三〇七号室の見えない先輩

 真田先輩が戻ってきた時、手には何枚かのコピーがあった。
 新聞部から借りてきたものらしい。
 古い紙の匂いが、部屋の空気に少し混ざる。

 俺はベッドの端に座ったまま、それを見ることができなかった。

 榊は窓際と俺の間に立っている。
 真田先輩は、いつもより静かな顔で俺の前にしゃがんだ。

「柏木」
「……はい」
「先に、結論から言う」

 その言い方が、いつもの真田先輩らしくなくて、胸の奥が少し硬くなった。

「藤代朔って名前は、五年前の資料にあった」

 息が止まった。

 五年前。

 分かっていたはずだった。
 普通じゃないことくらい、もう何度も思っていた。

 でも、真田先輩の口からそう言われると、急に逃げ場がなくなった。

「……五年前」
「うん。今の生徒じゃない」

 真田先輩は、そこで少しだけ言葉を切った。

「でも、いなかったわけじゃない。ちゃんと、この学校にいた」

 ちゃんと、いた。
 その言葉に、胸の奥が小さく震えた。

 怖い。
 でも、少しだけほっとした。

 俺が見ていたものが、全部ただの勘違いだったわけじゃない。
 朔は、本当にいた。

「ただ」

 真田先輩は、コピーの一枚を机に置いた。

「三〇七の生徒じゃなかった」
「……え」

 顔を上げてしまった。

「三〇七じゃ、ない?」
「うん。五年前の入寮者控えだと、藤代朔の部屋は別だった」

 真田先輩は、別のコピーを指で押さえる。

「で、三〇七には、別の生徒がいた。こっち」

 知らない名前だった。
 でも、そこに赤い丸がついている。
 古い資料のコピーだから、誰がいつつけたものかは分からない。

「まだ確定じゃない」

 真田先輩は、俺が何かを言う前に続けた。

「でも、新聞部の保存資料に、その二人が一緒に写ってる写真があった」

 次の紙が置かれる。
 白黒の粗い写真だった。

 寮祭準備委員、という見出し。
 何人かの男子生徒が並んでいる。

 その中に、朔がいた。

 今と同じ顔で笑っていた。

 でも、その笑顔は俺に向けられたものじゃない。
 隣に立つ男子を見ていた。
 肩が触れそうな距離。
 カメラではなく、その人の方へ向けられた目。

 胸の真ん中が、ひやりとした。

「新聞部の話だと」

 真田先輩の声が、少し慎重になる。

「この二人、付き合ってたんじゃないかって噂があったらしい」

 付き合っていた。
 その言葉が、うまく頭に入ってこなかった。

 前に、好きな人がいた。

 朔はそう言った。
 来てくれると思ってた、とも。

 今度は、一緒に来てくれる?

 今度は。

 前は、俺じゃない。
 朔が待っていたのは、俺じゃない誰かだった。

「あと」

 真田先輩は、もう一枚の紙を出した。

「外階段の記事もあった。表に出てるのは、改修のお知らせだけ」

 紙には、小さな見出しがある。

『楠寮外階段、一部改修へ』

 本文は短い。
 老朽化。
 夜間利用の禁止。
 安全管理の徹底。

 でも、真田先輩は別の紙を指差した。

「差し替え前の記事が残ってた。黒く潰されてたけど、いくつか文字が読めた」

 楠寮。
 夜間。
 外階段。
 三年生。
 救急搬送。

 ――救急搬送。

 その文字を見た瞬間、身体の奥が冷たくなった。

「事故だったんですか」
「たぶん」

 真田先輩は、すぐに断言しなかった。

「まだ、たぶんだ。俺たちも全部分かったわけじゃない。でも、五年前に外階段で何かがあった。それが記事になりかけて、差し替えられた」

 榊が低く言う。

「学校判断で、だ」

 学校判断。
 その言葉が、妙に重かった。
 真田先輩は俺の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。

「柏木。今、分かってるのは、そこまで」

 ゆっくり、噛み砕くみたいな声だった。

「藤代朔は、五年前にこの学校にいた。
 三〇七じゃない部屋の生徒だった。
 三〇七には、親しかったらしい相手がいた。
 外階段で何かがあって、その記事は差し替えられた」

 一つずつ並べられるたびに、胸の中の何かが崩れていく。

 五年前。
 三〇七。
 外階段。
 恋人だったかもしれない人。

 そこに、俺はいない。

「……じゃあ」

 自分の声が、遠く聞こえた。

「俺は、代わりだったんですね」

 真田先輩が息を呑んだ。

「柏木、それはまだ」
「だって、そうじゃないですか」

 思ったより静かな声が出た。

「朔が待ってたのは、俺じゃない。
 三〇七にいたのも、俺じゃない。
 朔が見てたのも、俺じゃない」

 写真の中の朔は、幸せそうに笑っている。
 その笑顔が、ひどく痛かった。

「特別だって、言われたのに」

 そこで、声が少しだけ揺れた。

「本当に特別だったのは、俺じゃなかったんですね」

 真田先輩は、すぐに否定しなかった。
 否定できないのだと分かった。
 榊も何も言わない。
 その沈黙が、答えみたいだった。

 その時、スマホが震えた。

 一瞬、朔かと思った。
 でも違った。
 父からだった。

 画面に、短いメッセージが浮かんでいる。

『少し話したいことがある』
『再婚を考えている人がいる』
『相手にも子どもがいる』
『落ち着いたら、一度会ってほしい』

 何度も読み返した。

 意味は分かる。
 分かるのに、胸の奥が追いつかない。

 父に、新しい家族ができる。
 相手にも、子どもがいる。
 その子は、父にちゃんと見てもらえるのだろうか。
 父は、その人たちを見る時には、俺を見る時みたいに目を逸らさないのだろうか。

 藤代朔には、三〇七にいた誰かがいた。
 父には、新しく家族になるかもしれない誰かがいる。

 じゃあ、俺は何なんだろう。

 誰かの代わりにもなれない。
 誰かの一番にもなれない。
 ただ、空いた場所に置かれて、必要がなくなればまた端へ寄せられる。

 そんな気がした。

「柏木」

 真田先輩が呼んだ。
 返事ができなかった。
 スマホの画面が暗くなる。
 暗くなった画面に、ひどい顔をした自分が映っていた。

 もう、何も欲しがりたくないと思った。

 特別だと言われて喜んだ自分が、馬鹿みたいだった。
 好きだと言われて、胸の奥まで浮かれた自分が、ひどく恥ずかしかった。

 見つけてほしかっただけなのに。
 俺だけを、ちゃんと俺として見てほしかっただけなのに。

「……今日は」

 やっと声を出した。
 細くて、自分のものではないみたいな声だった。

「今日は、もう一人にしてください」

 真田先輩が顔を上げる。

「柏木」
「お願いです」

 布団を引き寄せた。

「今日は、誰にも見られたくないです」

 声が震えた。
 それを隠すように、布団を頭までかぶる。

「朔にも。
 真田先輩にも。
 榊にも」

 言った瞬間、喉の奥が熱くなった。

「誰にも、見つけてほしくない」

 布団の中で、涙が落ちた。
 一度落ちると、もう止まらなかった。
 声は出したくなかった。
 泣いているところを、誰にも知られたくなかった。

 けれど肩が震える。
 息が詰まる。

 外で、真田先輩が黙っている気配がした。

「分かった」

 しばらくして、真田先輩が言った。

「真田」

 榊が低く止める。

「一人にはできない」
「分かってる」

 真田先輩の声も低かった。

「でも、見るなって言ってるやつを、真正面から見張るのは違うだろ」

 椅子を引く音がした。

「俺たちは部屋にいる。でも、見ない。
 それでいいか、柏木」

 布団の中で、俺は小さく頷いた。
 見えたかどうかは分からない。
 でも、真田先輩はそれ以上何も言わなかった。

 榊も黙った。

 三〇七の中に、静かな夜が落ちる。

 俺は布団の中で泣いていた。
 声を殺している。
 けれど、たぶん肩は震えている。

 誰も俺を見なかった。

 けれど、誰も部屋を出なかった。