三〇七へ戻ってから、柏木はほとんど何も言わなくなった。
真田に腕を掴まれたまま部屋へ戻され、榊にベッドへ座らされても、抵抗はしなかった。
ただ、一度だけ窓際を見た。
そこには誰もいない。
少なくとも、榊にはそう見えた。
柏木はしばらくベッドの端に座っていたが、やがて力が抜けたみたいに横になった。
眠ってはいない。
目は開いている。
けれど、こちらを見る気はないらしかった。
「柏木」
真田が声をかける。
返事はない。
怒っている、というより。
深いところを傷つけられて、どう返せばいいか分からなくなっているように見えた。
榊は窓際から視線を外さなかった。
「今は放っとけ」
「放っとける状態かよ」
「話しかけても戻ってこない」
「お前、言い方」
「事実だろ」
真田は何か言い返しかけて、やめた。
柏木は背中を向けたまま動かない。
さっき廊下で見た、甘くぼんやりした表情は消えていた。
代わりに、薄い膜を張ったみたいな沈黙だけがある。
榊には、その方がまだましに見えた
少なくとも、今は呼ばれていない。
そう思った直後、自分でその考えを打ち消す。
分からない。
呼ばれていないように見えるだけかもしれない。
「五年前の情報か」
真田が低く呟いた。
「どうしたら分かるかな」
「点呼表。入寮者台帳。寮監の記録」
「それ、全部、小野寺さん側だろ」
「だから取りに行く」
「待て。もうちょい普通のとこから当たろうぜ」
榊が顔を上げる。
「普通のとこ?」
「校内新聞は?」
「新聞?」
「生徒会室にも保存版はあるけど、新聞部の方がちゃんと残してるはずだろ。外階段の改修とか、寮の注意喚起とかさ。何かあったなら、完全にゼロってことはないと思う」
榊は少しだけ考えた。
悪くない。
記録として残せないものでも、記事の端に残ることはある。
学校側が消したつもりでも、差し替えきれなかった言葉。
誰かが残した写真。
記事にならなかった記事の跡。
そういうものは、正式な記録より取り繕うのが難しい。
「今から部室に行くのか」
「楠寮に新聞部がいる。三年の滝川。鍵を持ってるか、部長に連絡はつく」
「こんな時間に開けさせるのか」
「人ひとり倒れて、勝手に出ていきかけたんだぞ」
真田の声が硬くなる。
「遠慮してる場合じゃない」
榊は柏木を見た。
柏木は背中を向けたまま、何も言わない。
だが、聞こえていないわけではない。
肩が、ほんの少しだけ強張っている。
「俺が行く。榊は柏木を見てろ」
「逆だろ」
「逆じゃない。お前が新聞部に行ったら、たぶん相手が泣く」
「泣かねえよ」
「泣く。あと、お前はこっちにいた方がいい」
真田はベッドの方を見た。
「柏木に何かあった時、俺じゃ分からない」
榊は黙った。
それは正しかった。
真田には、そこに何かがいる前提で身体が動いてしまう。
さっきも、何もないはずの窓際で、誰かを避けた。
異変を異変として拾えるのは、今のところ榊だけだった。
「……行ってこい」
「おう。新聞部捕まえてくる」
真田はスマホを取り出しながら、扉へ向かった。
出ていく直前、振り返る。
「柏木、すぐ戻る」
返事はなかった。
でも、柏木の肩がほんの少しだけ動いた。
聞こえてはいる。
真田はそれだけ確認して、部屋を出た。
扉が閉まる。
三〇七は、急に静かになった。
「柏木」
榊は低く呼んだ。
返事はない。
「今は寝てろ」
「……寝たくない」
思ったよりはっきりした声が返ってきた。
柏木は背中を向けたまま言う。
「寝たら、また分からなくなる気がする」
榊は少しだけ黙った。
「なら、起きてろ」
「榊は、俺を見張るんだな」
「そうだ」
「嫌なやつだ」
「知ってる」
柏木はそれきり黙った。
榊もそれ以上は言わなかった。
慰める言葉など、今は邪魔だ。
柏木はたぶん、あれを求めている。
あの名前を呼びたい。
呼ばれたい。
必要とされたい。
それを否定すれば、また離れる。
だから榊は、ただ窓際と柏木の間に立った。
真田からの連絡は、十分ほどで来た。
『滝川つかまえた』
『部室開けてもらう』
榊は短く返す。
『柏木から目は離してない』
少し間を置いて、真田からまた届く。
『助かる』
『新聞部、文句言ってる』
榊は返信しなかった。
代わりに窓際を見る。
そこに何かがいる気配は、今は薄い。
薄いだけで、消えてはいない。
床板。
窓枠。
誰も使っていない空間。
そこだけが、まだ誰かの場所みたいに空いている。
榊はポケットからスマホを取り出した。
古い名簿の写真を開く。
三〇七には、藤代朔の名前はなかった。
代わりに、別の部屋で修正液に潰された名前。
そして、三〇七の欄に赤丸のついた生徒の名前。
榊はその名前を検索窓へ入れた。
藤代朔とは違って、すぐに出た。
大学のページ。
企業のインタビュー記事。
同窓会らしい写真。
普通に卒業し、大学へ行き、就職している。
五年分、ちゃんと先へ進んでいる人生だった。
榊はしばらく画面を見ていた。
藤代朔は出ない。
学校名を足しても、楠寮を足しても、外階段を足しても、何も出ない。
なのに、こっちは出る。
それが奇妙だった。
榊は短いメッセージを打った。
『突然のご連絡失礼します。青嶺学園の在校生です。五年ほど前の楠寮について調べています。藤代朔さんについて、お伺いしたいことがあります』
送信。
返事は、来なかった。
当然だと思った。
五年前のことを、知らない高校生に急に聞かれて、答える人間の方が少ない。
榊はスマホを伏せた。
「榊」
背中を向けたまま、柏木が言った。
「何だ」
「……藤代先輩のこと、調べてるのか」
榊は一瞬だけ黙った。
名前を口にするな、と言いたかった。
けれど今の柏木には、それは忠告には聞こえない。
藤代朔を、いないものにしようとしている言葉にしかならない。
「ああ」
「悪い人じゃない」
「まだ何も言ってねえだろ」
「でも、そういう目をしてる」
榊は少しだけ黙った。
「悪いものかどうかは、まだ分からない」
「悪いものじゃない」
柏木の声は弱い。
それでも、そこだけは譲らない響きがあった。
「好きだからか」
言った瞬間、柏木の肩がかすかに跳ねた。
榊は言いすぎたと思った。
けれど、撤回はしなかった。
「好きなら、なおさらきちんと見ろ」
「何を」
「そいつが、何を欲しがっているのかを」
柏木は答えなかった。
榊もそれ以上は言わない。
廊下の向こうから、遠く生徒たちの声が聞こえる。
消灯にはまだ少し早い。
けれど三〇七だけ、夜が先に落ちたみたいだった。
それから十分ほどして、真田からメッセージが来た。
『新聞部、文句言ってる』
『購買三回で手を打った』
榊は返信しなかった。
***
そのころ、真田は楠寮の二階廊下にいた。
新聞部の滝川は、寝間着の上にジャージを羽織った姿で、ひどく不満そうな顔をしていた。
眼鏡の奥の目が完全に据わっている。
「真田、今何時だと思ってる」
「生徒会長権限だ」
「新聞部は生徒会の下請けじゃない」
「知ってる。だから購買三回」
「……四回」
「三回と、食堂のプリン一個」
「開ける」
滝川は即答した。
文句を言いながらも、足は速かった。
新聞部らしく、妙な事態には弱くないらしい。
「で、何探してる?」
「五年くらい前の校内新聞。楠寮の記事。外階段とか、寮の注意喚起とか、その辺」
「外階段?」
滝川の顔が少しだけ変わった。
真田はそれを見逃さなかった。
「何か知ってる?」
「いや、俺は直接は知らない。でも、新聞部って昔の記事の差し替え記録とか残してるから」
「差し替え記録?」
「顧問がうるさい。載せられなかった記事も、資料としては残せって」
真田は内心で手を打った。
当たりかもしれない。
部室の鍵は、滝川が持っていた。
古い校舎の一階、廊下の端にある小さな部屋。
扉を開けると、紙とインクと埃の匂いがした。
壁際には棚。
段ボール。
古いプリンター。
積まれた校内新聞の束。
「五年前なら、この辺だな」
滝川が棚の下段から紐で縛られた紙束を出す。
「年度別になってる。寮の記事なら、六月か七月かな。
外階段って、たぶん梅雨前後に点検入るから」
「助かる」
「購買三回だ」
「分かってる」
真田は紙束を受け取り、床に広げた。
行事予定。
部活動の大会結果。
寮祭準備委員の紹介。
食堂アンケート。
誰が読むのか分からない教師のコラム。
普通の記事が続く。
その中で、小さな見出しが目に入った。
『楠寮外階段、一部改修へ』
真田の指が止まる。
本文は短かった。
老朽化に伴い、楠寮三階外階段の一部を改修する。
夜間の利用を控え、安全管理を徹底すること。
生徒は教員および寮監の指示に従うこと。
事故という言葉はない。
怪我人とも書かれていない。
けれど、妙だった。
ただの改修記事にしては、言葉が硬い。
安全管理。
夜間利用。
寮監の指示。
まるで、何かがあったことだけを隠しているみたいだった。
「滝川」
「はい」
「これ、差し替え記録ある?」
滝川は真田の指している紙面を見て、眉を寄せた。
「外階段の記事か」
「うん」
「待ってろ」
滝川は別の棚から薄いファイルを引っ張り出した。
発行前確認。
顧問差し戻し。
差し替え原稿。
背表紙に、そう書かれている。
滝川がページをめくる。
「あった」
その声が、少し低くなった。
真田は身を乗り出す。
差し替え前の記事の見出しは、黒い線で大きく消されていた。
それでも、線の下に一部だけ読める文字が残っている。
楠寮。
夜間。
外階段。
三年生。
救急搬送。
滝川が黙る。
真田も、しばらく何も言えなかった。
「……これ、止められてるな」
「誰に」
「顧問のメモがある。学校判断により差し替え、って」
真田はスマホを取り出し、榊へ写真を送った。
『見つけた』
『外階段の記事、差し替えられてる』
『二年生、救急搬送って文字が残ってる』
すぐに既読がついた。
返事は短かった。
『続けろ』
真田は小さく息を吐く。
「他に写真とかある?」
「寮祭準備の記事なら、こっちに」
滝川が別の紙面を出す。
寮祭準備委員の集合写真。
古い印刷で、顔は少し潰れている。
それでも、一人だけ妙に目を引く男子がいた。
長身で、整った顔。
カメラではなく、隣に立つ男子を見て笑っている。
その隣の男子は、肩が触れそうな距離にいた。
キャプションには名前があった。
藤代朔。
真田は、その文字を見た瞬間、頭の中が少し滑るのを感じた。
読み取れる。
でも、音にしようとすると引っかかる。
喉の手前で、名前だけがほどける。
真田は奥歯を噛んだ。
読める。
ここに書いてある。
だから逃がすな。
もう一人の名前も確認する。
三〇七の欄で、赤い丸がついていた生徒と同じ名前だった。
「滝川先輩」
「なんだ」
「この二人、何か知ってる?」
滝川は写真を覗き込んで、少しだけ声を落とした。
「先輩から聞いたことがある」
「何を」
「その二人、付き合ってたんじゃないかって噂があったらしい」
真田は息を止めた。
「噂?」
「もちろん、記事にはできないけど。寮内ではけっこう知られてたって」
滝川は言いにくそうに続ける。
「で、外階段の件も、その人たちが関係してるんじゃないかって」
真田の指先が、新聞の端を強く押さえた。
朔。
三〇七。
外階段。
来てくれると思っていた相手。
まだ全部はつながらない。
けれど、もう偶然ではなかった。
真田は写真を撮り、榊へ送る。
『これ』
『藤代朔』
『隣、三〇七の赤丸のやつ』
『新聞部の話だと、付き合ってた噂あり』
送信してから、真田は一瞬だけ目を閉じた。
今度は、名前が頭から完全には落ちなかった。
文字としてなら、残せる。
記録としてなら、踏みとどまれる。
なら、まだ間に合うかもしれない。
三〇七では、榊のスマホが震えた。
真田から送られてきた写真を見て、榊は眉を寄せる。
藤代朔。
隣に立つ、三〇七の生徒。
距離が近い。
噂になる程度には、近い。
柏木がこれを見てどう反応するのか。
真田には、正確には分からない。
けれど、昨日の柏木を見ていれば、何も感じないとは思えなかった。
あの名前を聞き取れない相手がそばにいる時の、柏木の目。
見えない相手を否定されただけで、あれほど怒った顔。
なら、この写真はまずい。
柏木には見せられないと思った。
少なくとも、今は。
その時、もう一つ通知が来た。
真田ではない。
さっき榊がメッセージを送った相手からだった。
画面に短い文が浮かぶ。
『その名前を、どこで見つけたんですか』
榊は一瞬だけ息を止めた。
忘れていない。
その一文だけで、十分だった。
真田に腕を掴まれたまま部屋へ戻され、榊にベッドへ座らされても、抵抗はしなかった。
ただ、一度だけ窓際を見た。
そこには誰もいない。
少なくとも、榊にはそう見えた。
柏木はしばらくベッドの端に座っていたが、やがて力が抜けたみたいに横になった。
眠ってはいない。
目は開いている。
けれど、こちらを見る気はないらしかった。
「柏木」
真田が声をかける。
返事はない。
怒っている、というより。
深いところを傷つけられて、どう返せばいいか分からなくなっているように見えた。
榊は窓際から視線を外さなかった。
「今は放っとけ」
「放っとける状態かよ」
「話しかけても戻ってこない」
「お前、言い方」
「事実だろ」
真田は何か言い返しかけて、やめた。
柏木は背中を向けたまま動かない。
さっき廊下で見た、甘くぼんやりした表情は消えていた。
代わりに、薄い膜を張ったみたいな沈黙だけがある。
榊には、その方がまだましに見えた
少なくとも、今は呼ばれていない。
そう思った直後、自分でその考えを打ち消す。
分からない。
呼ばれていないように見えるだけかもしれない。
「五年前の情報か」
真田が低く呟いた。
「どうしたら分かるかな」
「点呼表。入寮者台帳。寮監の記録」
「それ、全部、小野寺さん側だろ」
「だから取りに行く」
「待て。もうちょい普通のとこから当たろうぜ」
榊が顔を上げる。
「普通のとこ?」
「校内新聞は?」
「新聞?」
「生徒会室にも保存版はあるけど、新聞部の方がちゃんと残してるはずだろ。外階段の改修とか、寮の注意喚起とかさ。何かあったなら、完全にゼロってことはないと思う」
榊は少しだけ考えた。
悪くない。
記録として残せないものでも、記事の端に残ることはある。
学校側が消したつもりでも、差し替えきれなかった言葉。
誰かが残した写真。
記事にならなかった記事の跡。
そういうものは、正式な記録より取り繕うのが難しい。
「今から部室に行くのか」
「楠寮に新聞部がいる。三年の滝川。鍵を持ってるか、部長に連絡はつく」
「こんな時間に開けさせるのか」
「人ひとり倒れて、勝手に出ていきかけたんだぞ」
真田の声が硬くなる。
「遠慮してる場合じゃない」
榊は柏木を見た。
柏木は背中を向けたまま、何も言わない。
だが、聞こえていないわけではない。
肩が、ほんの少しだけ強張っている。
「俺が行く。榊は柏木を見てろ」
「逆だろ」
「逆じゃない。お前が新聞部に行ったら、たぶん相手が泣く」
「泣かねえよ」
「泣く。あと、お前はこっちにいた方がいい」
真田はベッドの方を見た。
「柏木に何かあった時、俺じゃ分からない」
榊は黙った。
それは正しかった。
真田には、そこに何かがいる前提で身体が動いてしまう。
さっきも、何もないはずの窓際で、誰かを避けた。
異変を異変として拾えるのは、今のところ榊だけだった。
「……行ってこい」
「おう。新聞部捕まえてくる」
真田はスマホを取り出しながら、扉へ向かった。
出ていく直前、振り返る。
「柏木、すぐ戻る」
返事はなかった。
でも、柏木の肩がほんの少しだけ動いた。
聞こえてはいる。
真田はそれだけ確認して、部屋を出た。
扉が閉まる。
三〇七は、急に静かになった。
「柏木」
榊は低く呼んだ。
返事はない。
「今は寝てろ」
「……寝たくない」
思ったよりはっきりした声が返ってきた。
柏木は背中を向けたまま言う。
「寝たら、また分からなくなる気がする」
榊は少しだけ黙った。
「なら、起きてろ」
「榊は、俺を見張るんだな」
「そうだ」
「嫌なやつだ」
「知ってる」
柏木はそれきり黙った。
榊もそれ以上は言わなかった。
慰める言葉など、今は邪魔だ。
柏木はたぶん、あれを求めている。
あの名前を呼びたい。
呼ばれたい。
必要とされたい。
それを否定すれば、また離れる。
だから榊は、ただ窓際と柏木の間に立った。
真田からの連絡は、十分ほどで来た。
『滝川つかまえた』
『部室開けてもらう』
榊は短く返す。
『柏木から目は離してない』
少し間を置いて、真田からまた届く。
『助かる』
『新聞部、文句言ってる』
榊は返信しなかった。
代わりに窓際を見る。
そこに何かがいる気配は、今は薄い。
薄いだけで、消えてはいない。
床板。
窓枠。
誰も使っていない空間。
そこだけが、まだ誰かの場所みたいに空いている。
榊はポケットからスマホを取り出した。
古い名簿の写真を開く。
三〇七には、藤代朔の名前はなかった。
代わりに、別の部屋で修正液に潰された名前。
そして、三〇七の欄に赤丸のついた生徒の名前。
榊はその名前を検索窓へ入れた。
藤代朔とは違って、すぐに出た。
大学のページ。
企業のインタビュー記事。
同窓会らしい写真。
普通に卒業し、大学へ行き、就職している。
五年分、ちゃんと先へ進んでいる人生だった。
榊はしばらく画面を見ていた。
藤代朔は出ない。
学校名を足しても、楠寮を足しても、外階段を足しても、何も出ない。
なのに、こっちは出る。
それが奇妙だった。
榊は短いメッセージを打った。
『突然のご連絡失礼します。青嶺学園の在校生です。五年ほど前の楠寮について調べています。藤代朔さんについて、お伺いしたいことがあります』
送信。
返事は、来なかった。
当然だと思った。
五年前のことを、知らない高校生に急に聞かれて、答える人間の方が少ない。
榊はスマホを伏せた。
「榊」
背中を向けたまま、柏木が言った。
「何だ」
「……藤代先輩のこと、調べてるのか」
榊は一瞬だけ黙った。
名前を口にするな、と言いたかった。
けれど今の柏木には、それは忠告には聞こえない。
藤代朔を、いないものにしようとしている言葉にしかならない。
「ああ」
「悪い人じゃない」
「まだ何も言ってねえだろ」
「でも、そういう目をしてる」
榊は少しだけ黙った。
「悪いものかどうかは、まだ分からない」
「悪いものじゃない」
柏木の声は弱い。
それでも、そこだけは譲らない響きがあった。
「好きだからか」
言った瞬間、柏木の肩がかすかに跳ねた。
榊は言いすぎたと思った。
けれど、撤回はしなかった。
「好きなら、なおさらきちんと見ろ」
「何を」
「そいつが、何を欲しがっているのかを」
柏木は答えなかった。
榊もそれ以上は言わない。
廊下の向こうから、遠く生徒たちの声が聞こえる。
消灯にはまだ少し早い。
けれど三〇七だけ、夜が先に落ちたみたいだった。
それから十分ほどして、真田からメッセージが来た。
『新聞部、文句言ってる』
『購買三回で手を打った』
榊は返信しなかった。
***
そのころ、真田は楠寮の二階廊下にいた。
新聞部の滝川は、寝間着の上にジャージを羽織った姿で、ひどく不満そうな顔をしていた。
眼鏡の奥の目が完全に据わっている。
「真田、今何時だと思ってる」
「生徒会長権限だ」
「新聞部は生徒会の下請けじゃない」
「知ってる。だから購買三回」
「……四回」
「三回と、食堂のプリン一個」
「開ける」
滝川は即答した。
文句を言いながらも、足は速かった。
新聞部らしく、妙な事態には弱くないらしい。
「で、何探してる?」
「五年くらい前の校内新聞。楠寮の記事。外階段とか、寮の注意喚起とか、その辺」
「外階段?」
滝川の顔が少しだけ変わった。
真田はそれを見逃さなかった。
「何か知ってる?」
「いや、俺は直接は知らない。でも、新聞部って昔の記事の差し替え記録とか残してるから」
「差し替え記録?」
「顧問がうるさい。載せられなかった記事も、資料としては残せって」
真田は内心で手を打った。
当たりかもしれない。
部室の鍵は、滝川が持っていた。
古い校舎の一階、廊下の端にある小さな部屋。
扉を開けると、紙とインクと埃の匂いがした。
壁際には棚。
段ボール。
古いプリンター。
積まれた校内新聞の束。
「五年前なら、この辺だな」
滝川が棚の下段から紐で縛られた紙束を出す。
「年度別になってる。寮の記事なら、六月か七月かな。
外階段って、たぶん梅雨前後に点検入るから」
「助かる」
「購買三回だ」
「分かってる」
真田は紙束を受け取り、床に広げた。
行事予定。
部活動の大会結果。
寮祭準備委員の紹介。
食堂アンケート。
誰が読むのか分からない教師のコラム。
普通の記事が続く。
その中で、小さな見出しが目に入った。
『楠寮外階段、一部改修へ』
真田の指が止まる。
本文は短かった。
老朽化に伴い、楠寮三階外階段の一部を改修する。
夜間の利用を控え、安全管理を徹底すること。
生徒は教員および寮監の指示に従うこと。
事故という言葉はない。
怪我人とも書かれていない。
けれど、妙だった。
ただの改修記事にしては、言葉が硬い。
安全管理。
夜間利用。
寮監の指示。
まるで、何かがあったことだけを隠しているみたいだった。
「滝川」
「はい」
「これ、差し替え記録ある?」
滝川は真田の指している紙面を見て、眉を寄せた。
「外階段の記事か」
「うん」
「待ってろ」
滝川は別の棚から薄いファイルを引っ張り出した。
発行前確認。
顧問差し戻し。
差し替え原稿。
背表紙に、そう書かれている。
滝川がページをめくる。
「あった」
その声が、少し低くなった。
真田は身を乗り出す。
差し替え前の記事の見出しは、黒い線で大きく消されていた。
それでも、線の下に一部だけ読める文字が残っている。
楠寮。
夜間。
外階段。
三年生。
救急搬送。
滝川が黙る。
真田も、しばらく何も言えなかった。
「……これ、止められてるな」
「誰に」
「顧問のメモがある。学校判断により差し替え、って」
真田はスマホを取り出し、榊へ写真を送った。
『見つけた』
『外階段の記事、差し替えられてる』
『二年生、救急搬送って文字が残ってる』
すぐに既読がついた。
返事は短かった。
『続けろ』
真田は小さく息を吐く。
「他に写真とかある?」
「寮祭準備の記事なら、こっちに」
滝川が別の紙面を出す。
寮祭準備委員の集合写真。
古い印刷で、顔は少し潰れている。
それでも、一人だけ妙に目を引く男子がいた。
長身で、整った顔。
カメラではなく、隣に立つ男子を見て笑っている。
その隣の男子は、肩が触れそうな距離にいた。
キャプションには名前があった。
藤代朔。
真田は、その文字を見た瞬間、頭の中が少し滑るのを感じた。
読み取れる。
でも、音にしようとすると引っかかる。
喉の手前で、名前だけがほどける。
真田は奥歯を噛んだ。
読める。
ここに書いてある。
だから逃がすな。
もう一人の名前も確認する。
三〇七の欄で、赤い丸がついていた生徒と同じ名前だった。
「滝川先輩」
「なんだ」
「この二人、何か知ってる?」
滝川は写真を覗き込んで、少しだけ声を落とした。
「先輩から聞いたことがある」
「何を」
「その二人、付き合ってたんじゃないかって噂があったらしい」
真田は息を止めた。
「噂?」
「もちろん、記事にはできないけど。寮内ではけっこう知られてたって」
滝川は言いにくそうに続ける。
「で、外階段の件も、その人たちが関係してるんじゃないかって」
真田の指先が、新聞の端を強く押さえた。
朔。
三〇七。
外階段。
来てくれると思っていた相手。
まだ全部はつながらない。
けれど、もう偶然ではなかった。
真田は写真を撮り、榊へ送る。
『これ』
『藤代朔』
『隣、三〇七の赤丸のやつ』
『新聞部の話だと、付き合ってた噂あり』
送信してから、真田は一瞬だけ目を閉じた。
今度は、名前が頭から完全には落ちなかった。
文字としてなら、残せる。
記録としてなら、踏みとどまれる。
なら、まだ間に合うかもしれない。
三〇七では、榊のスマホが震えた。
真田から送られてきた写真を見て、榊は眉を寄せる。
藤代朔。
隣に立つ、三〇七の生徒。
距離が近い。
噂になる程度には、近い。
柏木がこれを見てどう反応するのか。
真田には、正確には分からない。
けれど、昨日の柏木を見ていれば、何も感じないとは思えなかった。
あの名前を聞き取れない相手がそばにいる時の、柏木の目。
見えない相手を否定されただけで、あれほど怒った顔。
なら、この写真はまずい。
柏木には見せられないと思った。
少なくとも、今は。
その時、もう一つ通知が来た。
真田ではない。
さっき榊がメッセージを送った相手からだった。
画面に短い文が浮かぶ。
『その名前を、どこで見つけたんですか』
榊は一瞬だけ息を止めた。
忘れていない。
その一文だけで、十分だった。
