翌朝、目が覚めても、泣いたあとの重さはまだ身体に残っていた。
真田先輩は食堂からパンと牛乳を持ってきてくれた。
榊は、相変わらず扉の近くにいた。
父からのメッセージには、まだ返事をしていない。
再婚を考えている人がいる。
相手にも子どもがいる。
落ち着いたら、一度会ってほしい。
何度読んでも、胸の奥がうまく動かなかった。
朝食のパンを半分だけ食べたころ、スマホが震えた。
一瞬、身体が強張る。
朔かと思った。
でも、画面に出ていたのは父の名前だった。
出たくなかった。
今は、父の声なんて聞きたくなかった。
でも、再婚の話を送ってきたあとに電話してくるなんて、父にしては珍しかった。
俺は、通話を押した。
「……もしもし」
『透か』
久しぶりに聞く父の声は、少し硬かった。
「はい」
『今、大丈夫か』
大丈夫ではなかった。
でも、そう言う力もなかった。
「……少しなら」
父は、電話の向こうで息を吐いた。
『さっきのメッセージのことだ』
「……再婚、ですか」
『ああ』
短い沈黙が落ちた。
真田先輩も榊も、何も言わない。
たぶん、聞こえている。
それでも、聞こえないふりをしてくれている。
『急に言って悪かった』
「いえ」
『相手の人とは、まだ正式に決まったわけじゃない。ただ、いずれお前にも話さないといけないと思っていた』
「そうですか」
自分の声が、ひどく平らだった。
もっと驚くかと思った。
もっと怒るかと思った。
でも、胸の奥には、ただ冷たい空洞みたいなものがあった。
「相手にも、子どもがいるんですよね」
『ああ』
「その子は、父さんと一緒に暮らすんですか」
『まだ分からない』
「でも、そうなるかもしれない」
『……そうだな』
喉の奥が、少しだけ熱くなった。
「父さんは、その子のことは見られるんですか」
言ってから、自分でも驚いた。
父も、しばらく黙った。
『……透、どういうことだ?』
「俺のことは、見なかったのに」
声が震えそうになって、布団を握った。
「その子のことは、ちゃんと見られるんですか」
『……そんなに、気にしていたのか』
父の声が、少し掠れた。
『俺は、お前が俺を避けているんだと思っていた』
「……俺が?」
『ああ。話しかけても、どこか身構えているように見えた。
だから、無理に踏み込まない方がいいのかと』
胸の奥が、冷たくなった。
違う。
避けていたんじゃない。
見てもらえないことに慣れようとしていただけだ。
「俺は、父さんが俺を見たくないんだと思ってました」
言葉にした瞬間、電話の向こうで父が息を止めたのが分かった。
『……すまなかった』
その謝罪は、思っていたより静かだった。
『お前が悪かったわけじゃない』
「じゃあ、何で……」
ずっと聞きたかった。
聞きたかったのに、聞いたら終わる気がして、聞けなかったこと。
「何で、俺を見なかったんですか」
父はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、低い声で言った。
『お前が、母さんに似ていた』
息が止まった。
『顔も、黙って我慢するところも。ふとした時の目も。見るたびに、俺は勝手に傷ついていた』
「……それで、見なかったんですか」
『そうだ』
父の声は、逃げなかった。
それなら。
父は、俺を嫌っていたわけではなかったのかもしれない。
母さんに似ていたから。
母さんを愛していたから。
俺を見るたびに、父は母さんを思い出してしまっていた。
それは、たぶん本当なんだろう。
でも。
「……それでも、寂しかったです」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
「俺は、ただ、父さんに見てほしかった」
『……うん』
「母さんに似てるとか、似てないとかじゃなくて」
喉が詰まる。
「俺が今日何をしたとか、何を考えてるとか、ちゃんと聞いてほしかった」
父は何も言わなかった。
でも、切らなかった。
その沈黙は、昔より少しだけましだった。
『すまなかった』
父の声は、静かだった。
『お前が寂しかったことを、俺は見ないふりをしていた』
その言葉を聞いた瞬間、涙がまた出た。
許せたわけじゃない。
でも、少しだけ分かった。
父は、俺を愛していなかったわけじゃない。
ただ、ちゃんと構ってほしかった。
たったそれだけのことを、俺はずっと言えなかった。
『透』
「はい」
『今さら、取り戻せるとは思っていない』
「……はい」
『でも、もう逃げたくないと思っている』
俺は答えられなかった。
許します、とは言えなかった。
大丈夫です、とも言えなかった。
ただ、父が俺を見なかった理由が、俺の価値のなさではなかったことだけは、少しだけ分かった。
それで楽になるわけではない。
でも、知らないまま傷だけを抱えているよりは、ずっと痛みの形が分かった。
「……相手の人に会うかどうかは、まだ分かりません
『分かった』
「でも、話してくれて、ありがとうございます」
言ってから、少しだけ息が詰まった。
お礼を言えると思っていなかった。
『こちらこそ、聞いてくれてありがとう』
通話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
父は、俺を愛していなかったわけじゃない。
じゃあ、朔は。
朔は、俺をどう思ってるんだろう。
俺を見ているのか。
それとも、五年前に来なかった誰かを見ているのか。
聞かなきゃいけないと思った。
聞かないまま傷ついて、聞かないまま逃げたら、きっと同じになる。
父も、俺も、朔も。
言わなかったことが、五年残る。
***
真田先輩が机の前で顔を上げた。
榊は扉のそばに立っている。
二人とも、こちらを見すぎないようにしていた。
「……真田先輩」
「おう」
「榊」
「何だ」
声が掠れていた。
でも、さっきよりは自分の声だった。
「昨夜は、すみませんでした」
真田先輩が少し驚いた顔をした。
「何が」
「心配してくれてたのに、ひどいことを言いました」
「……まあ、ちょっと刺さった」
「すみません」
「いいよ。無事だったし」
真田先輩はそう言って笑おうとした。
でも、いつもの軽さには少しだけ届いていなかった。
俺は榊を見る。
「榊も」
「俺は何もしてない」
「してくれた」
はっきり言った。
「止めてくれた。調べてくれた。俺が聞きたくないことも、言ってくれた」
榊は少しだけ目を逸らした。
「……嫌なことも言った」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「でも、必要だったと思う」
そう言うと、榊は黙った。
俺は指先を握った。
「俺、朔と話したい」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
榊の目が鋭くなる。
「呼ばれたから行くのか」
「違う」
今度は、すぐに答えられた。
「聞きたい」
「何を」
「俺を見ていたのか。
それとも、俺の向こうに五年前の誰かを見ていたのか」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「それを、朔の口から聞きたい」
真田先輩が、静かに息を吐いた。
「一人で行く気か」
「行きません」
俺は首を振った。
「一人で行ったら、また流されると思います。
だから、一緒に来てくれませんか」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、話は俺にさせてください」
榊はしばらく俺を見ていた。
「条件がある」
「うん」
「手を取るな。呼ばれても勝手に動くな。俺か真田が止めたら止まれ」
「……うん」
「名前は呼ぶな」
「それは無理だ」
榊の眉が寄った。
「おい」
「名前を呼ばないと、朔はまた消される気がする」
俺は手を握った。
「でも、簡単に返事はしない。
行く、とは言わない。
約束もしない」
榊は、俺をじっと見ていた。
「……ぎりぎりだな」
「うん」
「分かってるなら、まだましだ」
真田先輩が立ち上がった。
「じゃあ、俺も行く」
「真田先輩」
「当たり前だろ」
真田先輩は、少しだけ笑った。
「前は、離したからな」
その言い方に、胸が少し詰まる。
「今度は、ちゃんと見てる」
俺は頷いた。
朔に会いたい。
それは、まだ変わらない。
でも今度は、呼ばれたからじゃない。
寂しいからでもない。
特別だと言ってほしいからでもない。
俺は、聞きに行く。
俺を見ていたのか。
誰かの代わりだったのか。
朔が本当は、何を待っているのか。
それを、ちゃんと朔の口から聞くために。
真田先輩は食堂からパンと牛乳を持ってきてくれた。
榊は、相変わらず扉の近くにいた。
父からのメッセージには、まだ返事をしていない。
再婚を考えている人がいる。
相手にも子どもがいる。
落ち着いたら、一度会ってほしい。
何度読んでも、胸の奥がうまく動かなかった。
朝食のパンを半分だけ食べたころ、スマホが震えた。
一瞬、身体が強張る。
朔かと思った。
でも、画面に出ていたのは父の名前だった。
出たくなかった。
今は、父の声なんて聞きたくなかった。
でも、再婚の話を送ってきたあとに電話してくるなんて、父にしては珍しかった。
俺は、通話を押した。
「……もしもし」
『透か』
久しぶりに聞く父の声は、少し硬かった。
「はい」
『今、大丈夫か』
大丈夫ではなかった。
でも、そう言う力もなかった。
「……少しなら」
父は、電話の向こうで息を吐いた。
『さっきのメッセージのことだ』
「……再婚、ですか」
『ああ』
短い沈黙が落ちた。
真田先輩も榊も、何も言わない。
たぶん、聞こえている。
それでも、聞こえないふりをしてくれている。
『急に言って悪かった』
「いえ」
『相手の人とは、まだ正式に決まったわけじゃない。ただ、いずれお前にも話さないといけないと思っていた』
「そうですか」
自分の声が、ひどく平らだった。
もっと驚くかと思った。
もっと怒るかと思った。
でも、胸の奥には、ただ冷たい空洞みたいなものがあった。
「相手にも、子どもがいるんですよね」
『ああ』
「その子は、父さんと一緒に暮らすんですか」
『まだ分からない』
「でも、そうなるかもしれない」
『……そうだな』
喉の奥が、少しだけ熱くなった。
「父さんは、その子のことは見られるんですか」
言ってから、自分でも驚いた。
父も、しばらく黙った。
『……透、どういうことだ?』
「俺のことは、見なかったのに」
声が震えそうになって、布団を握った。
「その子のことは、ちゃんと見られるんですか」
『……そんなに、気にしていたのか』
父の声が、少し掠れた。
『俺は、お前が俺を避けているんだと思っていた』
「……俺が?」
『ああ。話しかけても、どこか身構えているように見えた。
だから、無理に踏み込まない方がいいのかと』
胸の奥が、冷たくなった。
違う。
避けていたんじゃない。
見てもらえないことに慣れようとしていただけだ。
「俺は、父さんが俺を見たくないんだと思ってました」
言葉にした瞬間、電話の向こうで父が息を止めたのが分かった。
『……すまなかった』
その謝罪は、思っていたより静かだった。
『お前が悪かったわけじゃない』
「じゃあ、何で……」
ずっと聞きたかった。
聞きたかったのに、聞いたら終わる気がして、聞けなかったこと。
「何で、俺を見なかったんですか」
父はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、低い声で言った。
『お前が、母さんに似ていた』
息が止まった。
『顔も、黙って我慢するところも。ふとした時の目も。見るたびに、俺は勝手に傷ついていた』
「……それで、見なかったんですか」
『そうだ』
父の声は、逃げなかった。
それなら。
父は、俺を嫌っていたわけではなかったのかもしれない。
母さんに似ていたから。
母さんを愛していたから。
俺を見るたびに、父は母さんを思い出してしまっていた。
それは、たぶん本当なんだろう。
でも。
「……それでも、寂しかったです」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
「俺は、ただ、父さんに見てほしかった」
『……うん』
「母さんに似てるとか、似てないとかじゃなくて」
喉が詰まる。
「俺が今日何をしたとか、何を考えてるとか、ちゃんと聞いてほしかった」
父は何も言わなかった。
でも、切らなかった。
その沈黙は、昔より少しだけましだった。
『すまなかった』
父の声は、静かだった。
『お前が寂しかったことを、俺は見ないふりをしていた』
その言葉を聞いた瞬間、涙がまた出た。
許せたわけじゃない。
でも、少しだけ分かった。
父は、俺を愛していなかったわけじゃない。
ただ、ちゃんと構ってほしかった。
たったそれだけのことを、俺はずっと言えなかった。
『透』
「はい」
『今さら、取り戻せるとは思っていない』
「……はい」
『でも、もう逃げたくないと思っている』
俺は答えられなかった。
許します、とは言えなかった。
大丈夫です、とも言えなかった。
ただ、父が俺を見なかった理由が、俺の価値のなさではなかったことだけは、少しだけ分かった。
それで楽になるわけではない。
でも、知らないまま傷だけを抱えているよりは、ずっと痛みの形が分かった。
「……相手の人に会うかどうかは、まだ分かりません
『分かった』
「でも、話してくれて、ありがとうございます」
言ってから、少しだけ息が詰まった。
お礼を言えると思っていなかった。
『こちらこそ、聞いてくれてありがとう』
通話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
父は、俺を愛していなかったわけじゃない。
じゃあ、朔は。
朔は、俺をどう思ってるんだろう。
俺を見ているのか。
それとも、五年前に来なかった誰かを見ているのか。
聞かなきゃいけないと思った。
聞かないまま傷ついて、聞かないまま逃げたら、きっと同じになる。
父も、俺も、朔も。
言わなかったことが、五年残る。
***
真田先輩が机の前で顔を上げた。
榊は扉のそばに立っている。
二人とも、こちらを見すぎないようにしていた。
「……真田先輩」
「おう」
「榊」
「何だ」
声が掠れていた。
でも、さっきよりは自分の声だった。
「昨夜は、すみませんでした」
真田先輩が少し驚いた顔をした。
「何が」
「心配してくれてたのに、ひどいことを言いました」
「……まあ、ちょっと刺さった」
「すみません」
「いいよ。無事だったし」
真田先輩はそう言って笑おうとした。
でも、いつもの軽さには少しだけ届いていなかった。
俺は榊を見る。
「榊も」
「俺は何もしてない」
「してくれた」
はっきり言った。
「止めてくれた。調べてくれた。俺が聞きたくないことも、言ってくれた」
榊は少しだけ目を逸らした。
「……嫌なことも言った」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「でも、必要だったと思う」
そう言うと、榊は黙った。
俺は指先を握った。
「俺、朔と話したい」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
榊の目が鋭くなる。
「呼ばれたから行くのか」
「違う」
今度は、すぐに答えられた。
「聞きたい」
「何を」
「俺を見ていたのか。
それとも、俺の向こうに五年前の誰かを見ていたのか」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「それを、朔の口から聞きたい」
真田先輩が、静かに息を吐いた。
「一人で行く気か」
「行きません」
俺は首を振った。
「一人で行ったら、また流されると思います。
だから、一緒に来てくれませんか」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、話は俺にさせてください」
榊はしばらく俺を見ていた。
「条件がある」
「うん」
「手を取るな。呼ばれても勝手に動くな。俺か真田が止めたら止まれ」
「……うん」
「名前は呼ぶな」
「それは無理だ」
榊の眉が寄った。
「おい」
「名前を呼ばないと、朔はまた消される気がする」
俺は手を握った。
「でも、簡単に返事はしない。
行く、とは言わない。
約束もしない」
榊は、俺をじっと見ていた。
「……ぎりぎりだな」
「うん」
「分かってるなら、まだましだ」
真田先輩が立ち上がった。
「じゃあ、俺も行く」
「真田先輩」
「当たり前だろ」
真田先輩は、少しだけ笑った。
「前は、離したからな」
その言い方に、胸が少し詰まる。
「今度は、ちゃんと見てる」
俺は頷いた。
朔に会いたい。
それは、まだ変わらない。
でも今度は、呼ばれたからじゃない。
寂しいからでもない。
特別だと言ってほしいからでもない。
俺は、聞きに行く。
俺を見ていたのか。
誰かの代わりだったのか。
朔が本当は、何を待っているのか。
それを、ちゃんと朔の口から聞くために。
