三〇七号室の見えない先輩

 部屋に入ると、二段ベッドが二つ、窓際の机が四つ、古いエアコン、壁際のロッカー。
 たしかに四人部屋だった。生活の気配はあるのに散らかっていない。

「お、来た」

 左の二段ベッドの上段から明るい声がして、ひとりが身を乗り出した。清潔感のある髪型に、人懐こい笑顔。

「転校生だよな。俺、真田(たくみ)。三年」
「柏木透です。よろしくお願いします」
「よろしく。柏木の場所はここね」

 右の二段ベッドの下段と何も置かれていない机とロッカーを指さす。

「生徒会も寮の雑務もだいたい俺のとこ通るから、困ったら聞いて」
「生徒会?」
「生徒会長。わりと何でも屋」

 なるほど、確かに頼れそうな人だった。
 名札盤で見たもうひとつの名前を思い出して、口にする。

「榊(かなめ)さんは?」

 真田先輩が、一瞬だけ言葉を選ぶみたいに目を細めた。

「ああ、あいつはな」

 真田先輩はそれだけ言って、妙にあっさり笑った。

「まあ、そのうち戻るよ」

 どういうことだろう。
 榊さんがいないのには、何か事情があるんだろうか。
 なんだか、そういう言い方だった。

 荷解きを始めると、真田先輩が最低限のルールをざっと教えてくれた。洗濯機の空く時間、風呂の順番、寮監がうるさいこと、食堂のメニューは当たり外れが大きいこと。

「連絡先もあとで交換しよ。寮監からの連絡、だいたいグループで回るから」
「分かりました」
「柏木ってさ」

 真田先輩がにやっと笑う。

「見た目よりしゃべりやすいな」
「どういう意味ですか」
「大人しそうできれいな顔してるから、近寄りがたいかなって」

 正直、それで一歩引かれるのは珍しくなかった。
 何度も転校していると、最初の数日で覚える。
 目立ちすぎず、でも浮かない位置。
 入られすぎず、孤立もしない、そのへんの立ち方を。

 そのとき、スマホが震えた。父からだった。

 さっき送った「着いた」への返事で、文面は「わかった」の一言だけ。返ってくるのは珍しい。俺はしばらく画面を見下ろしてから、短く「うん」とだけ返して伏せた。

「親?」
「はい」
「心配してんだ。まぁ、こんな山奥だもんな」

 真田先輩が何でもない調子で言う。

 心配なんてしてるんだろうか。
 そうなら、転校を決める前に一回くらい聞いてほしかった。

 本当はこんな山奥に来たくなかった。
 でも、父と会っても目が合わないから、言っても無駄だと思っていた。

「……そうかも」

 返事が遅くなったが、真田先輩は気にした様子もなかった。

 夕食まで少し時間があるらしく、真田先輩は生徒会長の仕事があると言って部屋を出た。

 扉が閉まって、部屋にひとりになる。
 ようやく息をついて、ベッド脇に置いた荷物へ手を伸ばす。
 その時、ロッカーの側面に細長い紙が貼ってあるのが目に入った。

 黄ばんだ紙で、端が半分めくれている。墨で何か書いてあるらしいが、かすれていて読めない。

 こういう中途半端に剥がれたものが、昔から苦手だった。
 見て見ぬふりをすると、ずっと意識の端に引っかかる。

「……直したほうがいいか」

 そのままだと荷物の出し入れのたびに手が当たりそうで、指先でそっと端を押さえる。

 貼り直すつもりだった。
 なのに、乾いた紙は思ったより脆かった。少し戻そうとしただけで、ぴり、と嫌な音を立てて裂ける。

「あ」

 次の瞬間、指先がひやりとしびれた。
 遅れて、頭の芯がふっと遠のく。玄関で藤代先輩の札を掛けた時と似ている。でも、今度はもう少し強い。

 部屋の音が一拍だけ遠ざかった気がして、思わず瞬きをする。
 気のせいだ、と言い聞かせた。
 古い紙が破れただけだ。

 顔を上げると、藤代先輩が入口に立っていた。

 気配はなかった。
 ただ、そこにいた。

 夕方の光が背中から差して、顔は影になっている。
 それなのに、立っている姿だけが、妙にはっきり見えた。

 息を吸うのを忘れた。

 ぞわっとした。
 なのに、怖いとは思わなかった。

 きれいすぎて、目が離せない。

 指先に破れた紙片を持ったまま、俺はしばらく藤代先輩を見つめていた。
 そう思った瞬間、自分でも少し怖くなった。

「びっくりした顔してる」

 藤代先輩の声は、さっきと同じように穏やかだった。