三〇七号室の見えない先輩

 翌朝、目が覚めても、泣いたあとの重さはまだ身体に残っていた。

 真田先輩は食堂からパンと牛乳を持ってきてくれた。
 榊は、相変わらず扉の近くにいた。

 父からのメッセージには、まだ返事をしていない。

 再婚を考えている人がいる。
 相手にも子どもがいる。
 落ち着いたら、一度会ってほしい。

 何度読んでも、胸の奥がうまく動かなかった。

 朝食のパンを半分だけ食べたころ、スマホが震えた。

 一瞬、身体が強張る。

 朔かと思った。
 でも、画面に出ていたのは父の名前だった。

 出たくなかった。
 今は、父の声なんて聞きたくなかった。

 でも、再婚の話を送ってきたあとに電話してくるなんて、父にしては珍しかった。

 俺は、通話を押した。

「……もしもし」
『透か』

 久しぶりに聞く父の声は、少し硬かった。

「はい」
『今、大丈夫か』

 大丈夫ではなかった。
 でも、そう言う力もなかった。

「……少しなら」

 父は、電話の向こうで息を吐いた。

『さっきのメッセージのことだ』
「……再婚、ですか」
『ああ』

 短い沈黙が落ちた。

 真田先輩も榊も、何も言わない。
 たぶん、聞こえている。
 それでも、聞こえないふりをしてくれている。

『急に言って悪かった』
「いえ」
『相手の人とは、まだ正式に決まったわけじゃない。ただ、いずれお前にも話さないといけないと思っていた』
「そうですか」

 自分の声が、ひどく平らだった。

 もっと驚くかと思った。
 もっと怒るかと思った。

 でも、胸の奥には、ただ冷たい空洞みたいなものがあった。

「相手にも、子どもがいるんですよね」
『ああ』
「その子は、父さんと一緒に暮らすんですか」
『まだ分からない』
「でも、そうなるかもしれない」
『……そうだな』

 喉の奥が、少しだけ熱くなった。

「父さんは、その子のことは見られるんですか」

 言ってから、自分でも驚いた。
 父も、しばらく黙った。

『……透、どういうことだ?』
「俺のことは、見なかったのに」

 声が震えそうになって、布団を握った。

「その子のことは、ちゃんと見られるんですか」
『……そんなに、気にしていたのか』

 父の声が、少し掠れた。

『俺は、お前が俺を避けているんだと思っていた』
「……俺が?」
『ああ。話しかけても、どこか身構えているように見えた。
 だから、無理に踏み込まない方がいいのかと』

 胸の奥が、冷たくなった。
 違う。
 避けていたんじゃない。
 見てもらえないことに慣れようとしていただけだ。

「俺は、父さんが俺を見たくないんだと思ってました」

 言葉にした瞬間、電話の向こうで父が息を止めたのが分かった。

『……すまなかった』

 その謝罪は、思っていたより静かだった。

『お前が悪かったわけじゃない』
「じゃあ、何で……」

 ずっと聞きたかった。
 聞きたかったのに、聞いたら終わる気がして、聞けなかったこと。

「何で、俺を見なかったんですか」

 父はすぐには答えなかった。
 長い沈黙のあと、低い声で言った。

『お前が、母さんに似ていた』

 息が止まった。

『顔も、黙って我慢するところも。ふとした時の目も。見るたびに、俺は勝手に傷ついていた』
「……それで、見なかったんですか」
『そうだ』

 父の声は、逃げなかった。

 それなら。

 父は、俺を嫌っていたわけではなかったのかもしれない。

 母さんに似ていたから。
 母さんを愛していたから。
 俺を見るたびに、父は母さんを思い出してしまっていた。

 それは、たぶん本当なんだろう。

 でも。

「……それでも、寂しかったです」

 言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。

「俺は、ただ、父さんに見てほしかった」
『……うん』
「母さんに似てるとか、似てないとかじゃなくて」

 喉が詰まる。

「俺が今日何をしたとか、何を考えてるとか、ちゃんと聞いてほしかった」

 父は何も言わなかった。
 でも、切らなかった。

 その沈黙は、昔より少しだけましだった。

『すまなかった』

 父の声は、静かだった。

『お前が寂しかったことを、俺は見ないふりをしていた』

 その言葉を聞いた瞬間、涙がまた出た。

 許せたわけじゃない。
 でも、少しだけ分かった。

 父は、俺を愛していなかったわけじゃない。

 ただ、ちゃんと構ってほしかった。
 たったそれだけのことを、俺はずっと言えなかった。

『透』
「はい」
『今さら、取り戻せるとは思っていない』
「……はい」
『でも、もう逃げたくないと思っている』

 俺は答えられなかった。

 許します、とは言えなかった。
 大丈夫です、とも言えなかった。

 ただ、父が俺を見なかった理由が、俺の価値のなさではなかったことだけは、少しだけ分かった。

 それで楽になるわけではない。
 でも、知らないまま傷だけを抱えているよりは、ずっと痛みの形が分かった。

「……相手の人に会うかどうかは、まだ分かりません
『分かった』
「でも、話してくれて、ありがとうございます」

 言ってから、少しだけ息が詰まった。
 お礼を言えると思っていなかった。

『こちらこそ、聞いてくれてありがとう』

 通話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
 父は、俺を愛していなかったわけじゃない。

 じゃあ、朔は。

 朔は、俺をどう思ってるんだろう。

 俺を見ているのか。
 それとも、五年前に来なかった誰かを見ているのか。

 聞かなきゃいけないと思った。
 聞かないまま傷ついて、聞かないまま逃げたら、きっと同じになる。
 父も、俺も、朔も。

 言わなかったことが、五年残る。

***

 真田先輩が机の前で顔を上げた。
 榊は扉のそばに立っている。

 二人とも、こちらを見すぎないようにしていた。

「……真田先輩」
「おう」
「榊」
「何だ」

 声が掠れていた。

 でも、さっきよりは自分の声だった。

「昨夜は、すみませんでした」

 真田先輩が少し驚いた顔をした。

「何が」
「心配してくれてたのに、ひどいことを言いました」
「……まあ、ちょっと刺さった」
「すみません」
「いいよ。無事だったし」

 真田先輩はそう言って笑おうとした。
 でも、いつもの軽さには少しだけ届いていなかった。

 俺は榊を見る。

「榊も」
「俺は何もしてない」
「してくれた」

 はっきり言った。

「止めてくれた。調べてくれた。俺が聞きたくないことも、言ってくれた」

 榊は少しだけ目を逸らした。

「……嫌なことも言った」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「でも、必要だったと思う」

 そう言うと、榊は黙った。

 俺は指先を握った。

「俺、朔と話したい」

 部屋の空気が、少しだけ変わった。
 榊の目が鋭くなる。

「呼ばれたから行くのか」
「違う」

 今度は、すぐに答えられた。

「聞きたい」
「何を」
「俺を見ていたのか。
 それとも、俺の向こうに五年前の誰かを見ていたのか」

 言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。

「それを、朔の口から聞きたい」

 真田先輩が、静かに息を吐いた。

「一人で行く気か」
「行きません」

 俺は首を振った。

「一人で行ったら、また流されると思います。
 だから、一緒に来てくれませんか」

 そこで一度、言葉を切る。

「でも、話は俺にさせてください」

 榊はしばらく俺を見ていた。

「条件がある」
「うん」
「手を取るな。呼ばれても勝手に動くな。俺か真田が止めたら止まれ」
「……うん」
「名前は呼ぶな」
「それは無理だ」

 榊の眉が寄った。

「おい」
「名前を呼ばないと、朔はまた消される気がする」

 俺は手を握った。

「でも、簡単に返事はしない。
 行く、とは言わない。
 約束もしない」

 榊は、俺をじっと見ていた。

「……ぎりぎりだな」
「うん」
「分かってるなら、まだましだ」

 真田先輩が立ち上がった。

「じゃあ、俺も行く」

「真田先輩」
「当たり前だろ」

 真田先輩は、少しだけ笑った。

「前は、離したからな」

 その言い方に、胸が少し詰まる。

「今度は、ちゃんと見てる」

 俺は頷いた。
 朔に会いたい。
 それは、まだ変わらない。

 でも今度は、呼ばれたからじゃない。
 寂しいからでもない。
 特別だと言ってほしいからでもない。

 俺は、聞きに行く。

 俺を見ていたのか。
 誰かの代わりだったのか。
 朔が本当は、何を待っているのか。

 それを、ちゃんと朔の口から聞くために。