外階段へ向かう廊下は、昼間よりずっと長く感じた。
昨日は、呼ばれるままに歩いた。
どこへ行くのかも分からないまま、身体だけが先に進んでいた。
でも今は違う。
榊が少し前を歩いている。
真田先輩は、俺の少し後ろにいる。
逃げ道を塞がれているみたいでもあった。
守られているみたいでもあった。
たぶん、どちらも本当だった。
「柏木」
後ろから、真田先輩が声をかける。
「はい」
「きつくなったら言えよ」
「……はい」
「あと、変にふらっと行きそうになったら止める」
「分かってます」
「分かってるやつの顔じゃないんだよな」
少しだけ笑いそうになった。
笑えるような場面じゃないのに。
それでも、真田先輩のそういう言い方に、少しだけ心が落ち着く。
榊は振り返らないまま言った。
「窓の方を見るな」
「見たら駄目か」
「見たら呼ばれる」
「……もう、呼ばれてる」
言った瞬間、自分でも声が小さくなった。
廊下の奥。
渡り廊下の先。
そこから、ずっと気配がしている。
声ではない。
音でもない。
でも、分かる。
朔がいる。
朔が、俺を待っている。
胸の奥が痛い。
会いたい、と思う。
でも、その会いたいの中に、昨日までとは違う棘が混じっていた。
俺は、誰に会いに行くんだろう。
俺を好きだと言った朔なのか。
五年前の誰かを待っている朔なのか。
それとも、その両方なのか。
渡り廊下へ続く角を曲がる。
空気が、少し冷えた。
外階段が見える。
黄色いロープ。
古い手すり。
途中だけ新しい板に替えられた段。
その前に、朔が立っていた。
昨日と同じように、外階段を見ている。
でも、俺が来たことには気づいているらしかった。
ゆっくり、朔が振り向く。
「透」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がほどけそうになった。
返事をしそうになる。
でも、その前に榊の声が低く落ちた。
「返事するな」
俺は唇を噛んだ。
朔は少しだけ笑う。
「今日は、一人じゃないんだ」
その声はやさしかった。
でも、どこか寂しそうだった。
「はい」
俺は、まっすぐ朔を見た。
「一人じゃ来ませんでした」
「どうして」
「また流されると思ったからです」
朔の笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
俺は息を吸う。
怖い。
好きだ。
会いたかった。
でも今日は、それだけで来たんじゃない。
「朔」
榊が横で息を呑んだのが分かった。
それでも、呼んだ。
「聞きたいことがあります」
朔は、俺を見ていた。
暗がりの中で、その顔だけが妙にはっきり見える。
やわらかい目。
俺を待っていた顔。
その全部が、まだ好きだった。
好きだからこそ、苦しかった。
「俺は」
声が少し震えた。
「俺は、誰かの代わりですか」
朔は、すぐには答えなかった。
風が、渡り廊下のガラスをがたがたと鳴らす。
背後で、真田先輩が息を詰めたのが分かった。
榊は何も言わない。
朔だけが、静かに俺を見ていた。
「どうして、そう思ったの」
「三〇七は、朔の部屋じゃなかったんですよね」
言った瞬間、朔の目がわずかに揺れた。
「五年前、三〇七には別の人がいた。
朔が好きだった人が」
喉の奥が熱くなる。
「その人に、来てほしかったんですよね。
その人と、ここで会う約束をしてたんですよね」
朔は外階段へ視線を移した。
その横顔が、ひどく遠い。
「……うん」
短い返事だった。
胸が痛んだ。
分かっていたのに。
聞くと決めていたのに。
それでも、朔の口から聞くと、ちゃんと痛かった。
「じゃあ、俺は何ですか」
自分の声が、思ったより静かだった。
「三〇七に来たからですか。
俺が、あの部屋に朔を入れたからですか
俺が、朔の名前を呼んだからですか」
朔は答えない。
「特別だって言いましたよね」
そこで、声が少しだけ崩れた。
「俺、本当に嬉しかったんです。
朔に名前を呼ばれて、特別だって言われて、好きだって言われて」
目の奥が熱くなる。
泣きたくなかった。
でも、声が震える。
「でも、もし俺が、その人の代わりだったなら」
言葉が喉に引っかかる。
「俺は、何を信じたらいいんですか……」
朔が、ようやく俺を見た。
その目は、いつもよりずっと苦しそうだった。
「最初は」
低い声だった。
「最初は、似ていたのかもしれない」
胸の奥が、冷たくなる。
榊が小さく息を吐いた。
真田先輩が何か言いかけて、飲み込む気配がした。
でも、俺は目を逸らさなかった。
「三〇七に、新しい子が来た」
朔は、ゆっくり言った。
「俺の名前を見つけてくれた。
呼んでくれた。
いなかったことにしなかった」
その声が震えている気がした。
「ずっと、入りたかった部屋だった。
ずっと、待っていた場所だった」
「……三〇七にいた人を、ですか」
「うん」
朔は、外階段を見る。
「来てくれると思ってた」
前にも聞いた言葉だった。
でも、今は少し違って聞こえた。
来てくれなかった人への恨みだけじゃない。
来てくれるはずだった、と信じていた自分ごと、そこに囚われているみたいな声だった。
「だから、透が見つけてくれた時、嬉しかった」
朔が俺を見る。
「嬉しかったんだ」
「俺じゃなくても、よかったんですか」
聞いた瞬間、自分で傷口を押したみたいに痛かった。
朔は、首を横に振らなかった。
すぐに否定してくれなかった。
それが答えみたいで、息が詰まった。
でも、朔は言った。
「今は、違う」
「……今は?」
「透が、俺を呼んだ」
朔の声が、少しだけ近くなる。
「透が怒ってくれた。
透が怖いのに、それでも離れたくないって言ってくれた」
胸の奥が、熱くなる。
「俺は、待っていた人に会いたかった。
でも、透に呼ばれて、透に見つけられて」
朔の目が、揺れた。
「透に、置いていかれたくなくなった」
それは、甘い言葉だった。
でも同時に、ひどく怖い言葉だった。
俺じゃなくてもよかったかもしれない。
でも、今は俺を手放したくない。
それは愛なのか。
執着なのか。
五年前の未練なのか。
まだ、分からない。
「朔」
「うん」
「俺は、誰かの代わりにはなりたくないです」
朔の表情が、少しだけ歪んだ。
「でも」
俺は、拳を握った。
「朔を、もう一度置いていく人間にもなりたくない」
榊が、少しだけこちらを見る気配がした。
真田先輩は何も言わなかった。
でも、後ろにいる。
それだけで、少し立っていられた。
「だから、聞かせてください」
俺は朔を見た。
「朔は、本当はどこへ行きたいんですか」
朔は黙った。
外階段の方を見た。
黄色いロープの向こう。
新しく張り替えられた板。
古い手すり。
その先に、まだ五年前の夜が残っているみたいだった。
「行きたいんじゃない」
朔が、ぽつりと言った。
「じゃあ、何ですか」
「終われない」
その声は、今までで一番小さかった。
「ずっと、ここで止まってる」
風が吹いた
朔の輪郭が、少しだけ薄くなる。
思わず手を伸ばしそうになって、止めた。
約束した。
手は取らない。
「朔」
「俺は、あの夜に戻りたいわけじゃない」
朔は、外階段を見つめたまま言った。
「でも、あの夜から動けない」
「どうすればいいんですか」
「分からない」
朔が笑った。
泣きそうな顔だった。
「分からないから、透に来てほしかった」
胸が痛い。
でも、今度はその痛みに飲まれなかった。
「俺も分かりません」
俺は言った。
「でも、一人で行くのは嫌です。俺も、朔も」
朔が俺を見る。
「一緒に来てくれる?」
また、その言葉だった。
胸の奥が震える。
でも、昨日みたいに頷きそうにはならなかった。
「行くとは言いません」
榊が、わずかに息を吐いた。
俺は続ける。
「でも、逃げません」
朔の目が見開かれる。
「朔が何を待っていたのか。
何があったのか。
ちゃんと知りたいです」
そう言った瞬間、スマホが震えた。
俺のじゃない。
榊のスマホだった。
榊は一瞬だけ眉を寄せ、画面を見る。
その顔が、変わった。
「……榊?」
真田先輩が低く訊く。
榊は、画面を見たまま黙っている。
やがて、掠れた声で言った。
「返信が来た」
「誰から」
真田先輩が訊く。
榊は、ゆっくりこちらを見た。
「五年前の、三〇七のやつから」
心臓が、嫌な音を立てた。
朔の表情が固まる。
榊は画面を読み上げた。
「行かなかったわけじゃありません」
空気が止まった。
朔が、小さく息を吸う。
榊の声が、さらに低くなる。
「藤代は、死んでいません」
意味が分からなかった。
死んでいない。
じゃあ、俺の目の前にいる朔は。
五年前からここで止まっている朔は。
何なのだろう。
朔の輪郭が、外階段の冷たい空気の中で、ひどく淡く揺れていた。
昨日は、呼ばれるままに歩いた。
どこへ行くのかも分からないまま、身体だけが先に進んでいた。
でも今は違う。
榊が少し前を歩いている。
真田先輩は、俺の少し後ろにいる。
逃げ道を塞がれているみたいでもあった。
守られているみたいでもあった。
たぶん、どちらも本当だった。
「柏木」
後ろから、真田先輩が声をかける。
「はい」
「きつくなったら言えよ」
「……はい」
「あと、変にふらっと行きそうになったら止める」
「分かってます」
「分かってるやつの顔じゃないんだよな」
少しだけ笑いそうになった。
笑えるような場面じゃないのに。
それでも、真田先輩のそういう言い方に、少しだけ心が落ち着く。
榊は振り返らないまま言った。
「窓の方を見るな」
「見たら駄目か」
「見たら呼ばれる」
「……もう、呼ばれてる」
言った瞬間、自分でも声が小さくなった。
廊下の奥。
渡り廊下の先。
そこから、ずっと気配がしている。
声ではない。
音でもない。
でも、分かる。
朔がいる。
朔が、俺を待っている。
胸の奥が痛い。
会いたい、と思う。
でも、その会いたいの中に、昨日までとは違う棘が混じっていた。
俺は、誰に会いに行くんだろう。
俺を好きだと言った朔なのか。
五年前の誰かを待っている朔なのか。
それとも、その両方なのか。
渡り廊下へ続く角を曲がる。
空気が、少し冷えた。
外階段が見える。
黄色いロープ。
古い手すり。
途中だけ新しい板に替えられた段。
その前に、朔が立っていた。
昨日と同じように、外階段を見ている。
でも、俺が来たことには気づいているらしかった。
ゆっくり、朔が振り向く。
「透」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がほどけそうになった。
返事をしそうになる。
でも、その前に榊の声が低く落ちた。
「返事するな」
俺は唇を噛んだ。
朔は少しだけ笑う。
「今日は、一人じゃないんだ」
その声はやさしかった。
でも、どこか寂しそうだった。
「はい」
俺は、まっすぐ朔を見た。
「一人じゃ来ませんでした」
「どうして」
「また流されると思ったからです」
朔の笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
俺は息を吸う。
怖い。
好きだ。
会いたかった。
でも今日は、それだけで来たんじゃない。
「朔」
榊が横で息を呑んだのが分かった。
それでも、呼んだ。
「聞きたいことがあります」
朔は、俺を見ていた。
暗がりの中で、その顔だけが妙にはっきり見える。
やわらかい目。
俺を待っていた顔。
その全部が、まだ好きだった。
好きだからこそ、苦しかった。
「俺は」
声が少し震えた。
「俺は、誰かの代わりですか」
朔は、すぐには答えなかった。
風が、渡り廊下のガラスをがたがたと鳴らす。
背後で、真田先輩が息を詰めたのが分かった。
榊は何も言わない。
朔だけが、静かに俺を見ていた。
「どうして、そう思ったの」
「三〇七は、朔の部屋じゃなかったんですよね」
言った瞬間、朔の目がわずかに揺れた。
「五年前、三〇七には別の人がいた。
朔が好きだった人が」
喉の奥が熱くなる。
「その人に、来てほしかったんですよね。
その人と、ここで会う約束をしてたんですよね」
朔は外階段へ視線を移した。
その横顔が、ひどく遠い。
「……うん」
短い返事だった。
胸が痛んだ。
分かっていたのに。
聞くと決めていたのに。
それでも、朔の口から聞くと、ちゃんと痛かった。
「じゃあ、俺は何ですか」
自分の声が、思ったより静かだった。
「三〇七に来たからですか。
俺が、あの部屋に朔を入れたからですか
俺が、朔の名前を呼んだからですか」
朔は答えない。
「特別だって言いましたよね」
そこで、声が少しだけ崩れた。
「俺、本当に嬉しかったんです。
朔に名前を呼ばれて、特別だって言われて、好きだって言われて」
目の奥が熱くなる。
泣きたくなかった。
でも、声が震える。
「でも、もし俺が、その人の代わりだったなら」
言葉が喉に引っかかる。
「俺は、何を信じたらいいんですか……」
朔が、ようやく俺を見た。
その目は、いつもよりずっと苦しそうだった。
「最初は」
低い声だった。
「最初は、似ていたのかもしれない」
胸の奥が、冷たくなる。
榊が小さく息を吐いた。
真田先輩が何か言いかけて、飲み込む気配がした。
でも、俺は目を逸らさなかった。
「三〇七に、新しい子が来た」
朔は、ゆっくり言った。
「俺の名前を見つけてくれた。
呼んでくれた。
いなかったことにしなかった」
その声が震えている気がした。
「ずっと、入りたかった部屋だった。
ずっと、待っていた場所だった」
「……三〇七にいた人を、ですか」
「うん」
朔は、外階段を見る。
「来てくれると思ってた」
前にも聞いた言葉だった。
でも、今は少し違って聞こえた。
来てくれなかった人への恨みだけじゃない。
来てくれるはずだった、と信じていた自分ごと、そこに囚われているみたいな声だった。
「だから、透が見つけてくれた時、嬉しかった」
朔が俺を見る。
「嬉しかったんだ」
「俺じゃなくても、よかったんですか」
聞いた瞬間、自分で傷口を押したみたいに痛かった。
朔は、首を横に振らなかった。
すぐに否定してくれなかった。
それが答えみたいで、息が詰まった。
でも、朔は言った。
「今は、違う」
「……今は?」
「透が、俺を呼んだ」
朔の声が、少しだけ近くなる。
「透が怒ってくれた。
透が怖いのに、それでも離れたくないって言ってくれた」
胸の奥が、熱くなる。
「俺は、待っていた人に会いたかった。
でも、透に呼ばれて、透に見つけられて」
朔の目が、揺れた。
「透に、置いていかれたくなくなった」
それは、甘い言葉だった。
でも同時に、ひどく怖い言葉だった。
俺じゃなくてもよかったかもしれない。
でも、今は俺を手放したくない。
それは愛なのか。
執着なのか。
五年前の未練なのか。
まだ、分からない。
「朔」
「うん」
「俺は、誰かの代わりにはなりたくないです」
朔の表情が、少しだけ歪んだ。
「でも」
俺は、拳を握った。
「朔を、もう一度置いていく人間にもなりたくない」
榊が、少しだけこちらを見る気配がした。
真田先輩は何も言わなかった。
でも、後ろにいる。
それだけで、少し立っていられた。
「だから、聞かせてください」
俺は朔を見た。
「朔は、本当はどこへ行きたいんですか」
朔は黙った。
外階段の方を見た。
黄色いロープの向こう。
新しく張り替えられた板。
古い手すり。
その先に、まだ五年前の夜が残っているみたいだった。
「行きたいんじゃない」
朔が、ぽつりと言った。
「じゃあ、何ですか」
「終われない」
その声は、今までで一番小さかった。
「ずっと、ここで止まってる」
風が吹いた
朔の輪郭が、少しだけ薄くなる。
思わず手を伸ばしそうになって、止めた。
約束した。
手は取らない。
「朔」
「俺は、あの夜に戻りたいわけじゃない」
朔は、外階段を見つめたまま言った。
「でも、あの夜から動けない」
「どうすればいいんですか」
「分からない」
朔が笑った。
泣きそうな顔だった。
「分からないから、透に来てほしかった」
胸が痛い。
でも、今度はその痛みに飲まれなかった。
「俺も分かりません」
俺は言った。
「でも、一人で行くのは嫌です。俺も、朔も」
朔が俺を見る。
「一緒に来てくれる?」
また、その言葉だった。
胸の奥が震える。
でも、昨日みたいに頷きそうにはならなかった。
「行くとは言いません」
榊が、わずかに息を吐いた。
俺は続ける。
「でも、逃げません」
朔の目が見開かれる。
「朔が何を待っていたのか。
何があったのか。
ちゃんと知りたいです」
そう言った瞬間、スマホが震えた。
俺のじゃない。
榊のスマホだった。
榊は一瞬だけ眉を寄せ、画面を見る。
その顔が、変わった。
「……榊?」
真田先輩が低く訊く。
榊は、画面を見たまま黙っている。
やがて、掠れた声で言った。
「返信が来た」
「誰から」
真田先輩が訊く。
榊は、ゆっくりこちらを見た。
「五年前の、三〇七のやつから」
心臓が、嫌な音を立てた。
朔の表情が固まる。
榊は画面を読み上げた。
「行かなかったわけじゃありません」
空気が止まった。
朔が、小さく息を吸う。
榊の声が、さらに低くなる。
「藤代は、死んでいません」
意味が分からなかった。
死んでいない。
じゃあ、俺の目の前にいる朔は。
五年前からここで止まっている朔は。
何なのだろう。
朔の輪郭が、外階段の冷たい空気の中で、ひどく淡く揺れていた。
