トイレに行く、と言って部屋を出た。
真田先輩は何か言いたそうだったけれど、さすがにそこまでは止めなかった。
ただ、「すぐ戻れよ」とだけ言った。
返事はした。
でも、廊下に出た瞬間、自分がトイレへ向かっていないことは分かっていた。
足が勝手に進む。
身体はまだ重いのに、胸の奥だけが妙に軽かった。
会いたい。
朔に会いたい。
さっきまで一緒にいたのに。
好きだと言われた声も、唇に残る感触も、まだ消えていないのに。
それでも、もう足りなかった。
渡り廊下へ続く角を曲がると、空気が少し冷えた。
窓の向こうに、封鎖された外階段が見える。
黄色いロープ。
古い手すり。
真新しい板が一枚だけ混じった、あの階段。
その前に、朔が立っていた。
外階段を見ている。
俺には、すぐに分かった。
呼ばれたのだと。
俺を待っていたのだと。
息が詰まるくらい嬉しくなって、気づけば駆け寄っていた。
「朔」
名前を呼ぶと、朔がゆっくり振り向いた。
その顔を見た瞬間、もう止まれなかった。
そのまま、朔の胸に飛び込む。
朔の腕が、当たり前みたいに俺を受け止めた。
背中に回る手。
髪に触れる指。
低く、近い吐息。
「透」
名前を呼ばれただけで、身体の奥がほどける。
ああ、やっぱり。
間違っていない。
この人が好きだ。
榊が何を言っても。
真田先輩が困った顔をしても。
この腕の中にいると、それだけで全部が正しいことみたいに思えてしまう。
怖いはずなのに。
おかしいはずなのに。
それでも、離れたくなかった。
けれど、朔の視線は俺ではなく、外階段の少し上に残っていた。
抱きしめられているのに、少しだけ遠い。
まるで、そこにまだ何かがあるみたいに。
誰かを、待っているみたいに。
「……ここで、何かあったんですか」
腕の中で訊くと、朔の手が一度だけ止まった。
風が、渡り廊下のガラスを小さく鳴らす。
「前に、好きな人がいた」
朔は、ぽつりと言った。
息が止まった。
胸の真ん中を、いきなり殴られたみたいだった。
好きな人。
その言葉だけが、頭の中で遅れて響く。
さっきまで抱きしめられていた熱が、一瞬で分からなくなった。
俺を見ていたはずの目も。
俺を呼んだ声も。
好きだと言ってくれた言葉も。
全部、本当に俺だけのものだったのか分からなくなる。
「……好きな人、ですか」
自分の声が、思ったより平らだった。
朔は俺を抱きしめたまま、外階段を見ていた。
「うん」
その返事がやさしくて、余計につらかった。
「来てくれると思ってた」
「……その人が?」
「うん」
朔は外階段を見たまま、小さく頷いた。
俺を抱きしめる腕は、まだほどけていない。
なのに、その言葉だけは、俺ではない誰かへ向いている気がした。
聞きたくない、と思った。
でも、聞かないまま抱きしめられているのは、もっと苦しかった。
「来なかったんですか」
「来なかった」
短い返事だった。
でも、その一言の中に、ずっと待っていた夜の冷たさが沈んでいる気がした。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「だから、透」
朔が俺を見る。
やわらかい目だった。
でも、その奥にある熱が、少し怖かった。
「今度は、一緒に来てくれる?」
今度は。
その言葉が、胸に刺さった。
前は、俺じゃない。
朔が待っていたのは、俺じゃない誰かだった。
好きだ。
朔のことが好きだ。
だからこそ、すぐには頷けなかった。
前に好きだった人。
来てくれると思っていた人。
来なかった人。
その人の代わりに、俺が呼ばれているのだとしたら。
特別だと、言われた。
その言葉に、あれほど身体の奥まで痺れたのに。
本当は、特別なんかじゃなくて。
前に来なかった誰かの代わりだったのかもしれない。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
「……少し、考えさせてください」
やっと、それだけ言った。
朔の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「透」
「ごめんなさい。でも、ちゃんと考えたいんです」
そう言った瞬間だった。
「柏木!」
背後から腕を掴まれた。
強い力だった。
振り向くと、真田先輩が息を切らして立っていた。
「戻るぞ」
「離してください」
「離したら行くだろ」
「まだ行くなんて言ってません」
「言う前に連れていかれる」
真田先輩の声は低かった。
朔の指が、俺の手から離れる
それが分かった瞬間、胸の奥がひやりとした。
「朔」
呼ぶと、真田先輩の手に力がこもった。
「その名前を呼ぶな」
「でも」
朔は、少しだけ笑っていた。
さっきと同じ、やさしい顔だった。
でも、どこか傷ついたようにも見えた。
「いいよ、透」
「朔」
「考えて」
その声は、やわらかかった。
「でも、俺のことを忘れないで」
次の瞬間、廊下の空気が揺れた。
朔の姿が、薄くなる。
「待って」
手を伸ばそうとしたのに、真田先輩が俺の腕を離さなかった。
「戻るぞ」
「真田先輩、離して」
「駄目だ」
「俺、まだ返事してないんです」
「返事してたら終わりだ」
その言い方に、胸の奥が熱くなる。
怒りなのか、悲しさなのか、自分でも分からなかった。
ただ、朔が消えた場所だけが、妙に暗く見えた。
真田先輩は何か言いたそうだったけれど、さすがにそこまでは止めなかった。
ただ、「すぐ戻れよ」とだけ言った。
返事はした。
でも、廊下に出た瞬間、自分がトイレへ向かっていないことは分かっていた。
足が勝手に進む。
身体はまだ重いのに、胸の奥だけが妙に軽かった。
会いたい。
朔に会いたい。
さっきまで一緒にいたのに。
好きだと言われた声も、唇に残る感触も、まだ消えていないのに。
それでも、もう足りなかった。
渡り廊下へ続く角を曲がると、空気が少し冷えた。
窓の向こうに、封鎖された外階段が見える。
黄色いロープ。
古い手すり。
真新しい板が一枚だけ混じった、あの階段。
その前に、朔が立っていた。
外階段を見ている。
俺には、すぐに分かった。
呼ばれたのだと。
俺を待っていたのだと。
息が詰まるくらい嬉しくなって、気づけば駆け寄っていた。
「朔」
名前を呼ぶと、朔がゆっくり振り向いた。
その顔を見た瞬間、もう止まれなかった。
そのまま、朔の胸に飛び込む。
朔の腕が、当たり前みたいに俺を受け止めた。
背中に回る手。
髪に触れる指。
低く、近い吐息。
「透」
名前を呼ばれただけで、身体の奥がほどける。
ああ、やっぱり。
間違っていない。
この人が好きだ。
榊が何を言っても。
真田先輩が困った顔をしても。
この腕の中にいると、それだけで全部が正しいことみたいに思えてしまう。
怖いはずなのに。
おかしいはずなのに。
それでも、離れたくなかった。
けれど、朔の視線は俺ではなく、外階段の少し上に残っていた。
抱きしめられているのに、少しだけ遠い。
まるで、そこにまだ何かがあるみたいに。
誰かを、待っているみたいに。
「……ここで、何かあったんですか」
腕の中で訊くと、朔の手が一度だけ止まった。
風が、渡り廊下のガラスを小さく鳴らす。
「前に、好きな人がいた」
朔は、ぽつりと言った。
息が止まった。
胸の真ん中を、いきなり殴られたみたいだった。
好きな人。
その言葉だけが、頭の中で遅れて響く。
さっきまで抱きしめられていた熱が、一瞬で分からなくなった。
俺を見ていたはずの目も。
俺を呼んだ声も。
好きだと言ってくれた言葉も。
全部、本当に俺だけのものだったのか分からなくなる。
「……好きな人、ですか」
自分の声が、思ったより平らだった。
朔は俺を抱きしめたまま、外階段を見ていた。
「うん」
その返事がやさしくて、余計につらかった。
「来てくれると思ってた」
「……その人が?」
「うん」
朔は外階段を見たまま、小さく頷いた。
俺を抱きしめる腕は、まだほどけていない。
なのに、その言葉だけは、俺ではない誰かへ向いている気がした。
聞きたくない、と思った。
でも、聞かないまま抱きしめられているのは、もっと苦しかった。
「来なかったんですか」
「来なかった」
短い返事だった。
でも、その一言の中に、ずっと待っていた夜の冷たさが沈んでいる気がした。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「だから、透」
朔が俺を見る。
やわらかい目だった。
でも、その奥にある熱が、少し怖かった。
「今度は、一緒に来てくれる?」
今度は。
その言葉が、胸に刺さった。
前は、俺じゃない。
朔が待っていたのは、俺じゃない誰かだった。
好きだ。
朔のことが好きだ。
だからこそ、すぐには頷けなかった。
前に好きだった人。
来てくれると思っていた人。
来なかった人。
その人の代わりに、俺が呼ばれているのだとしたら。
特別だと、言われた。
その言葉に、あれほど身体の奥まで痺れたのに。
本当は、特別なんかじゃなくて。
前に来なかった誰かの代わりだったのかもしれない。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
「……少し、考えさせてください」
やっと、それだけ言った。
朔の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「透」
「ごめんなさい。でも、ちゃんと考えたいんです」
そう言った瞬間だった。
「柏木!」
背後から腕を掴まれた。
強い力だった。
振り向くと、真田先輩が息を切らして立っていた。
「戻るぞ」
「離してください」
「離したら行くだろ」
「まだ行くなんて言ってません」
「言う前に連れていかれる」
真田先輩の声は低かった。
朔の指が、俺の手から離れる
それが分かった瞬間、胸の奥がひやりとした。
「朔」
呼ぶと、真田先輩の手に力がこもった。
「その名前を呼ぶな」
「でも」
朔は、少しだけ笑っていた。
さっきと同じ、やさしい顔だった。
でも、どこか傷ついたようにも見えた。
「いいよ、透」
「朔」
「考えて」
その声は、やわらかかった。
「でも、俺のことを忘れないで」
次の瞬間、廊下の空気が揺れた。
朔の姿が、薄くなる。
「待って」
手を伸ばそうとしたのに、真田先輩が俺の腕を離さなかった。
「戻るぞ」
「真田先輩、離して」
「駄目だ」
「俺、まだ返事してないんです」
「返事してたら終わりだ」
その言い方に、胸の奥が熱くなる。
怒りなのか、悲しさなのか、自分でも分からなかった。
ただ、朔が消えた場所だけが、妙に暗く見えた。
