です」

 朔の腕が、おそるおそる俺の背中に回った。

 強くは抱き返さない。
 閉じ込めるみたいにはしない。
 ただ、触れてくる。

 それだけで、胸がいっぱいになった。

「俺は、ここにいる朔を好きになりました」

 腕の中で、朔が息を呑む。

「怖かったです。
 傷つきました。代わりだったのかもしれないって思って、すごく痛かったです」

「……透」
「でも、好きでした」

 喉が震える。

「今も、好きです」

 朔の腕が、ほんの少し強くなる。

「俺を、忘れないで」
「忘れません」
「名前、呼んで」
「呼びます」
「俺を、見つけて」
「見つけます」

 朔はゆっくり離れた。
 泣きそうに笑っていた。

「待ってる」

 その声が夜に落ちた。

 次の瞬間、朔の輪郭が薄くなる。

「朔」

 手を伸ばしかけて、止めた。
 約束した。
 手は取らない。

「透は、来るって言ったから」
「はい」
「俺、信じる」
「はい」
「だから」

 朔の声が遠くなる。

「本当の俺に、会いに行って」
「行きます」
「うん」
「必ず」
「うん」

 完全に見えなくなる直前、朔が小さく言った。

「好きだよ」

 返事をする前に、朔はいなくなった。

 外階段の前には、夜だけが残っていた。
 黄色いロープが外灯の下で揺れている。

 腕の中には、もう何もない。
 それなのに、冷たさだけが残っていた。

「柏木」

 榊の声がした。

 振り向くと、榊は壁に片手をついていた。
 真田先輩が、その肩を支えている。

「お前、本当に馬鹿だな」
「……すみません」
「謝って済む話じゃない」

 榊の声は低かった。

「今のは、運が良かっただけだ」
「運?」
「藤代が最後に止めたから、お前は戻ってこられた」

 榊は外階段を見る。

「普通なら連れていかれてる。連れていかれない方が珍しい」

 足元の冷たさが、今になってはっきりした。

 もし、朔が手を取っていたら。
 もし、俺がそのまま頷いていたら。

 俺は、どこへ行っていたんだろう。

 三〇七号室か。
 五年前の夜か。
 それとも、どこにもない場所か。

 生きているのに戻れないまま、誰にも見つけられず、外階段の前で誰かを待ち続ける。
 名前だけが薄れていく。
 見える人を呼ぶ。
 手を伸ばす。

 俺はずっと、怪異としてここに囚われていたのかもしれない。

 そう思った瞬間、背中が冷えた。

「……朔は、俺を連れていかなかった」
「ああ」

 榊は短く答えた。

「だから危ないんだよ」
「え?」
「連れていけたのに、連れていかなかった。選んでる。迷ってる。欲しがってる。止めてる。そんなものが境に残っているのが、一番まずい」

 榊のスマホが震えた。

 画面を見た榊の表情が変わる。

「さっきの人からだ」

 息が止まった。

「療養施設の名前が分かったって」

 夜の外階段が、音もなくこちらを見ている気がした。

 そこに朔はいない。
 でも、待っている。

 俺は冷たさの残る腕を握りしめた。

「行きます」

 榊が、嫌そうに俺を見る。

「止めても行くだろ」
「はい」
「じゃあ、勝手に行くな。俺も行く」
「俺もだ」

 真田先輩が言った。

「お前一人で行かせたら、また何かに手を伸ばしそうだからな」

 外階段の前で、黄色いロープが揺れている。

 朔はいない。
 けれど、ここにいる。

 そして、どこかで生きている。

 その二つを、もう別々のままにはできなかった。