三〇七号室の見えない先輩

「藤代は、死んでいません」

 榊の声が、渡り廊下に落ちた。
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 死んでいない。

 その言葉だけが、頭の中で遅れて反響する。
 じゃあ、俺の目の前にいる朔は何なのか。
 五年前からここで止まっている、この人は何なのか。

 朔は、外階段の前で動かなかった。

 薄い暗がりの中で、ただ榊を見ている。

「……死んでない?」

 朔の声は、かすれていた。

 その声を聞いた瞬間、胸が痛くなった。
 俺たちより、朔の方が分からないのだ。
 誰よりも、自分のことなのに。

「榊」

 俺が声を出すと、榊はスマホの画面を見たまま眉を寄せた。

「続きが来てる」
「何て」

 真田先輩の声が、少し低い。

 榊は、画面を読み上げた。

「電話できますか。文字では説明しきれません」

 電話。
 その言葉だけで、急に現実の重さが戻ってきた。

 五年前の誰かが、今も生きている。
 今もスマホの向こうにいて、俺たちに返事をしている。
 それが不思議で、怖かった。

 朔は、何も言わない。

 ただ、俺の方を見ていた。
 その目が、頼るようにも、怯えているようにも見えた。

「出るぞ」

 榊が言った。

「ここで?」

 真田先輩が訊く。

「今しかない」

 榊は、画面をタップした。
 呼び出し音が鳴る。

 一回。
 二回。

 その間、誰も喋らなかった。

 外階段の黄色いロープが、風に揺れている。
 途中だけ新しくなった板が、朝の光の中で妙に白く見えた。

 つながった。

『……もしもし』

 聞こえてきたのは、大人の男の声だった。
 低くて、少し掠れている。
 けれど、どこか緊張しているのが分かった。

 榊が名乗る。

「青嶺学園の榊です。突然すみません」
『いえ。こちらこそ、変な返し方をしてすみません』

 少し沈黙があった。

『藤代の名前を、まだ学校で見つける人がいるとは思いませんでした』

 その一言で、朔の肩が小さく揺れた。
 聞こえているのか。
 聞こえてしまっているのか。

 分からない。

 でも、朔は確かにその声に反応した。

 榊は短く訊く。

「藤代朔を知っているんですね」
『知っています』

 男は、すぐに答えた。

『同じ寮でした』
「三〇七の人ですか」

 榊が言うと、電話の向こうで息を呑む気配がした。

『……そこまで調べたんですね』
「必要だったので」
『そうですか』

 男の声が、少し遠くなった。

『俺は三〇七でした。藤代は三〇四です』

 やっぱり、と俺は思った。

 朔は三〇七の人じゃない。
 それでも、ずっと三〇七に入りたかった。

 五年前から。
 俺が、名札を掛けるまで。
 喉の奥が苦しくなる。

「藤代とは、どういう関係だったんですか」

 真田先輩が、静かに訊いた。
 榊が少しだけ横目で見る。
 でも、止めなかった。

 電話の向こうは、長く黙った。

『……好きでした』

 胸が、きしむように痛んだ。
 分かっていた。
 聞いていた。
 それでも、本人の口から出ると、違った。

『たぶん、向こうも』

 男の声が低くなる。

『でも、ちゃんと言ったことはありませんでした』

 朔は、瞬きもしなかった。
 まるで、その言葉だけで五年前の廊下に戻されたみたいに、外階段の方を見ている。

『あの頃は、今よりずっと言えなかった。寮の中で噂になって、先生に目をつけられるのも怖かった。だから、俺たちはいつも曖昧にしていた』
「消灯後に会う約束をしたんですか」

 榊が訊く。

 電話の向こうで、沈黙が落ちた。

『……しました』

 その一言で、空気が冷えた。

『三階の外階段のところで。夜、少しだけ話そうって』

 朔が、小さく息を吸った。
 俺は思わず朔を見た。
 朔の唇が、かすかに震えている。

「来なかったわけじゃない、ってどういう意味ですか」

 俺は、気づけば訊いていた
 榊も真田先輩も、俺を止めなかった。
 電話の向こうの男が、少しだけ息を詰める。

『……君は?』
「柏木透です」

 自分でも驚くほど、はっきり名乗っていた。

「今、朔が見えています」

 電話の向こうが、完全に沈黙した。
 言ってはいけないことを言ったのかもしれない。
 でも、もう引っ込めたくなかった。

「朔は、あなたが来なかったと思っています」

 朔がこちらを見る。
 その目が、ひどく傷ついていて、でも逸らせなかった。

「本当は、どうだったんですか」

 電話の向こうで、男が長く息を吐いた。

『行きました』

 朔の表情が止まった。

『俺は、行ったんです。でも、遅れた』
「遅れた?」
『先生に見つかったんです。消灯後に部屋を出ようとして。理由を聞かれて、適当にごまかしたけど、寮監室に連れていかれた』

 小野寺さんの顔が、頭をよぎった。

『それで、外階段の方が騒がしくなった。誰かが落ちたって聞こえた。救急車が来て、それで』

 声が詰まる。

『藤代だと分かった』

 朔は、動かなかった。
 ただ、聞いていた。

『俺は、行かなかったわけじゃない。でも、間に合わなかった』

 男の声が震えていた。

『それで、怖くなった』

 風が渡り廊下を抜ける。

『自分が呼び出したせいだと思った。俺が約束なんかしなければ、藤代はあそこに行かなかった。先生にも、親にも、何も言えなかった』
「学校は」

 榊の声が低くなる。

「学校は、何て処理したんですか」
『表向きは、夜間に誤って転落した、と。だけど記事にはならなかった。寮内の噂もすぐに止められた。藤代は転校したことになった』

「転校?」
『意識が戻らないまま、病院を移ったんです。家族が学校から離したがった。俺たちには、もう関わるなと言われた』

 死んでいない。
 けれど、戻ってきていない。
 その意味が、少しずつ身体の中に入ってくる。

『藤代は、今も生きています』

 男は、静かに言った。

『少なくとも、数年前までは。療養施設にいると聞きました。俺は……会いに行けませんでした』

 朔が、小さく笑った。
 笑ったように見えた。
 でも、それは泣き顔に近かった。

「……来てたんだ」

 朔が、ほとんど息みたいな声で言った。

「来なかったんじゃ、なかったんだ」

 胸が痛かった。
 五年前、朔は外階段で待っていた。
 来てくれると思っていた。
 でも、相手は来なかったんじゃない。
 来ようとして、間に合わなかった。

 それだけで何もかも救われるわけじゃない。

 事故は起きた。
 朔は五年止まった。
 相手は黙った。
 学校は消した。

 それでも、朔がずっと抱えていた「来なかった」という傷だけは、少しだけ形を変えた。

 俺は朔を見た。

「朔」

 榊が何か言いかけたけれど、止めた。
 俺は続ける。

「聞こえましたか」

 朔はゆっくり頷いた。

「……うん」

 返事をしてくれた。
 その声は、いつもよりずっと幼く聞こえた。
 電話の向こうで、男が震えるように息を吸った。

『そこに、いるんですか』

 誰もすぐには答えられなかった。
 俺はスマホを持つ榊を見た。
 榊は少しだけ黙って、それから言った。

「少なくとも、柏木には見えています」
『……そうですか』

 長い沈黙。

『藤代は、怒っていますか』

 その問いに、朔は何も言わなかった。

 俺は代わりに答えることができなかった。
 怒っているのか、悲しいのか、置いていかれたままなのか。
 たぶん、その全部だった。
 男は小さく言った。

『謝って済むことじゃないのは分かっています』

 その声は、もう大人のものではなかった。
 五年前の夜に戻ったみたいな、弱い声だった。

『……でも、謝りたかった』

 朔は、外階段を見たまま動かない。
 俺はその横顔を見ていた。
 朔の輪郭が、さっきより少しだけ薄く見える。
 けれど、消えそうなのではなかった。
 何かが、ほどけかけている。
 そう見えた。

「療養施設の名前は分かりますか」

 榊が訊いた。

『今、調べます。昔の連絡先が残っているかもしれません』
「お願いします」
『それと』

 男は、少し迷ってから言った。

『もし本当に藤代がそこにいるなら、伝えてください』

 誰も動かなかった。

『俺は、来なかったわけじゃない。でも、助けられなかった』

 声が震える。

『ごめん、と』

 朔は、目を閉じた。
 その頬に、涙はなかった。
 けれど俺には、泣いているように見えた。

 通話が切れたあと、しばらく誰も喋らなかった。
 外階段の前に、朝の光が差している。
 五年前の夜と、今の朝が、同じ場所に重なっているみたいだった。

 朔は、ゆっくり俺を見た。

「透」
「はい」

 返事をしてから、榊を見る。
 怒られるかと思った。
 でも榊は何も言わなかった。
 たぶん、今の返事は、必要なものだった。

 朔は、かすかに笑った。

「俺、生きてるんだって」

 その笑顔が、あまりにも頼りなくて。
 俺は、胸が詰まった。

「はい」
「変だね」
「……はい」
「じゃあ、ここにいる俺は、何なんだろう」

 答えられなかった。
 朔も、答えを求めているようには見えなかった。

 ただ、途方に暮れている。

 五年前に置いていかれたままの少年が、急に、自分の身体がどこかで生きていると知らされてしまった。
 そんな顔だった。
 俺は手を伸ばしかけて、止める。

 約束した。
 手は取らない。

 でも、何もできないのは嫌だった。

「会いに行きましょう」

 言った瞬間、朔が目を見開いた。

「誰に?」
「朔に」

 自分でも不思議な言い方だった。

 でも、それ以外に言えなかった。

「ここにいる朔と、今も生きている朔が、別々になったままなら」

 言葉を探す。

「俺が会いに行きます。本当の、朔に」

 朔は、何も言わなかった。
 ただ、外階段の方を見た。
 そこにはもう、五年前の夜だけではなかった。
 どこかへ続く道が、うっすら見えた気がした。