三〇七号室の見えない先輩

 三〇七へ戻ってから、柏木はほとんど何も言わなくなった。

 真田に腕を掴まれたまま部屋へ戻され、榊にベッドへ座らされても、抵抗はしなかった。
 ただ、一度だけ窓際を見た。

 そこには誰もいない。

 少なくとも、榊にはそう見えた。

 柏木はしばらくベッドの端に座っていたが、やがて力が抜けたみたいに横になった。
 眠ってはいない。
 目は開いている。

 けれど、こちらを見る気はないらしかった。

「柏木」

 真田が声をかける。
 返事はない。

 怒っている、というより。
 深いところを傷つけられて、どう返せばいいか分からなくなっているように見えた。
 榊は窓際から視線を外さなかった。

「今は放っとけ」
「放っとける状態かよ」
「話しかけても戻ってこない」
「お前、言い方」
「事実だろ」

 真田は何か言い返しかけて、やめた。

 柏木は背中を向けたまま動かない。
 さっき廊下で見た、甘くぼんやりした表情は消えていた。
 代わりに、薄い膜を張ったみたいな沈黙だけがある。

 榊には、その方がまだましに見えた
 少なくとも、今は呼ばれていない。
 そう思った直後、自分でその考えを打ち消す。

 分からない。
 呼ばれていないように見えるだけかもしれない。

「五年前の情報か」

 真田が低く呟いた。

「どうしたら分かるかな」
「点呼表。入寮者台帳。寮監の記録」
「それ、全部、小野寺さん側だろ」
「だから取りに行く」
「待て。もうちょい普通のとこから当たろうぜ」

 榊が顔を上げる。

「普通のとこ?」
「校内新聞は?」
「新聞?」
「生徒会室にも保存版はあるけど、新聞部の方がちゃんと残してるはずだろ。外階段の改修とか、寮の注意喚起とかさ。何かあったなら、完全にゼロってことはないと思う」

 榊は少しだけ考えた。
 悪くない。
 記録として残せないものでも、記事の端に残ることはある。
 学校側が消したつもりでも、差し替えきれなかった言葉。
 誰かが残した写真。
 記事にならなかった記事の跡。

 そういうものは、正式な記録より取り繕うのが難しい。

「今から部室に行くのか」
「楠寮に新聞部がいる。三年の滝川。鍵を持ってるか、部長に連絡はつく」
「こんな時間に開けさせるのか」
「人ひとり倒れて、勝手に出ていきかけたんだぞ」

 真田の声が硬くなる。

「遠慮してる場合じゃない」

 榊は柏木を見た。

 柏木は背中を向けたまま、何も言わない。
 だが、聞こえていないわけではない。
 肩が、ほんの少しだけ強張っている。

「俺が行く。榊は柏木を見てろ」
「逆だろ」
「逆じゃない。お前が新聞部に行ったら、たぶん相手が泣く」
「泣かねえよ」
「泣く。あと、お前はこっちにいた方がいい」

 真田はベッドの方を見た。

「柏木に何かあった時、俺じゃ分からない」

 榊は黙った。
 それは正しかった。

 真田には、そこに何かがいる前提で身体が動いてしまう。
 さっきも、何もないはずの窓際で、誰かを避けた。
 異変を異変として拾えるのは、今のところ榊だけだった。

「……行ってこい」
「おう。新聞部捕まえてくる」

 真田はスマホを取り出しながら、扉へ向かった。
 出ていく直前、振り返る。

「柏木、すぐ戻る」

 返事はなかった。
 でも、柏木の肩がほんの少しだけ動いた。
 聞こえてはいる。
 真田はそれだけ確認して、部屋を出た。

 扉が閉まる。

 三〇七は、急に静かになった。

「柏木」

 榊は低く呼んだ。
 返事はない。

「今は寝てろ」
「……寝たくない」

 思ったよりはっきりした声が返ってきた。
 柏木は背中を向けたまま言う。

「寝たら、また分からなくなる気がする」

 榊は少しだけ黙った。

「なら、起きてろ」
「榊は、俺を見張るんだな」
「そうだ」
「嫌なやつだ」
「知ってる」

 柏木はそれきり黙った。
 榊もそれ以上は言わなかった。

 慰める言葉など、今は邪魔だ。
 柏木はたぶん、あれを求めている。
 あの名前を呼びたい。
 呼ばれたい。
 必要とされたい。

 それを否定すれば、また離れる。

 だから榊は、ただ窓際と柏木の間に立った。

 真田からの連絡は、十分ほどで来た。

『滝川つかまえた』
『部室開けてもらう』

 榊は短く返す。

『柏木から目は離してない』

 少し間を置いて、真田からまた届く。

『助かる』
『新聞部、文句言ってる』

 榊は返信しなかった。
 代わりに窓際を見る。

 そこに何かがいる気配は、今は薄い。
 薄いだけで、消えてはいない。

 床板。
 窓枠。
 誰も使っていない空間。

 そこだけが、まだ誰かの場所みたいに空いている。

 榊はポケットからスマホを取り出した。

 古い名簿の写真を開く。

 三〇七には、藤代朔の名前はなかった。

 代わりに、別の部屋で修正液に潰された名前。
 そして、三〇七の欄に赤丸のついた生徒の名前。

 榊はその名前を検索窓へ入れた。

 藤代朔とは違って、すぐに出た。

 大学のページ。
 企業のインタビュー記事。
 同窓会らしい写真。

 普通に卒業し、大学へ行き、就職している。
 五年分、ちゃんと先へ進んでいる人生だった。

 榊はしばらく画面を見ていた。

 藤代朔は出ない。
 学校名を足しても、楠寮を足しても、外階段を足しても、何も出ない。

 なのに、こっちは出る。
 それが奇妙だった。

 榊は短いメッセージを打った。

『突然のご連絡失礼します。青嶺学園の在校生です。五年ほど前の楠寮について調べています。藤代朔さんについて、お伺いしたいことがあります』

 送信。

 返事は、来なかった。

 当然だと思った。
 五年前のことを、知らない高校生に急に聞かれて、答える人間の方が少ない。
 榊はスマホを伏せた。

「榊」

 背中を向けたまま、柏木が言った。

「何だ」
「……藤代先輩のこと、調べてるのか」

 榊は一瞬だけ黙った。

 名前を口にするな、と言いたかった。
 けれど今の柏木には、それは忠告には聞こえない。
 藤代朔を、いないものにしようとしている言葉にしかならない。

「ああ」
「悪い人じゃない」
「まだ何も言ってねえだろ」
「でも、そういう目をしてる」

 榊は少しだけ黙った。

「悪いものかどうかは、まだ分からない」
「悪いものじゃない」

 柏木の声は弱い。
 それでも、そこだけは譲らない響きがあった。

「好きだからか」

 言った瞬間、柏木の肩がかすかに跳ねた。

 榊は言いすぎたと思った。
 けれど、撤回はしなかった。

「好きなら、なおさらきちんと見ろ」
「何を」
「そいつが、何を欲しがっているのかを」

 柏木は答えなかった。

 榊もそれ以上は言わない。

 廊下の向こうから、遠く生徒たちの声が聞こえる。
 消灯にはまだ少し早い。

 けれど三〇七だけ、夜が先に落ちたみたいだった。

 それから十分ほどして、真田からメッセージが来た。

『新聞部、文句言ってる』
『購買三回で手を打った』

 榊は返信しなかった。

***

 そのころ、真田は楠寮の二階廊下にいた。

 新聞部の滝川は、寝間着の上にジャージを羽織った姿で、ひどく不満そうな顔をしていた。
 眼鏡の奥の目が完全に据わっている。

「真田、今何時だと思ってる」
「生徒会長権限だ」
「新聞部は生徒会の下請けじゃない」
「知ってる。だから購買三回」
「……四回」
「三回と、食堂のプリン一個」
「開ける」

 滝川は即答した。

 文句を言いながらも、足は速かった。
 新聞部らしく、妙な事態には弱くないらしい。

「で、何探してる?」
「五年くらい前の校内新聞。楠寮の記事。外階段とか、寮の注意喚起とか、その辺」
「外階段?」

 滝川の顔が少しだけ変わった。
 真田はそれを見逃さなかった。

「何か知ってる?」
「いや、俺は直接は知らない。でも、新聞部って昔の記事の差し替え記録とか残してるから」
「差し替え記録?」
「顧問がうるさい。載せられなかった記事も、資料としては残せって」

 真田は内心で手を打った。

 当たりかもしれない。

 部室の鍵は、滝川が持っていた。
 古い校舎の一階、廊下の端にある小さな部屋。
 扉を開けると、紙とインクと埃の匂いがした。

 壁際には棚。
 段ボール。
 古いプリンター。
 積まれた校内新聞の束。

「五年前なら、この辺だな」

 滝川が棚の下段から紐で縛られた紙束を出す。

「年度別になってる。寮の記事なら、六月か七月かな。
外階段って、たぶん梅雨前後に点検入るから」
「助かる」
「購買三回だ」
「分かってる」

 真田は紙束を受け取り、床に広げた。

 行事予定。
 部活動の大会結果。
 寮祭準備委員の紹介。
 食堂アンケート。
 誰が読むのか分からない教師のコラム。

 普通の記事が続く。

 その中で、小さな見出しが目に入った。

『楠寮外階段、一部改修へ』

 真田の指が止まる。
 本文は短かった。

 老朽化に伴い、楠寮三階外階段の一部を改修する。
 夜間の利用を控え、安全管理を徹底すること。
 生徒は教員および寮監の指示に従うこと。

 事故という言葉はない。
 怪我人とも書かれていない。

 けれど、妙だった。

 ただの改修記事にしては、言葉が硬い。
 安全管理。
 夜間利用。
 寮監の指示。

 まるで、何かがあったことだけを隠しているみたいだった。

「滝川」
「はい」
「これ、差し替え記録ある?」

 滝川は真田の指している紙面を見て、眉を寄せた。

「外階段の記事か」
「うん」
「待ってろ」

 滝川は別の棚から薄いファイルを引っ張り出した。

 発行前確認。
 顧問差し戻し。
 差し替え原稿。

 背表紙に、そう書かれている。

 滝川がページをめくる。

「あった」

 その声が、少し低くなった。
 真田は身を乗り出す。

 差し替え前の記事の見出しは、黒い線で大きく消されていた。
 それでも、線の下に一部だけ読める文字が残っている。

 楠寮。
 夜間。
 外階段。
 三年生。
 救急搬送。

 滝川が黙る。

 真田も、しばらく何も言えなかった。

「……これ、止められてるな」
「誰に」
「顧問のメモがある。学校判断により差し替え、って」

 真田はスマホを取り出し、榊へ写真を送った。

『見つけた』
『外階段の記事、差し替えられてる』
『二年生、救急搬送って文字が残ってる』

 すぐに既読がついた。

 返事は短かった。

『続けろ』

 真田は小さく息を吐く。

「他に写真とかある?」
「寮祭準備の記事なら、こっちに」

 滝川が別の紙面を出す。

 寮祭準備委員の集合写真。

 古い印刷で、顔は少し潰れている。
 それでも、一人だけ妙に目を引く男子がいた。

 長身で、整った顔。
 カメラではなく、隣に立つ男子を見て笑っている。

 その隣の男子は、肩が触れそうな距離にいた。

 キャプションには名前があった。

 藤代朔。

 真田は、その文字を見た瞬間、頭の中が少し滑るのを感じた。

 読み取れる。
 でも、音にしようとすると引っかかる。

 喉の手前で、名前だけがほどける。

 真田は奥歯を噛んだ。

 読める。
 ここに書いてある。

 だから逃がすな。

 もう一人の名前も確認する。

 三〇七の欄で、赤い丸がついていた生徒と同じ名前だった。

「滝川先輩」
「なんだ」
「この二人、何か知ってる?」

 滝川は写真を覗き込んで、少しだけ声を落とした。

「先輩から聞いたことがある」
「何を」
「その二人、付き合ってたんじゃないかって噂があったらしい」

 真田は息を止めた。

「噂?」
「もちろん、記事にはできないけど。寮内ではけっこう知られてたって」

 滝川は言いにくそうに続ける。

「で、外階段の件も、その人たちが関係してるんじゃないかって」

 真田の指先が、新聞の端を強く押さえた。

 朔。
 三〇七。
 外階段。
 来てくれると思っていた相手。

 まだ全部はつながらない。

 けれど、もう偶然ではなかった。

 真田は写真を撮り、榊へ送る。

『これ』
『藤代朔』
『隣、三〇七の赤丸のやつ』
『新聞部の話だと、付き合ってた噂あり』

 送信してから、真田は一瞬だけ目を閉じた。

 今度は、名前が頭から完全には落ちなかった。

 文字としてなら、残せる。
 記録としてなら、踏みとどまれる。

 なら、まだ間に合うかもしれない。

 三〇七では、榊のスマホが震えた。

 真田から送られてきた写真を見て、榊は眉を寄せる。

 藤代朔。
 隣に立つ、三〇七の生徒。

 距離が近い。
 噂になる程度には、近い。

 柏木がこれを見てどう反応するのか。
 真田には、正確には分からない。

 けれど、昨日の柏木を見ていれば、何も感じないとは思えなかった。

 あの名前を聞き取れない相手がそばにいる時の、柏木の目。
 見えない相手を否定されただけで、あれほど怒った顔。

 なら、この写真はまずい。

 柏木には見せられないと思った。
 少なくとも、今は。

 その時、もう一つ通知が来た。

 真田ではない。

 さっき榊がメッセージを送った相手からだった。
 画面に短い文が浮かぶ。

『その名前を、どこで見つけたんですか』

 榊は一瞬だけ息を止めた。
 忘れていない。

 その一文だけで、十分だった。